プロローグ 予感

 そんな日々がいったいどれくらい続いただろう。独りぼっちの時間をどれほど重ねただろう。
 そうやって時が経つにつれて、彼にも分かった事があった。
 母親も兄も、もう二度とこの家には帰って来ない。自分は二人に捨てられたのだ。それに、あれから誰も彼の事を迎えに来ない。兄は彼に嘘をついたのだ。
「必ず迎えに来る、って言ったくせに」
 何もかも全部が嘘だった。自分は誰からも愛されていない。誰からも必要とされていない。
 そう思い至った時、彼は絶望に打ちのめされた。
 あんなに可愛がってくれたのに、こんなに簡単に捨てられるなんて。
 自分が猫だからなのだろうか。人間じゃないから、本当の家族じゃないから、あっさりと置いて行かれてしまったのだろうか。
(あれからどのくらいの時間が過ぎたんだろう。俺の事なんて、お兄ちゃんもお母さんも、きっともう忘れているに違いない)
 ガラス窓越しに外を眺めながら、彼は心の底から悲しい気持ちになった。その一方で、
(俺が人間だったら、この家を飛び出して、自分の方から探しに行けるのに)
 そんな風にも思った。
 もし自分が何も出来ない猫ではなく人間の姿だったら、この家の扉を開けて、思い切って外へ出て、今すぐ兄に会いに行けるかもしれない。兄に会って、本当の事を聞けるかもしれない。
 いつしか彼の中でそんな思いが膨れ上がっていた。

 そんなある日の朝、彼が目を覚ますといつもと様子が違っていた。
 珍しくリビングに父親の姿が見えたのだ。父親は疲れ切った顔をして、ソファに座ってうたた寝をしていた。
「お父さん」
 彼はそっと声を掛けた。
 父親は目を覚まさない。
「お父さん、起きてよ!」
 もう一度、先ほどよりも大きな声で呼んでみたが、やはり目を覚まさない。
 彼は溜め息を吐いて、室内を見回した。すぐに嗅ぎ慣れない匂いに気が付き、ひくひくと鼻を動かす。
「外の匂いがする」
 急いで庭へ続く出窓の方を見た。
 いつもピタリと固く閉まっているはずの大きな窓が少しだけ開いていた。普段は家を留守にするため厳重に戸締りしている父親が、今日は家にいるからと安心したのだろうか。それとも、うっかり閉め忘れただけなのだろうか。
 どちらにしても、彼にとってはまたとないチャンスだった。
 父親を起こさないように用心しながら、彼はそっと窓に近寄った。
(やっぱり網戸も開いてる)
 外から流れてくる空気が気持ち良い。
 久しぶりに嗅いだ風の匂いに、彼は興奮した。
 母親や兄がいた頃は、換気を兼ねて時折窓を開けてくれたのだが、二人がいなくなってから、この家の窓はずっと閉ざされたままだった。エアコンや空気清浄機をつけっぱなしにしているので、それなりに快適な環境ではあったが、彼にはひどく物足りなかった。まるで世界から遮断された場所に、彼ひとりが閉じ込められているような、そんな妙な気分になった。
(今なら、外へ行ける)
 本心を言えば、怖い気持ちもある。生まれてから一度も外へ出た事がない彼にとって、家の外はまったく未知の世界だ。何があるか分からない。
(でも、今を逃したら、きっと二度とお兄ちゃんには会いに行けない)
 彼は意を決して、窓の外へ足を踏み出した。
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