微睡の淵の銀鎖
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その日のシルバーはディアソムニア寮の誰もが異変を感じるほどに、普段とは違っていた。
普段の彼ならば、ふとした瞬間に意識を飛ばし、穏やかな寝息を立て始めているはずだった。だが今日の彼は鋭い眼光を崩さず、まるで何かに取り憑かれたように鍛錬に打ち込んでいる。
訓練場に、木刀が空を裂く鋭い音が響き渡る。
シルバーの額からは汗が滴り、肩は激しく上下していた。だがその瞳に宿る光は、眠気など微塵も感じさせないほどに熱く、冴え渡っている。
「……シルバー。貴様、一体どうしたというのだ!」
耐えかねたように声を上げたのは、共に訓練に励んでいたセベク・ジグボルトだった。彼は、いぶかしげにシルバーを睨みつける。
「今日の貴様は、まるで飢えた獣のようだ! 先ほどから一言も発さず、休憩も取らず……。睡魔に襲われていないのは良いことだが、これでは体が持たんぞ!」
「……セベクか。……すまない、少し集中しすぎていたようだ」
シルバーは荒い息を整えながら、首筋の汗を拭った。その際、彼の胸ポケットから丁寧に畳まれた一枚のタオルが覗く。それは、先日ななしから借りた、少し使い古された、けれど彼女の温もりが残るあのタオルだった。
「そのタオル……。貴様、まだ持っていたのか! さっさと返せと言っただろう!」
「……ああ。……洗って返すつもりだったのだが、どうにも……手放し難くてな」
「何を馬鹿なことを言っている! 不潔極まりないぞ!」
「不潔ではない。……これは、俺の『錨』なんだ」
「イカリだと?」
シルバーは、タオルの柔らかな感触を指先で確かめながら、遠くを見つめるように目を細めた。
「俺は、すぐに意識を失う。……眠りという深い海の底へ、抗う術もなく沈んでいってしまう。……だがこれを手にしていると、――ななしの匂いがするんだ。その匂いが俺の意識をこの現実に繋ぎ止めてくれる」
「……っ……。貴様、何をさらりと恥ずかしいことを……!」
セベクが顔を赤くして絶句するが、シルバーは至って真面目だった。彼にとって、ななしへの想いはすでに、騎士道や忠誠心とは別の、もっと個人的でもっと激しい渇望へと形を変えていた。
「俺は今まで、眠ってしまう自分を運命だと思って受け入れていた。だが、最近はそれが堪らなく恐ろしい。俺が眠っている間に、ななしが他の誰かに微笑みかけているのではないか。俺の知らない間に、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。……そう思うと、眠っている暇などないのだ」
シルバーの中に芽生えたのは、生まれて初めて抱く独占欲だった。
「セベク。……俺は、彼女を誰にも渡したくない。たとえ、俺自身の眠気であっても、彼女との時間を奪うことは許さない」
「……シルバー。貴様、それはもう、ただの護衛対象への感情ではないぞ」
「ああ。……わかっている。……俺は一人の男として、ななしを愛しているんだ」
その言葉は、訓練場の乾いた空気に重く、熱く響いた。
その日の放課後。シルバーは、オンボロ寮の近くにある古びた東屋で、ななしと待ち合わせをしていた。タオルの返却と、そして何より今の自分の熱を確かめるために。
「シルバー先輩! お待たせしました!」
ななしが明るい声を上げて駆け寄ってくる。その笑顔を見るたびにシルバーの胸の奥は、締め付けられるような甘い痛みに襲われる。
「ななし。来てくれて感謝する」
「練習、大変だったみたいですね。汗が……あ、タオル返してもらう前にまた貸しましょうか?」
ななしが何気なくシルバーの頬に手を伸ばし、汗を拭おうとした。その瞬間、シルバーは彼女の手首を、逃がさないような強い力で掴んだ。
「……えっ。……シルバー、先輩?」
「……ななし。……少しだけ、このままでいてくれ」
シルバーの瞳が、至近距離で彼女を射抜く。
いつもなら、この距離になれば彼は心地よい眠気に誘われ、ななしの肩に頭を預けてしまうはずだった。だが今の彼の瞳には、眠気の「ね」の字も見当たらない。代わりにそこにあるのは、獲物を捕らえたような静かで激しい情熱だった。
「先輩……? どうしたんですか、そんなに怖い顔して……」
「……怖いか? ……すまない。だが、俺は今、必死なんだ」
「必死?」
「ああ。……お前を、このまま腕の中に閉じ込めてしまいたいという衝動と、戦っている」
シルバーの声は地を這うように低く、熱を持っていた。
彼は掴んだななしの手を、ゆっくりと自分の唇へと寄せた。指先に彼の熱い呼気がかかる。
「俺は今まで、どこでも寝てしまう自分を恥じていた。……だが、今は違う。ななしが俺を支えてくれるから、俺は眠ることを恐れずに済んだ。……だが、今は……」
シルバーは彼女の指先に、噛み付くような深さで、けれど優しく口づけを落とした。
「……ななしが隣にいると、血が煮え立つように熱い。眠気など、どこかへ消え去ってしまうほどに。……ななし、俺を……ただの男だと思わないでくれ」
「シルバー、先輩……。わたし、そんな……」
「ななしが他の誰かと話しているのを見るだけで、俺の胸の中は、掻き毟られるような想いがする。これは俺が今まで知らなかった、醜い感情だ。……だが、止められない」
シルバーは彼女の手を離すと、今度はその細い肩を抱き寄せ、自分の胸の中に強く押し込めた。心臓の音が、ななしの耳に雷鳴のように響く。眠気をねじ伏せた代償に、彼の体はかつてないほどの熱を帯びていた。
「今はまだ、お前を困らせるわけにはいかない。……だが、覚悟しておいてほしい」
シルバーはななしの耳元で、甘く、けれど残酷な宣告をするように囁いた。
「次に俺が目覚めたとき、俺は……ななしのすべてを、俺だけのものにするために動くかもしれない。……そのときは、もう……逃さない」
「……っ……」
ななしは、言葉も出ずに、ただ彼の腕の中で震えることしかできなかった。シルバーの、眠気さえも焼き尽くすような執着。それは穏やかだった二人の日常に、愛の始まりを刻んでいた。
◇
ディアソムニア寮の自室でシルバーは一人、暗闇の中で天井を見つめていた。いつもなら、ベッドに入った瞬間に意識を失うはずの彼が、今日は一向に眠りにつけない。
手のひらに残る、ななしの肌の感触。
鼻をくすぐる、彼女の匂い。
「………………ふぅ」
シルバーは起き上がり、窓の外に浮かぶ月を見上げた。
今夜、自分が彼女に言った言葉を反芻する。それは誓いではなく、一人の男としての剥き出しの欲望だった。
「(……俺は、壊れてしまったのかもしれない。……だが、悪くない気分だ)」
シルバーは机の上に置かれたあのタオルを、もう一度手に取った。
眠ることも目覚めることも、すべてがななしへと続く道なのだと感じている。
シルバーの口元に、微かな、けれど確かな自信を秘めた微笑みを浮かべた。
普段の彼ならば、ふとした瞬間に意識を飛ばし、穏やかな寝息を立て始めているはずだった。だが今日の彼は鋭い眼光を崩さず、まるで何かに取り憑かれたように鍛錬に打ち込んでいる。
訓練場に、木刀が空を裂く鋭い音が響き渡る。
シルバーの額からは汗が滴り、肩は激しく上下していた。だがその瞳に宿る光は、眠気など微塵も感じさせないほどに熱く、冴え渡っている。
「……シルバー。貴様、一体どうしたというのだ!」
耐えかねたように声を上げたのは、共に訓練に励んでいたセベク・ジグボルトだった。彼は、いぶかしげにシルバーを睨みつける。
「今日の貴様は、まるで飢えた獣のようだ! 先ほどから一言も発さず、休憩も取らず……。睡魔に襲われていないのは良いことだが、これでは体が持たんぞ!」
「……セベクか。……すまない、少し集中しすぎていたようだ」
シルバーは荒い息を整えながら、首筋の汗を拭った。その際、彼の胸ポケットから丁寧に畳まれた一枚のタオルが覗く。それは、先日ななしから借りた、少し使い古された、けれど彼女の温もりが残るあのタオルだった。
「そのタオル……。貴様、まだ持っていたのか! さっさと返せと言っただろう!」
「……ああ。……洗って返すつもりだったのだが、どうにも……手放し難くてな」
「何を馬鹿なことを言っている! 不潔極まりないぞ!」
「不潔ではない。……これは、俺の『錨』なんだ」
「イカリだと?」
シルバーは、タオルの柔らかな感触を指先で確かめながら、遠くを見つめるように目を細めた。
「俺は、すぐに意識を失う。……眠りという深い海の底へ、抗う術もなく沈んでいってしまう。……だがこれを手にしていると、――ななしの匂いがするんだ。その匂いが俺の意識をこの現実に繋ぎ止めてくれる」
「……っ……。貴様、何をさらりと恥ずかしいことを……!」
セベクが顔を赤くして絶句するが、シルバーは至って真面目だった。彼にとって、ななしへの想いはすでに、騎士道や忠誠心とは別の、もっと個人的でもっと激しい渇望へと形を変えていた。
「俺は今まで、眠ってしまう自分を運命だと思って受け入れていた。だが、最近はそれが堪らなく恐ろしい。俺が眠っている間に、ななしが他の誰かに微笑みかけているのではないか。俺の知らない間に、どこか遠くへ行ってしまうのではないか。……そう思うと、眠っている暇などないのだ」
シルバーの中に芽生えたのは、生まれて初めて抱く独占欲だった。
「セベク。……俺は、彼女を誰にも渡したくない。たとえ、俺自身の眠気であっても、彼女との時間を奪うことは許さない」
「……シルバー。貴様、それはもう、ただの護衛対象への感情ではないぞ」
「ああ。……わかっている。……俺は一人の男として、ななしを愛しているんだ」
その言葉は、訓練場の乾いた空気に重く、熱く響いた。
その日の放課後。シルバーは、オンボロ寮の近くにある古びた東屋で、ななしと待ち合わせをしていた。タオルの返却と、そして何より今の自分の熱を確かめるために。
「シルバー先輩! お待たせしました!」
ななしが明るい声を上げて駆け寄ってくる。その笑顔を見るたびにシルバーの胸の奥は、締め付けられるような甘い痛みに襲われる。
「ななし。来てくれて感謝する」
「練習、大変だったみたいですね。汗が……あ、タオル返してもらう前にまた貸しましょうか?」
ななしが何気なくシルバーの頬に手を伸ばし、汗を拭おうとした。その瞬間、シルバーは彼女の手首を、逃がさないような強い力で掴んだ。
「……えっ。……シルバー、先輩?」
「……ななし。……少しだけ、このままでいてくれ」
シルバーの瞳が、至近距離で彼女を射抜く。
いつもなら、この距離になれば彼は心地よい眠気に誘われ、ななしの肩に頭を預けてしまうはずだった。だが今の彼の瞳には、眠気の「ね」の字も見当たらない。代わりにそこにあるのは、獲物を捕らえたような静かで激しい情熱だった。
「先輩……? どうしたんですか、そんなに怖い顔して……」
「……怖いか? ……すまない。だが、俺は今、必死なんだ」
「必死?」
「ああ。……お前を、このまま腕の中に閉じ込めてしまいたいという衝動と、戦っている」
シルバーの声は地を這うように低く、熱を持っていた。
彼は掴んだななしの手を、ゆっくりと自分の唇へと寄せた。指先に彼の熱い呼気がかかる。
「俺は今まで、どこでも寝てしまう自分を恥じていた。……だが、今は違う。ななしが俺を支えてくれるから、俺は眠ることを恐れずに済んだ。……だが、今は……」
シルバーは彼女の指先に、噛み付くような深さで、けれど優しく口づけを落とした。
「……ななしが隣にいると、血が煮え立つように熱い。眠気など、どこかへ消え去ってしまうほどに。……ななし、俺を……ただの男だと思わないでくれ」
「シルバー、先輩……。わたし、そんな……」
「ななしが他の誰かと話しているのを見るだけで、俺の胸の中は、掻き毟られるような想いがする。これは俺が今まで知らなかった、醜い感情だ。……だが、止められない」
シルバーは彼女の手を離すと、今度はその細い肩を抱き寄せ、自分の胸の中に強く押し込めた。心臓の音が、ななしの耳に雷鳴のように響く。眠気をねじ伏せた代償に、彼の体はかつてないほどの熱を帯びていた。
「今はまだ、お前を困らせるわけにはいかない。……だが、覚悟しておいてほしい」
シルバーはななしの耳元で、甘く、けれど残酷な宣告をするように囁いた。
「次に俺が目覚めたとき、俺は……ななしのすべてを、俺だけのものにするために動くかもしれない。……そのときは、もう……逃さない」
「……っ……」
ななしは、言葉も出ずに、ただ彼の腕の中で震えることしかできなかった。シルバーの、眠気さえも焼き尽くすような執着。それは穏やかだった二人の日常に、愛の始まりを刻んでいた。
◇
ディアソムニア寮の自室でシルバーは一人、暗闇の中で天井を見つめていた。いつもなら、ベッドに入った瞬間に意識を失うはずの彼が、今日は一向に眠りにつけない。
手のひらに残る、ななしの肌の感触。
鼻をくすぐる、彼女の匂い。
「………………ふぅ」
シルバーは起き上がり、窓の外に浮かぶ月を見上げた。
今夜、自分が彼女に言った言葉を反芻する。それは誓いではなく、一人の男としての剥き出しの欲望だった。
「(……俺は、壊れてしまったのかもしれない。……だが、悪くない気分だ)」
シルバーは机の上に置かれたあのタオルを、もう一度手に取った。
眠ることも目覚めることも、すべてがななしへと続く道なのだと感じている。
シルバーの口元に、微かな、けれど確かな自信を秘めた微笑みを浮かべた。
