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からっぽの心
「うるせえんだよ! 母親なんだから子ども一人くらい静かさせろよ! そんなこともできねえのか!?」
「すみません、すみません」
ベビーカーからの泣き声に、周りの雑音すべてを一掃する怒鳴り声。ペコペコ頭を下げる母親。せっかくの休日なのに気分だだ下がりだ。その大声が赤ちゃんを泣かせてるって、なんでわかんないのかな。
美術館巡りをした帰りのこと。そもそも美術とは無縁の私がなんでそこに行ったのか。最近できた友達、ちょうど今左隣で姿勢良く座っている整くんが印象派展に目がなかったから、じゃあ私も行ってみようかなという単純な興味本位でちょっと大きな街へ出向いた。絵のことはあまりわからなかったが、整くんが目をキラキラさせてしみじみと眺めていたので、私も絵についてちょっとくらい調べてみようかなとは思った。帰りの電車で一日中動かした足を休ませていたら、突如子どもの泣き声が聞こえて、整くん隣に座っていた母親がアワアワし出した。彼女が目の前のベビーカーに向けていくらあやしても泣き声は収まらず、母親の隣に座っていたスーツ姿の中年のおじさんが堪忍袋の緒を切らした。
自分が怒られているわけじゃないのに、全身が、心が、鉛のように重くなる。ああ、いけない、もう大人なんだから。こんなことで気を乱してはいけない。それでも、怒声に反応した私の身体は生気が抜けていく。心をカラにするのが防御本能として染み付いてしまっていた。
「あの」
「なんだ」
私とおじさんの間に座っていた整くんが口を開く。おじさんは苛立ちマックスでぶっきらぼうに反応した。
「知ってます? 泣いてる子どもって無視されると逆に泣かなくなるんですよ」
「はぁ?」
「昔のどっかの国の王が、親子を使って実験したんです。一つは、泣いている子供に笑顔を見せてあやしてあげる。もう一つは、泣いている子供を見ても決してあやそうとせず、見てみぬフリをする。どうなったと思います? 無視された子どもは全員、死んだんです。必要な世話をしてても、です。無視されると逆に泣かなくなるんですよ。ああ、泣いても無駄なんだなって。子どもは助けてもらえない絶望で、死に向かっていくんです」
いつも興味があったことをひとりでに喋っているだけの整くん。整くんは穏やかな声はそのまま。いつもなら、誰かの傷ついた心を癒やすように優しく語りかけているのに。本人は思いついたことをただ喋ってるだけでその自覚はないらしいけど。今日は恨み言をぶつけるようにまくし立てていて、まるで整くんも昔親に何かされたような口ぶりだった。
「急に何を言い出すのかと思えば。そんなくだらない話、俺には関係ないだろ!」
「じゃあ自分が子どもの頃、泣かなかったんですか? 自分が赤ちゃんのとき、一人で歩けなかったときに一人で食事排泄ぜんぶできたんですか?」
そこまで言われてようやく、おじさんは図星を突かれたように黙り込む。ほどなくしておじさんは舌打ちをして席を立ち、この車両から出ていった。
「すみません、ありがとうございます」
「あっいえ、僕は思うままに喋っただけなので」
「でも、救われました。これからも、泣いてるこの子にしっかりかまってあげます」
母親は慈愛に満ちた顔になっていた。ほどなくして親子は電車を降りる。主要な駅だからか他の人も降りていき、私と整くんの周りはがら空きになった。時間が経つほど身体は生気を取り戻していくけど、本当に少しずつ。少なくとも今日一日は引きずるだろう。
「……ん……ちゃん……千景ちゃん?」
「あっ、ごめん……」
私がどす黒い何かを処理している間に何回も呼ばれていたらしい。
「大丈夫?」
「うん、ちょっと大声が苦手で……気にしなくて大丈夫」
もう大人なんだから。泣かなくなっただけマシかな。いや、泣くのがめんどくさくなった。泣いても、謝っても、許してもらえない。答えられない詰問ばっかされて。親に叱られるあの時間に、私が口を開く余地はなかった。ただ、感情を奥に押し込んで表面上はからっぽにして、怒声が過ぎ去るのを待っていたんだ。
「怒鳴るって、思った以上に子どもに悪い影響を与えるんだって。怒鳴られた子は脳が萎縮しちゃうとか、兄弟が怒られてるのを聞いてるだけでもそうなるって、科学的の証明されてる」
さっきのおじさんも親子もいなくなったというのに、整くんは引き続き喋った。私に向けたものなのか。整くんが自分で振り返っているのか。
「脳が縮むなら、考える力もなくなるから、親から何言われたかなんてほとんど覚えてない。思考停止になるのは防衛反応として、自然なこと」
あれは……普通の反応? 私が弱かったからじゃなくて?
「子どもの心はセメントだから、なおさら」
「セメント?」
「一度モノを落とされて、それが乾くと跡になって固まったまま残っちゃう」
「じゃあ、その跡はもう、どうしようもないのかな」
親を恨むのは筋違いだけど、親の無知で私の乏しい感情表現が形成されたのかって思うとどうもやりきれない。
「千景ちゃんにいくつのセメントを落とされたのかはわからない。固まったセメントはもとに戻らないけど、埋めることはできると思う」
いつものように、思いついたことを思いのままに口に出しているだけかもしれない。それでもいい。整くんのお喋りは、私には救いとして、からっぽの心を満たしていく。
「……お喋りだね、トトくん」
「ご、ごめん……千景ちゃん、顔が死んでたから、つい。てか、と、トトくん、って……?」
トラウマは、簡単にはなくならない。けど、鎮めることはできる。そんな気がした。
トトくんの言葉は、私のよりどころだ。
「うるせえんだよ! 母親なんだから子ども一人くらい静かさせろよ! そんなこともできねえのか!?」
「すみません、すみません」
ベビーカーからの泣き声に、周りの雑音すべてを一掃する怒鳴り声。ペコペコ頭を下げる母親。せっかくの休日なのに気分だだ下がりだ。その大声が赤ちゃんを泣かせてるって、なんでわかんないのかな。
美術館巡りをした帰りのこと。そもそも美術とは無縁の私がなんでそこに行ったのか。最近できた友達、ちょうど今左隣で姿勢良く座っている整くんが印象派展に目がなかったから、じゃあ私も行ってみようかなという単純な興味本位でちょっと大きな街へ出向いた。絵のことはあまりわからなかったが、整くんが目をキラキラさせてしみじみと眺めていたので、私も絵についてちょっとくらい調べてみようかなとは思った。帰りの電車で一日中動かした足を休ませていたら、突如子どもの泣き声が聞こえて、整くん隣に座っていた母親がアワアワし出した。彼女が目の前のベビーカーに向けていくらあやしても泣き声は収まらず、母親の隣に座っていたスーツ姿の中年のおじさんが堪忍袋の緒を切らした。
自分が怒られているわけじゃないのに、全身が、心が、鉛のように重くなる。ああ、いけない、もう大人なんだから。こんなことで気を乱してはいけない。それでも、怒声に反応した私の身体は生気が抜けていく。心をカラにするのが防御本能として染み付いてしまっていた。
「あの」
「なんだ」
私とおじさんの間に座っていた整くんが口を開く。おじさんは苛立ちマックスでぶっきらぼうに反応した。
「知ってます? 泣いてる子どもって無視されると逆に泣かなくなるんですよ」
「はぁ?」
「昔のどっかの国の王が、親子を使って実験したんです。一つは、泣いている子供に笑顔を見せてあやしてあげる。もう一つは、泣いている子供を見ても決してあやそうとせず、見てみぬフリをする。どうなったと思います? 無視された子どもは全員、死んだんです。必要な世話をしてても、です。無視されると逆に泣かなくなるんですよ。ああ、泣いても無駄なんだなって。子どもは助けてもらえない絶望で、死に向かっていくんです」
いつも興味があったことをひとりでに喋っているだけの整くん。整くんは穏やかな声はそのまま。いつもなら、誰かの傷ついた心を癒やすように優しく語りかけているのに。本人は思いついたことをただ喋ってるだけでその自覚はないらしいけど。今日は恨み言をぶつけるようにまくし立てていて、まるで整くんも昔親に何かされたような口ぶりだった。
「急に何を言い出すのかと思えば。そんなくだらない話、俺には関係ないだろ!」
「じゃあ自分が子どもの頃、泣かなかったんですか? 自分が赤ちゃんのとき、一人で歩けなかったときに一人で食事排泄ぜんぶできたんですか?」
そこまで言われてようやく、おじさんは図星を突かれたように黙り込む。ほどなくしておじさんは舌打ちをして席を立ち、この車両から出ていった。
「すみません、ありがとうございます」
「あっいえ、僕は思うままに喋っただけなので」
「でも、救われました。これからも、泣いてるこの子にしっかりかまってあげます」
母親は慈愛に満ちた顔になっていた。ほどなくして親子は電車を降りる。主要な駅だからか他の人も降りていき、私と整くんの周りはがら空きになった。時間が経つほど身体は生気を取り戻していくけど、本当に少しずつ。少なくとも今日一日は引きずるだろう。
「……ん……ちゃん……千景ちゃん?」
「あっ、ごめん……」
私がどす黒い何かを処理している間に何回も呼ばれていたらしい。
「大丈夫?」
「うん、ちょっと大声が苦手で……気にしなくて大丈夫」
もう大人なんだから。泣かなくなっただけマシかな。いや、泣くのがめんどくさくなった。泣いても、謝っても、許してもらえない。答えられない詰問ばっかされて。親に叱られるあの時間に、私が口を開く余地はなかった。ただ、感情を奥に押し込んで表面上はからっぽにして、怒声が過ぎ去るのを待っていたんだ。
「怒鳴るって、思った以上に子どもに悪い影響を与えるんだって。怒鳴られた子は脳が萎縮しちゃうとか、兄弟が怒られてるのを聞いてるだけでもそうなるって、科学的の証明されてる」
さっきのおじさんも親子もいなくなったというのに、整くんは引き続き喋った。私に向けたものなのか。整くんが自分で振り返っているのか。
「脳が縮むなら、考える力もなくなるから、親から何言われたかなんてほとんど覚えてない。思考停止になるのは防衛反応として、自然なこと」
あれは……普通の反応? 私が弱かったからじゃなくて?
「子どもの心はセメントだから、なおさら」
「セメント?」
「一度モノを落とされて、それが乾くと跡になって固まったまま残っちゃう」
「じゃあ、その跡はもう、どうしようもないのかな」
親を恨むのは筋違いだけど、親の無知で私の乏しい感情表現が形成されたのかって思うとどうもやりきれない。
「千景ちゃんにいくつのセメントを落とされたのかはわからない。固まったセメントはもとに戻らないけど、埋めることはできると思う」
いつものように、思いついたことを思いのままに口に出しているだけかもしれない。それでもいい。整くんのお喋りは、私には救いとして、からっぽの心を満たしていく。
「……お喋りだね、トトくん」
「ご、ごめん……千景ちゃん、顔が死んでたから、つい。てか、と、トトくん、って……?」
トラウマは、簡単にはなくならない。けど、鎮めることはできる。そんな気がした。
トトくんの言葉は、私のよりどころだ。