微睡の淵の銀鎖
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放課後もだいぶ時間が過ぎた頃、学園の静けさを破るような爆発音が実習室から響き渡った。
偶然その場にいたのは■■■だった。
学園長から頼まれた備品を整理している最中、古い魔法薬の瓶が棚から崩れ落ち、未完成だった揮発性の薬液が床いっぱいに広がる。
「げほっ、ごほっ……」
思わず口元を押さえるものの、紫色の煙はあっという間に部屋中を満たしていく。
「なに、これ……」
吸い込んだ途端、足元がぐらりと揺れた。
視界は霞み、意識はゆっくりと沈んでいく。
「体が、動かな……」
膝から崩れ落ちそうになったその瞬間、誰かが煙の中へ飛び込んでくる。
「■■■!」
「……シルバー、先輩……」
シルバーは倒れかけた■■■をしっかりと抱き支えた。
「先輩……」
「話すな」
短く告げる声は、驚くほど落ち着いている。
「少しだけ耐えてくれ」
「でも……」
「お前を置いていくことはできない」
抱き上げた腕に力が入る。
ただでさえ眠気に抗えない体質だ。
薬の影響まで受ければ、立っていることすら難しいはずだった。
それでも彼は足を止めない。
◇
やがて実習室を抜け、新鮮な空気の流れる廊下へ出る。
さらに中庭まで歩き、噴水の縁へゆっくりと■■■を座らせた。
「深呼吸しろ」
「……っ」
「大丈夫だ、ゆっくりでいい」
震える肩を支えながら、シルバーは穏やかな声を掛け続ける。
薬の影響はまだ残っているらしく、■■■は不安そうに彼の制服を掴んだ。
「暗い……こわい……」
「大丈夫だ、俺がいる」
「シルバー……先輩……」
「ああ、ここにいる」
両手でそっと肩を包み込む。
強く抱き締めるのではなく、逃げ場を塞がないように、ただ安心してほしい、その一心だった。
「ごめんなさい……」
「謝る必要はない」
シルバーは静かに首を振る。
「今日は俺が支える番だ」
その言葉に、■■■はゆっくりと顔を上げた。
潤んだ瞳と視線が重なる。
「……先輩」
「俺は今まで、お前の優しさに甘えていたのかもしれない」
穏やかな声だった。
だが、その奥には強い後悔が滲んでいる。
「そんなこと……」
「今日、気づいた」
シルバーは静かに息を吐く。
「もし俺が眠っている間に、お前に何かあったら」
一度言葉を切り、小さく目を伏せた。
「きっと俺は、自分を許せない」
■■■は何も言えず、彼を見つめる。
「……■■■」
「はい」
「これからも、お前が困った時は真っ先に駆けつけたい」
その声は静かだった。
けれど一つひとつの言葉には揺るぎない決意が宿っている。
「お前が笑っていてくれることが、今の俺には何より大切なんだ」
■■■は目を瞬かせたあと、小さく笑った。
「わたし……」
「?」
「先輩が来てくれて、本当に安心しました」
その笑顔を見た瞬間、張り詰めていたシルバーの肩から力が抜ける。
「……そうか、よかった」
自然とシルバーの口元が緩んだ。
まだ少し青い顔をしている■■■を見て、シルバーは立ち上がる。
「歩けそうか?」
「少しなら」
「あまり無理はするな」
彼はそっと片手を差し出した。
■■■は少し迷ってから、その手を重ねる。
「ありがとうございます」
「寮まで送ろう」
「でも先輩も苦しいんじゃ……」
「俺は平気だ、気にするな」
「でも……」
「お前を送り届けるまでは、眠るわけにもいかないからな」
その言葉に■■■も思わず笑みをこぼした。
「じゃあ、一緒に帰りましょう」
シルバーは頷き、歩幅を合わせて歩き始める。
繋いだ手を引っ張ることも、強く握ることもない。
隣を歩く速さだけを確かめながら、静かな夕暮れの道を並んで進んでいった。
◇
オンボロ寮へ向かう道は静かだった。
夕焼けはすでに群青へと溶け込み、木々の影が足元へ長く伸びている。
「具合はどうだ」
「だいぶ楽になりました」
「無理はしていないか」
「してません。本当です」
そう言って笑う■■■を見て、シルバーはようやく肩の力を抜いた。
先ほどまで胸を締めつけていた焦りは薄れたものの、薬煙の中で倒れかけた姿が脳裏から離れない。
あと少し遅れていたら。
そんな考えがよぎるたび、心臓が強く脈打った。
「……先輩?」
「いや、お前が無事でよかった」
「今日は助けてもらってばっかりですね」
「そんなことはない」
「ありますよ」
「俺は、お前に助けられてきた」
シルバーは穏やかな口調で続ける。
「今日だって、お前を助けられたのは……お前が今まで何度も俺を支えてくれたからだ」
■■■は驚いたように目を見開く。
「わたしは、そんな大したことしてないです」
「そんなことはない」
迷いなく言い切る。
「だから今度は、俺が応えたい」
飾り気もない静かな言葉だった。
それでも、その真っ直ぐな想いは■■■の胸へ自然と届いていた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは俺の方だ」
二人はゆっくり歩き続ける。
少し風が吹き、■■■の前髪が揺れた。
その様子を見たシルバーが、無意識に手を伸ばしかける。
だが途中で動きを止め、小さく笑った。
「……すまない」
「え?」
「つい、触れようとしてしまった」
「ふふっ」
■■■は自分で髪を整える。
「大丈夫ですよ」
「そうか」
そのやり取りだけで、不思議と心が落ち着く。
少し前まで、自分はこんな穏やかな時間さえ失うところだった。
そう思うと、シルバーは静かに息を吐いた。
「■■■」
「はい?」
「今日は怖い思いをしただろう」
「先輩のせいじゃありません」
「それでも、もしまた同じことがあれば、俺は迷わず駆けつける」
その瞳に宿る決意は揺るがない。
「お前が嫌でなければ……」
その一言を添えたことで、言葉は押しつけではなく願いへと変わる。
■■■は少しだけ目を潤ませながら頷いた。
「嬉しいです。先輩が来てくれると安心します」
シルバーは一瞬だけ目を見開いた。
そして照れ隠しのように視線を逸らす。
「……そう言ってもらえると、俺も嬉しい」
「先輩でも照れるんですね」
「……慣れていないからな」
「意外です」
「お前の前では特に……」
ぽつりと漏れた本音に、今度は■■■が固まる番だった。
「えっ……」
「……すまない」
シルバーは耳の先をわずかに赤くしながら苦笑する。
「思ったことが、そのまま口に出てしまった」
「びっくりしました」
「困らせたか?」
「いえ……」
そう答えながらも、■■■は嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥が静かに満たされていく。
これまで感じていた焦りや不安とは違う。
そばにいたい。
守りたい。
そして、いつか自分の気持ちをきちんと伝えたい。
その願いが、ゆっくりと形になっていく。
◇
やがてオンボロ寮が見えてきた。
「着いたな」
「送ってくださってありがとうございました」
「礼を言う必要はない」
「でも、本当に助かりました」
■■■は小さく頭を下げる。
「今度、改めてお礼させてください」
「礼なら十分受け取った」
「え?」
「お前が笑ってくれた。それだけで十分だ」
■■■は少し照れながらも、その笑みに笑顔で返した。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「ああ……よく休め」
「先輩もですよ」
「努力しよう」
「努力、なんですね」
「眠気には勝てないこともある」
肩をすくめる姿に、■■■は思わず吹き出した。
「ふふっ。そういうところ、先輩らしいです」
「また明日」
「はい、また明日」
■■■が寮の中へ入っていくまで見届けると、シルバーはようやく踵を返した。
◇
夜も更けたディアソムニア寮。
自室へ戻ったシルバーは、静かに窓辺へ立つ。
月明かりが差し込む部屋で、今日一日を思い返した。
煙の中で見た■■■の苦しそうな表情。
自分の名を呼んだ震える声。
そして最後に見せてくれた安心した笑顔。
眠気は少しずつ戻ってきていた。
それでも、不思議と心は穏やかだった。
守りたい。
その気持ちは以前からあった。
けれど今日、自分にとって■■■がどれほど大切な存在なのかを、改めて思い知らされた。
「……また明日、か」
その小さな呟きを最後に、シルバーはようやくベッドへ身を預けた。
瞼がゆっくりと閉じていく。
今夜の夢はきっと穏やかなものになる。
そう思えたのは、明日また■■■に会えると信じられたからだった。