3rd.花束 /bouquet

 ……娘は去って行ったよ。
 私を捨てて、その男のもとへ行ってしまったんだ。





 話を終えて、男が寂しそうな微笑をもらした時だった。
 ふいに『猫目堂』の扉が開き、一人の女性が音もなく店内に入ってきた。
 その瞬間、ふわりと甘い香りが漂い、男はゆっくりと扉のほうを振り向いた。
 「君――」
 女性を見て、男は息を呑んだ。
 白い服を着て、白いライラックの花束を手に持って……
 男の前に佇んでいたのは、ずいぶんと前に亡くなったはずの男の妻だったのだ。
 「お久しぶりね、あなた」
 死んだはずの妻はそう言って男の隣へ腰掛けた。
 驚いて声も出ない男に、にっこりと優しく笑いかける。
 「どうして?」
 かすれた声で男が尋ねると、妻はにこにこと笑いながら、男の質問とは別の事を話し出した。
 「ねえ。この花束を覚えている?私たちの結婚式を唯一飾ってくれたものよ」
 笑いながら男にその花束を差し出す。
 男は呆然と小さな花束を受け取ると、まだ信じられない気持ちで、それでも懸命に答えた。
 「覚えているよ。あの頃私たちはとても貧乏で、まともな結婚式なんて挙げられなかった。君の親にも結婚を反対されて、二人だけで教会で式を挙げたんだ」
 「そうよ。参列者もいない、ドレスも指輪もない。本当に何にもない結婚式だったわ。そんな私たちを見かねて、教会の神父さんが庭にあったライラックの花で小さなブーケを作ってくださったのよね」
 「ああ……」
 男は懐かしそうに目を細めた。
 「貧乏で、誰にも祝福されなくて。でも、私はとても幸せだった。大好きなあなたと、大切な夢があったから」
 「……」
 男は無言だった。
 無言で、妻の美しい顔をじっと見つめていた。
 そんな男に、妻は笑いながらさらに言う。
 「リラのこと、立派に育ててくれてありがとう」
 「いや」
 「今日はこれから、あの子に会いに行くのでしょう?」
 妻の言葉に、男ははじかれたように顔を上げた。
 「いや、私は……」
 口ごもる男の様子を、妻はあえて気づかぬように笑顔で話し続ける。
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