3rd.花束 /bouquet
「遅いかどうかなんて、誰にも決められないのよ。いつだって、自分の気持ち次第なんだから」
妻はそう言うと、にっこりとほほ笑んだ。
そして彼の頬にそっと唇を寄せると、
「さようなら、あなた。幸せにね」
さっとくちづけして、まるで空気に溶けるように消えて行ってしまった。
「待ってくれ――!」
男は慌てて叫んだ。
だがそこにはもう妻の姿はなく、男は呆然と辺りを見回した。
カウンター席には紳士と美人がゆったりと腰掛け、店員の二人はのんびりとコーヒーを淹れている。
まるで何事もなかったように。
(どういうことだ?)
男は首をひねった。
妻のいた形跡はどこにもなく、カウンターの上のライラックの花束がかすかに甘い香りを放っているだけ。
(何だ。夢だったのか)
いやにリアルな白昼夢だったと思いながら、男は苦笑して何度も首を振った。
それからおもむろに立ち上がると、会計を済ませて『猫目堂』を後にした。
バス停に向かって歩く男に、
「お忘れ物ですよ」
追いかけてきたカイトがそう言って差し出したのは、白いライラックの小さな花束。
「どうして、これを?」
男が不審そうに訊くと、カイトはにっこりとほほ笑んだ。
「大切な思い出だから、あなたから娘さんに渡して欲しいそうです」
「え?」
「勇気を出して会いに行って、そして、そこからまた新しく始めて欲しい。そうおっしゃっていましたよ」
「……」
誰が、とは男は尋ねなかった。
ただその小さな花束をぎゅっと握り締めて、男は晴れ渡った空を見上げた。
そして、
「ああ、そうだね。君の言うとおりだ。いつだって、遅いなんてことはない」
にっこりと笑った男に、空から真っ白な羽根がひとひら舞い降りてきた。
《おしまい》
妻はそう言うと、にっこりとほほ笑んだ。
そして彼の頬にそっと唇を寄せると、
「さようなら、あなた。幸せにね」
さっとくちづけして、まるで空気に溶けるように消えて行ってしまった。
「待ってくれ――!」
男は慌てて叫んだ。
だがそこにはもう妻の姿はなく、男は呆然と辺りを見回した。
カウンター席には紳士と美人がゆったりと腰掛け、店員の二人はのんびりとコーヒーを淹れている。
まるで何事もなかったように。
(どういうことだ?)
男は首をひねった。
妻のいた形跡はどこにもなく、カウンターの上のライラックの花束がかすかに甘い香りを放っているだけ。
(何だ。夢だったのか)
いやにリアルな白昼夢だったと思いながら、男は苦笑して何度も首を振った。
それからおもむろに立ち上がると、会計を済ませて『猫目堂』を後にした。
バス停に向かって歩く男に、
「お忘れ物ですよ」
追いかけてきたカイトがそう言って差し出したのは、白いライラックの小さな花束。
「どうして、これを?」
男が不審そうに訊くと、カイトはにっこりとほほ笑んだ。
「大切な思い出だから、あなたから娘さんに渡して欲しいそうです」
「え?」
「勇気を出して会いに行って、そして、そこからまた新しく始めて欲しい。そうおっしゃっていましたよ」
「……」
誰が、とは男は尋ねなかった。
ただその小さな花束をぎゅっと握り締めて、男は晴れ渡った空を見上げた。
そして、
「ああ、そうだね。君の言うとおりだ。いつだって、遅いなんてことはない」
にっこりと笑った男に、空から真っ白な羽根がひとひら舞い降りてきた。
《おしまい》
