微睡の淵の銀鎖
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試験期間中のナイトレイブンカレッジの図書室は、昼夜を問わず独特の緊張感に包まれている。
だが閉館間際のこの時間ともなれば、睡魔に負けて机に突っ伏す生徒や、虚空を見つめる生徒ばかりが目立つようになる。
オンボロ寮のななしもその一人だった。学園長から押し付けられた特別課題の資料を整理しながら、何度も漏れそうになる欠伸を噛み殺す。
「(……眠い。でも、これをやっとかないと明日の試験範囲が……)」
そんなななしの視線の先。二つ隣の席に、彫刻のように整った横顔が見えた。
シルバーだ。
彼は教科書を立てたままペンを右手に握り、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っている。一見すると猛勉強中のように見えるが、その長い睫毛はぴくりとも動かず、穏やかな寝息が静かな図書室に響いていた。
「(……あ、やっぱり寝てる)」
ななしは椅子を引いて立ち上がり、足音を忍ばせてシルバーに近づいた。
シルバーの寝顔は、月光に照らされてどこか幻想的だ。だが、手元のノートを見ると、そこには「馬術部の……」という書き出しから始まり、最後の方は力尽きたようにミミズが這ったような線が延々と続いていた。
「シルバー先輩。シルバー先輩、起きてください。もうすぐ閉館ですよ」
「…………」
「……だめだ、全然起きない。……シルバー先輩っ、起きて!」
ななしが彼の肩を強めに揺さぶると、シルバーの頭がカクンと揺れ、ゆっくりと瞼が開かれた。だが、その瞳は完全に虚空を彷徨っている。
「……ん……。……リリア様、その……コウモリのスープは……もう、お腹が……いっぱい、で……」
「……リリア先輩の料理の夢を見てる。相当うなされてるな……」
「……む。……ななし、か? ……すまない、また失態を。……今、とても恐ろしい物を口にする夢を見ていた……」
シルバーはハッと意識を取り戻すと、額の汗を拭いながら深いため息をついた。
「……先輩、そんなに眠いなら無理しないで寮に帰ってください」
「いや、そうはいかない」
「でも、そのペン、逆さまに持ってますよ?」
「…………………………指摘に感謝する」
シルバーは大真面目な顔でペンを持ち直したが、数秒後にはまた船を漕ぎ始めていた。カクン、カクンと揺れる頭が、ついに机の角に当たりそうになる。
「危ないっ!」
ななしは慌てて自分の手をシルバーの額の前に差し出した。
ゴツン、と柔らかい手のひらに彼の額が当たる。
「…………温かい……。……ふかふかだ……」
「先輩! わたしの手をお餅か何かだと思ってません!? 起きてください!」
「…………ななしの手は、いつも…………陽だまりの、匂いが、する…………落ち着く……」
シルバーはななしの手を額で押さえたまま完全に寝入ってしまった。ななしの手のひらに、彼の熱い体温と心地よい重みが伝わってくる。
「(……もう。これじゃ、わたしも動けないじゃないですか)」
ななしは仕方なく、空いている方の手で自分の椅子をシルバーの隣まで引き寄せ、そこに腰を下ろした。
月明かりが二人の手元を照らし、影が重なり合う。
シルバーの寝顔は、近くで見ると驚くほど幼い。普段は気を張っている彼も、眠りの中ではただの少年に見える。
「シルバー先輩……。起きたら、肩とか痛くなっちゃいますよ?」
「…………ん。……。…………ななし……」
寝言で自分の名前を呼ばれ、ななしはドキリとして心臓を抑えた。奥手な自分にとって、彼とのこの距離感は心臓に悪いことこの上ない。
「(……先輩は、わたしのこと、どう思ってるのかな)」
ななしは、彼に預けたままの手の指先を、ほんの少しだけ動かした。
すると、シルバーがそれに応えるように、無意識のうちにななしの手首を大きな手でそっと包み込んだ。
「……。……行かないで、くれ……」
「……先輩?」
「……………………」
そこから先は、また深い寝息に変わってしまった。
ななしは顔を真っ赤にしながら、逃げることもできず、ただ彼の寝息のテンポに合わせて自分の呼吸を整えた。
静かな図書室。
聞こえてくるのは、古い時計が刻む音と二人の呼吸音だけ。
ななしはシルバーの手首を掴む手の温かさを感じながら、もう片方の手で静かに資料を読み進める。
「(……もう少しだけ、こうしていよう。……先輩が、いい夢を見られるように)」
◇
数分後。
シルバーがふと、薄く目を開けた。
視界には、すぐ隣で自分の手を支えながら静かに本を読むななしの横顔があった。彼はまだ夢の中にいるような気分で、彼女の柔らかな髪をじっと見つめた。
「……。……ななし」
「あ、シルバー先輩! 起きました?」
「…………いや。……まだ、夢の、途中、かもしれない。……こんなに、穏やかな心地なのは……初めてだ」
シルバーはななしの手を握ったまま、自分の頬にその手を寄せた。彼の肌の冷たさと、手のひらの熱が混ざり合う。
「先輩、何してるんですか……! 恥ずかしいですよ」
「…………なぜだろうな。……お前が隣にいると、眠ることも目覚めることも……どちらも、幸せなことに思えてくるんだ」
シルバーはそう言って、優しく微笑んだ。その笑顔は、いつもの彼よりもずっと柔和で、包み込むような優しさに満ちていた。
ななしは、何も言えずにただ彼を見つめ返す。
「……寮まで送る。……夜道は、危険だからな」
「……さっきまで寝てた人が言う台詞じゃないですよ、先輩」
「……そうだな。……だが、お前を守ることだけは……眠っていても、忘れないつもりだ」
シルバーはゆっくりと手を離し、今度はしっかりとペンを握り直した。彼の耳の先端が、微かに赤くなっているのをななしは見逃さなかった。
夕暮れの図書室。
二人はそれ以上何も言わなかったが、机の下で、お互いの靴の先がほんの少しだけ触れ合っていた。
閉館のチャイムが鳴るまで、あとわずか。
二人のペンが走る音だけが、心地よいリズムを刻み続けていた。
◇
図書室を出た後、シルバーは宣言通り、ななしをオンボロ寮まで送ることにした。しかし、学園の中庭を抜けるあたりで、彼は再び強い眠気に襲われた。
「……シルバー先輩? 寝ながら歩いてます?」
「…………いや、これは……目を休めているだけだ……。……騎士の、特殊な、歩行術……」
「そんな術ありませんって! ほら、わたしの服の裾、掴んでてください。迷子にならないように」
「……ああ。……感謝、する。……。……。……ふふ」
「何笑ってるんですか?」
「……いや。お前に、引率されるのも……悪くないな、と。……………………。……す、すまない、今一瞬、意識が飛んでいた……!」
「自覚があるならいいです! ほら、あともう少しですから!」
夜空には、満天の星が輝いている。
シルバーはななしの裾を握りしめたまま、時折カクカクと頭を揺らしながらも、一歩一歩、彼女の隣を歩き続けた。
その背中は、どんなに眠くても決して彼女を離さないという強い意志に溢れているようで。ななしは、少しだけその裾を握る力が強くなるのを嬉しく感じていた。
だが閉館間際のこの時間ともなれば、睡魔に負けて机に突っ伏す生徒や、虚空を見つめる生徒ばかりが目立つようになる。
オンボロ寮のななしもその一人だった。学園長から押し付けられた特別課題の資料を整理しながら、何度も漏れそうになる欠伸を噛み殺す。
「(……眠い。でも、これをやっとかないと明日の試験範囲が……)」
そんなななしの視線の先。二つ隣の席に、彫刻のように整った横顔が見えた。
シルバーだ。
彼は教科書を立てたままペンを右手に握り、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っている。一見すると猛勉強中のように見えるが、その長い睫毛はぴくりとも動かず、穏やかな寝息が静かな図書室に響いていた。
「(……あ、やっぱり寝てる)」
ななしは椅子を引いて立ち上がり、足音を忍ばせてシルバーに近づいた。
シルバーの寝顔は、月光に照らされてどこか幻想的だ。だが、手元のノートを見ると、そこには「馬術部の……」という書き出しから始まり、最後の方は力尽きたようにミミズが這ったような線が延々と続いていた。
「シルバー先輩。シルバー先輩、起きてください。もうすぐ閉館ですよ」
「…………」
「……だめだ、全然起きない。……シルバー先輩っ、起きて!」
ななしが彼の肩を強めに揺さぶると、シルバーの頭がカクンと揺れ、ゆっくりと瞼が開かれた。だが、その瞳は完全に虚空を彷徨っている。
「……ん……。……リリア様、その……コウモリのスープは……もう、お腹が……いっぱい、で……」
「……リリア先輩の料理の夢を見てる。相当うなされてるな……」
「……む。……ななし、か? ……すまない、また失態を。……今、とても恐ろしい物を口にする夢を見ていた……」
シルバーはハッと意識を取り戻すと、額の汗を拭いながら深いため息をついた。
「……先輩、そんなに眠いなら無理しないで寮に帰ってください」
「いや、そうはいかない」
「でも、そのペン、逆さまに持ってますよ?」
「…………………………指摘に感謝する」
シルバーは大真面目な顔でペンを持ち直したが、数秒後にはまた船を漕ぎ始めていた。カクン、カクンと揺れる頭が、ついに机の角に当たりそうになる。
「危ないっ!」
ななしは慌てて自分の手をシルバーの額の前に差し出した。
ゴツン、と柔らかい手のひらに彼の額が当たる。
「…………温かい……。……ふかふかだ……」
「先輩! わたしの手をお餅か何かだと思ってません!? 起きてください!」
「…………ななしの手は、いつも…………陽だまりの、匂いが、する…………落ち着く……」
シルバーはななしの手を額で押さえたまま完全に寝入ってしまった。ななしの手のひらに、彼の熱い体温と心地よい重みが伝わってくる。
「(……もう。これじゃ、わたしも動けないじゃないですか)」
ななしは仕方なく、空いている方の手で自分の椅子をシルバーの隣まで引き寄せ、そこに腰を下ろした。
月明かりが二人の手元を照らし、影が重なり合う。
シルバーの寝顔は、近くで見ると驚くほど幼い。普段は気を張っている彼も、眠りの中ではただの少年に見える。
「シルバー先輩……。起きたら、肩とか痛くなっちゃいますよ?」
「…………ん。……。…………ななし……」
寝言で自分の名前を呼ばれ、ななしはドキリとして心臓を抑えた。奥手な自分にとって、彼とのこの距離感は心臓に悪いことこの上ない。
「(……先輩は、わたしのこと、どう思ってるのかな)」
ななしは、彼に預けたままの手の指先を、ほんの少しだけ動かした。
すると、シルバーがそれに応えるように、無意識のうちにななしの手首を大きな手でそっと包み込んだ。
「……。……行かないで、くれ……」
「……先輩?」
「……………………」
そこから先は、また深い寝息に変わってしまった。
ななしは顔を真っ赤にしながら、逃げることもできず、ただ彼の寝息のテンポに合わせて自分の呼吸を整えた。
静かな図書室。
聞こえてくるのは、古い時計が刻む音と二人の呼吸音だけ。
ななしはシルバーの手首を掴む手の温かさを感じながら、もう片方の手で静かに資料を読み進める。
「(……もう少しだけ、こうしていよう。……先輩が、いい夢を見られるように)」
◇
数分後。
シルバーがふと、薄く目を開けた。
視界には、すぐ隣で自分の手を支えながら静かに本を読むななしの横顔があった。彼はまだ夢の中にいるような気分で、彼女の柔らかな髪をじっと見つめた。
「……。……ななし」
「あ、シルバー先輩! 起きました?」
「…………いや。……まだ、夢の、途中、かもしれない。……こんなに、穏やかな心地なのは……初めてだ」
シルバーはななしの手を握ったまま、自分の頬にその手を寄せた。彼の肌の冷たさと、手のひらの熱が混ざり合う。
「先輩、何してるんですか……! 恥ずかしいですよ」
「…………なぜだろうな。……お前が隣にいると、眠ることも目覚めることも……どちらも、幸せなことに思えてくるんだ」
シルバーはそう言って、優しく微笑んだ。その笑顔は、いつもの彼よりもずっと柔和で、包み込むような優しさに満ちていた。
ななしは、何も言えずにただ彼を見つめ返す。
「……寮まで送る。……夜道は、危険だからな」
「……さっきまで寝てた人が言う台詞じゃないですよ、先輩」
「……そうだな。……だが、お前を守ることだけは……眠っていても、忘れないつもりだ」
シルバーはゆっくりと手を離し、今度はしっかりとペンを握り直した。彼の耳の先端が、微かに赤くなっているのをななしは見逃さなかった。
夕暮れの図書室。
二人はそれ以上何も言わなかったが、机の下で、お互いの靴の先がほんの少しだけ触れ合っていた。
閉館のチャイムが鳴るまで、あとわずか。
二人のペンが走る音だけが、心地よいリズムを刻み続けていた。
◇
図書室を出た後、シルバーは宣言通り、ななしをオンボロ寮まで送ることにした。しかし、学園の中庭を抜けるあたりで、彼は再び強い眠気に襲われた。
「……シルバー先輩? 寝ながら歩いてます?」
「…………いや、これは……目を休めているだけだ……。……騎士の、特殊な、歩行術……」
「そんな術ありませんって! ほら、わたしの服の裾、掴んでてください。迷子にならないように」
「……ああ。……感謝、する。……。……。……ふふ」
「何笑ってるんですか?」
「……いや。お前に、引率されるのも……悪くないな、と。……………………。……す、すまない、今一瞬、意識が飛んでいた……!」
「自覚があるならいいです! ほら、あともう少しですから!」
夜空には、満天の星が輝いている。
シルバーはななしの裾を握りしめたまま、時折カクカクと頭を揺らしながらも、一歩一歩、彼女の隣を歩き続けた。
その背中は、どんなに眠くても決して彼女を離さないという強い意志に溢れているようで。ななしは、少しだけその裾を握る力が強くなるのを嬉しく感じていた。
