微睡の淵の銀鎖
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学園の静寂を切り裂くように、実習室から爆発音が響いたのは放課後も随分と時間が経過した頃だった。
不運にも、その場に居合わせたのはオンボロ寮のななしだった。
学園長から頼まれた備品の整理をしていた彼女の目の前で、古い魔法薬の瓶が棚から崩れ落ち、未完成の揮発性薬液が床に広がってしまった。
「げほっ、ごほっ……! あ、危なかった……」
ななしは咄嗟に腕で口元を覆ったが、立ち込める紫色の煙は瞬く間に部屋を支配し彼女の意識を混濁させていく。この薬液は、吸い込めば強力な睡魔と現実を歪ませる幻覚を見せる代物だった。
「だめ……体が、動かない……。……誰か……」
視界がぼやけ、足元が崩れるような感覚に陥る。倒れそうになったななしの視界に、扉を蹴破るようにして飛び込んできた人影が映った。
「ななし!!」
それは誰よりも早く異変を察知し、駆けつけたシルバーだった。彼は迷うことなく煙の中へと踏み込み、崩れ落ちるななしの体を、その逞しい腕でしっかりと抱きとめた。
「シルバー、先輩……? ……だめ、先輩も寝ちゃう……逃げて……」
「黙っていろ。……ななしを置いていくなどできるか」
シルバーの瞳はこれまでに見たことがないほど鋭く、冷徹なまでの光を宿していた。本来ならば、この強力な魔法薬の煙を浴びれば、彼自身の体質も相まって、一瞬で深い眠りに落ちてしまうはずだった。だが今のシルバーは違った。
「(……眠るな。……今、俺が意識を失えば、彼女を守れる者は誰もいない)」
シルバーは自分の唇を、血が滲むほど強く噛み締めた。激痛で脳を無理やり覚醒させ薬液の魔力に抗う。彼の内側で、かつてないほどの熱い感情が渦巻いていた。それは眠りという抗えない宿命に対する、初めての怒りだった。
「……っ……はぁ、はぁ……。……ななし、しっかりしろ。今、ここから出す」
シルバーは彼女を横抱きにすると、一気に実習室の外へと走り出た。廊下に出て新鮮な空気を吸い込む。だが薬の効果はしつこく、ななしの意識はまだ混濁したままだった。
「あ……シルバー、先輩……。……こわい、暗いよ……」
ななしが幻覚に怯え、彼の胸元に縋り付く。
シルバーは中庭の噴水の縁に彼女を座らせると、自分もその隣に膝をつき彼女の肩を強く抱き寄せた。
「怖くない。……俺がここにいる。ななし、俺を見ろ。俺だ、シルバーだ」
「……しるばー、せんぱい……。……ごめんなさい、いつも、わたしが、支えるって……言ってたのに……」
「いいんだ。……そんなことは、どうでもいい」
シルバーは、ななしの頬を両手で包み込んだ。
彼の掌は、今までにないほど熱を帯び、震えていた。
ななしを守りきった安堵感と、彼女を失いかけた恐怖。そして弱っている彼女を目の当たりにして溢れ出した、抑えきれないほどの所有欲。それらが混ざり合い、彼の中で一つの自覚として結晶化していった。
「……ななし。……俺は今まで、ななしに支えられている自分に甘えていた。どこかで、眠ってしまう自分を許していたんだ。お前の優しさに依存していた」
シルバーの声は夕暮れの静寂に重く響いた。
ななしが少しずつ意識を取り戻し、潤んだ瞳で彼を見上げる。
「……先輩……?」
「だが今日理解した。俺が眠っている間、ななしに危険が及んだら……俺は一生、自分を呪い続けても足りない。ななしを守るのは、俺の義務ではない。俺の魂が求めている、唯一の望みなんだ」
シルバーは、彼女の額に自分の額をそっと押し当てた。
二人の吐息が混じり合うほどの至近距離。
普段のシルバーなら、ここで心地よい眠気に抗えなくなっていた。だが、今の彼は、ななしの存在をこれ以上ないほど鮮明に感じ、一秒たりとも意識を逸らしたくないと強く願っていた。
「……お前を、誰にも渡したくない。この微睡みさえもななしを奪う敵になるなら、俺は一生眠らなくてもいいとさえ思う」
「……シルバー先輩。……わたしも、先輩がいなきゃ……だめです」
「……。……そうか。……なら、いい」
シルバーは、ななしの手を握りしめた。
それは、これまでの助けてもらう側としての手つきではない。
決して離さない。逃がさない。自分以外の誰にも、その温もりを触れさせない。そんな静かな、けれど苛烈な鎖のような独占欲。
「ななし。……俺はななしを、俺だけのものにしたい……」
「……っ……」
ななしは、彼の瞳の奥に宿る熱に当てられ、言葉を失う。あの日、回廊で肩を貸し合っていた穏やかな関係は、もう過去のものだった。シルバーは、自らの内に眠っていた牙を、ついに自覚したのだ。
「……まだ、顔色が悪いな。寮まで送る。……今日は、もうお前を離さない」
シルバーは立ち上がり、ななしの腰を抱き寄せて自分の体に密着させた。彼から伝わってくるのは、以前のような静かな眠気の気配ではない。激しく、一途な、焼き尽くすような熱情だった。
◇
その日の深夜。
オンボロ寮の前にななしを送り届けたシルバーは、しばらくその場を動かなかった。
月光の下、自分の手のひらを見つめる。そこには、彼女を抱きとめた時の感触と、震えがまだ残っていた。
シルバーは、ふっと自嘲気味に口角を上げる。
これまでの彼は、運命に抗うことを諦めていたのかもしれない。
だが、今は違う。
ななしの消え入りそうな姿を思い出す。
「……見ていてくれ、ななし。……俺が、ななしにとって最も頼れる……お前を逃さない、鎖になる」
シルバーは一度だけななしの部屋の窓を見上げると、力強い足取りで闇の中へと消えていった。
眠れる森の騎士は、もういない。
そこにいるのは愛する人を守るため、そして手に入れるために覚醒した、一人の男だけだった。
不運にも、その場に居合わせたのはオンボロ寮のななしだった。
学園長から頼まれた備品の整理をしていた彼女の目の前で、古い魔法薬の瓶が棚から崩れ落ち、未完成の揮発性薬液が床に広がってしまった。
「げほっ、ごほっ……! あ、危なかった……」
ななしは咄嗟に腕で口元を覆ったが、立ち込める紫色の煙は瞬く間に部屋を支配し彼女の意識を混濁させていく。この薬液は、吸い込めば強力な睡魔と現実を歪ませる幻覚を見せる代物だった。
「だめ……体が、動かない……。……誰か……」
視界がぼやけ、足元が崩れるような感覚に陥る。倒れそうになったななしの視界に、扉を蹴破るようにして飛び込んできた人影が映った。
「ななし!!」
それは誰よりも早く異変を察知し、駆けつけたシルバーだった。彼は迷うことなく煙の中へと踏み込み、崩れ落ちるななしの体を、その逞しい腕でしっかりと抱きとめた。
「シルバー、先輩……? ……だめ、先輩も寝ちゃう……逃げて……」
「黙っていろ。……ななしを置いていくなどできるか」
シルバーの瞳はこれまでに見たことがないほど鋭く、冷徹なまでの光を宿していた。本来ならば、この強力な魔法薬の煙を浴びれば、彼自身の体質も相まって、一瞬で深い眠りに落ちてしまうはずだった。だが今のシルバーは違った。
「(……眠るな。……今、俺が意識を失えば、彼女を守れる者は誰もいない)」
シルバーは自分の唇を、血が滲むほど強く噛み締めた。激痛で脳を無理やり覚醒させ薬液の魔力に抗う。彼の内側で、かつてないほどの熱い感情が渦巻いていた。それは眠りという抗えない宿命に対する、初めての怒りだった。
「……っ……はぁ、はぁ……。……ななし、しっかりしろ。今、ここから出す」
シルバーは彼女を横抱きにすると、一気に実習室の外へと走り出た。廊下に出て新鮮な空気を吸い込む。だが薬の効果はしつこく、ななしの意識はまだ混濁したままだった。
「あ……シルバー、先輩……。……こわい、暗いよ……」
ななしが幻覚に怯え、彼の胸元に縋り付く。
シルバーは中庭の噴水の縁に彼女を座らせると、自分もその隣に膝をつき彼女の肩を強く抱き寄せた。
「怖くない。……俺がここにいる。ななし、俺を見ろ。俺だ、シルバーだ」
「……しるばー、せんぱい……。……ごめんなさい、いつも、わたしが、支えるって……言ってたのに……」
「いいんだ。……そんなことは、どうでもいい」
シルバーは、ななしの頬を両手で包み込んだ。
彼の掌は、今までにないほど熱を帯び、震えていた。
ななしを守りきった安堵感と、彼女を失いかけた恐怖。そして弱っている彼女を目の当たりにして溢れ出した、抑えきれないほどの所有欲。それらが混ざり合い、彼の中で一つの自覚として結晶化していった。
「……ななし。……俺は今まで、ななしに支えられている自分に甘えていた。どこかで、眠ってしまう自分を許していたんだ。お前の優しさに依存していた」
シルバーの声は夕暮れの静寂に重く響いた。
ななしが少しずつ意識を取り戻し、潤んだ瞳で彼を見上げる。
「……先輩……?」
「だが今日理解した。俺が眠っている間、ななしに危険が及んだら……俺は一生、自分を呪い続けても足りない。ななしを守るのは、俺の義務ではない。俺の魂が求めている、唯一の望みなんだ」
シルバーは、彼女の額に自分の額をそっと押し当てた。
二人の吐息が混じり合うほどの至近距離。
普段のシルバーなら、ここで心地よい眠気に抗えなくなっていた。だが、今の彼は、ななしの存在をこれ以上ないほど鮮明に感じ、一秒たりとも意識を逸らしたくないと強く願っていた。
「……お前を、誰にも渡したくない。この微睡みさえもななしを奪う敵になるなら、俺は一生眠らなくてもいいとさえ思う」
「……シルバー先輩。……わたしも、先輩がいなきゃ……だめです」
「……。……そうか。……なら、いい」
シルバーは、ななしの手を握りしめた。
それは、これまでの助けてもらう側としての手つきではない。
決して離さない。逃がさない。自分以外の誰にも、その温もりを触れさせない。そんな静かな、けれど苛烈な鎖のような独占欲。
「ななし。……俺はななしを、俺だけのものにしたい……」
「……っ……」
ななしは、彼の瞳の奥に宿る熱に当てられ、言葉を失う。あの日、回廊で肩を貸し合っていた穏やかな関係は、もう過去のものだった。シルバーは、自らの内に眠っていた牙を、ついに自覚したのだ。
「……まだ、顔色が悪いな。寮まで送る。……今日は、もうお前を離さない」
シルバーは立ち上がり、ななしの腰を抱き寄せて自分の体に密着させた。彼から伝わってくるのは、以前のような静かな眠気の気配ではない。激しく、一途な、焼き尽くすような熱情だった。
◇
その日の深夜。
オンボロ寮の前にななしを送り届けたシルバーは、しばらくその場を動かなかった。
月光の下、自分の手のひらを見つめる。そこには、彼女を抱きとめた時の感触と、震えがまだ残っていた。
シルバーは、ふっと自嘲気味に口角を上げる。
これまでの彼は、運命に抗うことを諦めていたのかもしれない。
だが、今は違う。
ななしの消え入りそうな姿を思い出す。
「……見ていてくれ、ななし。……俺が、ななしにとって最も頼れる……お前を逃さない、鎖になる」
シルバーは一度だけななしの部屋の窓を見上げると、力強い足取りで闇の中へと消えていった。
眠れる森の騎士は、もういない。
そこにいるのは愛する人を守るため、そして手に入れるために覚醒した、一人の男だけだった。
