プロローグ 予感


 ほんの数年前まで、彼はとても幸せだった。
 立派な父親と優しい母親と面倒見の良い兄に囲まれ、何の不自由もない日々を過ごし、家族に愛されて天真爛漫に育っていた。
 唯一不満があるとすれば、父親と母親と兄は人間で、彼自身は『ラグドール』という種類の猫だという事実。だが、そんな事など露ほども気にならないくらい、彼は家族全員に大切にされていた。
 特に兄とは仲が良く、いつも一緒に遊んで、夜は一緒のベッドで眠った。
 兄は毎日のように彼の事が大好きだと言ってくれた。勿論、彼も兄の事が大好きだった。怪我や病気を防ぐために完全な室内飼いをされている彼にとって、兄は唯一無二の遊び相手で親友でもあった。
 両親が与えてくれる美味しいご飯と温かい寝床、兄から惜しみなく注がれる愛情。それが永遠に続くものだと、彼は信じて疑わなかった。
 生まれてからずっと、彼は本当に幸せだったのだ。
 それなのに、何故あんな事になってしまったのだろう。
 彼は突然捨てられた。理由は分からない。でも捨てられた。
 いや、正確には捨てられたわけではないのだろう。住む場所も餌も、前と変わらず与えられていたから。住み慣れた広い家、使い慣れた食器や玩具(おもちゃ)。ただ、そこに母親と兄の姿がなくなっただけ。
 父親は仕事が忙しくてほとんど家に居らず、彼は一日の大半を独りぼっちで過ごした。事務的に出されるご飯を食べ、夜になるとケージの中で眠り、昼の間も何もする事がないので、キャットタワーの上でひたすら眠って過ごした。
 昼も夜も、眠るたびに夢を見た。
 彼の背中を撫でる兄のあたたかな手のぬくもり。一緒に遊んでいた時の兄の笑い声。誕生日やクリスマスなど、家族で過ごした楽しい時間。そんな夢ばかり見ていた。
 そして、どの夢も最後は同じ場面で終わるのだ。
「ごめんよ。必ず迎えに来るから」
 そう言って泣きながら彼を抱き締めた兄の悲しそうな顔と、遠ざかって行く母親と兄の後ろ姿。バタンとやたら大きな音を立てて閉ざされたドアの向こうで、二人を乗せた車が走り去り、やがてそのエンジン音さえ聞こえなくなった。
 追いかけたくても追いかけられない。大きなガラス窓が、巨大で透明な壁となって彼の前に立ちはだかる。
「待って、お兄ちゃん!」
 必死に叫んだ自分の声で、いつも目を覚ますのだった。
5/7ページ
いいね👍️