プロローグ 予感

 冬枯れの山の景色はまるで銀鼠(ぎんねず)色のレースのようだ、と彼は思った
 すっかり葉を落とした木々が細い枝を幾重にも重ね、隙間からは鉛色の空が透けて見える。その様子が存外美しく、繊細なレース模様を彷彿とさせた。
 顔を上に向ければ、重く覆いかぶさるように垂れ込めた雲からは、今にも雪が降ってきそうだ。空気は冷たいというのを通り越して微かに痛みを感じるくらいで、頬に当たる風に剥き出しの薄い肌が切れてしまうのではないかと心配になる。
 風が、空気が、直接肌に当たる違和感に、彼は未だ慣れない。
 それだけではなく、妙に高い目線も、歩く時のバランスの悪さにも、何とも言えない居心地の悪さを感じる。
(俺が望んだのはこんな事じゃないのに)
 冷たい北風に身を竦めながら、彼は途方に暮れたように辺りを見回した。
 右も左も、彼の背後も、人の気配もなければ建物の一つもない深い山の中。
 国道と呼ぶには大分狭い片道一車線のアスファルトの道路沿いには、年季の入った小さなバス停がぽつんとあるだけ。それから、バス停と同じくらい寂れたベンチが一つ。
 バス停を背にして向かい側に目を向ければ、小型の車が一台ギリギリ通れるか通れないかという程の幅しかない林道が、白い木肌の林の奥へと延びていた。
 おそらくこの林道の先に、彼の目的地である建物があるのだろう。そこへ行けば、少なくとも寒さをしのぐ事は可能なはずだ。
 そう分かっていながら、彼はそこへ向かうのを躊躇(ためら)っていた。
 理由は簡単だ。
 彼にとって、そこへ行く意味が何もないから。
 彼は知っている。そこは、失くしたものと出会う場所であり、会いたい人と巡り逢える場所である事を。
 しかし、彼にはそんなものは何一つなかったし、会いたい人も誰一人いなかった。
 彼の中にあるのは怒りと後悔だけだった。
 出来る事ならそのすべてを忘れたい。何もかも忘れて自由になりたい。今の彼が望んでいるのは、ただそれだけだ。
 そんな彼にとって、これから行く場所がいったい何の役に立つというのだろう。
 それでも、この寒空の下、いつまでもこんな所に突っ立っているわけにもいかない。
「結局、行くしかないのか」
 ぼそりと呟いて、彼は諦めたように足を踏み出した。
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