不安を包む腕

　雨音が静かに響く中、整くんと私は小さなテーブルを挟んで本を読んでいた。彼の顔に浮かぶ微かな影に気づいたのは、ページをめくる手が止まったその瞬間だった。

「千景さん」

　整くんがぽつりと私の名前を呼ぶ。その声には、いつもの穏やかさの中に、どこか頼りなさが混じっていた。

「どうしたの？」

　私は本を閉じて彼を見る。整くんは視線を落としたまま、少しの間ためらってから口を開いた。

「……僕、思うんです。自分の大切な人は、みんな消えていくような気がして」

　その言葉を聞いた瞬間、私の胸がぎゅっと締め付けられる。彼の言葉の奥には、これまで抱えてきた悲しみと喪失感が透けて見えた。

「母も……喜和さんも」

　彼の声はかすかに震えていた。どちらの名前も、彼にとって大切な人だった。整くんのお母さんは、家庭内暴力の末に命を失ったと聞いている。そして喜和さん――彼の恩師であり、心を通わせていた特別な存在――もまた、５年前にストーカー殺人で命を奪われている。

「……そしてライカさんもいなくなってしまった」
「ライカさんが消えたのは、千夜子さんと統合されたからだよね？」

　そう言いながらも、私は整くんの胸の内に巣食う恐れがどれほど深いものかを理解していた。それは、彼がこれまでに大切に思う人を次々と失ってきた経験から生まれたものだ。

「でも千景さんだって……」

　整くんは俯いたまま言葉を続ける。その姿は、自分の恐れをどうにか形にしようとしているようだった。

「千景さんも、いつか僕のそばからいなくなるんじゃないかって、そう考えると怖くなるんです」

　私は静かに立ち上がり、彼の隣に腰を下ろす。彼がそんなことを考えていたなんて気づかなかった。どんなに自分を取り繕っても、彼の中には拭いきれない喪失への恐怖が根付いている。

「整くん」

　私は彼の肩にそっと手を置く。驚いたように彼が顔を上げた瞬間、私はそのまま彼を抱きしめた。柔らかい布越しに伝わる彼の体温に、心が締め付けられる。

「私、ここにいるよ」

　そう伝えながら、私は彼をしっかりと抱きしめた。彼が一瞬だけ戸惑った気配を見せたけれど、やがてその肩から少しだけ力が抜けた。

「整くん、私はどこにも行かないよ。いなくなるなんて考えないで。私は、ちゃんとここにいる」

　彼の耳元でそう囁くと、整くんは小さく頷いた。そして、彼の声がかすかに響く。

「……でも、もしも、千景さんがいなくなったらって思うと……」
「大丈夫」

　私は彼の髪をそっと撫でるようにして続ける。

「いなくなるなんて、そんなこと考えなくてもいいよ。私は整くんがいる限り、ずっとここにいる」
「……本当ですか？」

　整くんの問いに、私は少し微笑んで答えた。

「本当だよ」

　そう言いながらも、彼がどれほど深い不安を抱えているかを私は痛感する。だけど、それでも私は整くんのそばにいることを選んでいる。彼の恐れや過去ごと受け止めたいと思っているから。

　整くんの体は少しずつほぐれていった。しばらくの間、雨音と静かな呼吸音だけが部屋に満ちていた。やがて彼は小さな声で呟いた。

「……ありがとうございます。でも、僕はきっと、また不安になると思います」
「そのときはまた抱きしめるよ。それでよければ、何度でも」

　私がそう言うと、整くんは少しだけ笑ったように見えた。

　雨音が次第に遠のいていく。いつか彼の中の不安も、こんなふうに静かに消えていくといい。私はそう願いながら、彼の肩にそっと手を置き続けた。