30秒間の魔法

　大学の帰り道。夕暮れ時の薄明かりが、整くんと私の影を伸ばしていた。

「整くん、疲れてる？」
「……わかりますか？」

　彼はいつものように私の少し先を歩いていたけど、今日はどこか様子が違う。肩が少し落ちていて、普段は整然としているはずの歩き方に、どこか疲れが見え隠れしている。少し驚いたように振り返った整くんの声は、かすかに力が抜けている。私は足を速めて彼に追いつくと、軽く目を細めた。

「そりゃあね。いつもと違うもの」

　彼の表情や仕草は普段あまり変わらないけれど、だからこそ、微かな違いが逆に際立つ。私がそう言うと、整くんは一瞬だけ眉を寄せ、ふと視線を遠くに泳がせた。

「そうですか……自分ではわからないものですね」
「少し歩きすぎたんじゃない？」

　そう聞くと、彼は無言のまま頷いた。言葉にしない彼の疲れが、よりはっきりと伝わってくる。

　やがて、私たちは人通りの少ない小さな公園の前に差し掛かった。整くんが一歩進んだところで、私はふいに立ち止まった。

「ちょっといい？」
「何ですか？」

　整くんが振り返る。その声には、少しだけ不思議そうな響きが混じっている。私は彼に向き直り、少しだけ呼吸を整えた。そして、躊躇う間もなく一歩近づくと、彼の前に立ち止まった。

「千景さん？」

　その困惑の声を無視して、私は少し背伸びをして両腕を伸ばし、整くんの肩にそっと手を置いた。そして、そのまま彼をぎゅっと抱きしめる。彼の体が一瞬で硬直したのがわかった。

「ちょ、千景さん？」
「いいから。そのままじっとしてて」

　そう伝えると、整くんは体の強張りを少しだけ緩めた。触れた彼の背中は想像以上に温かかい。

「……何をしてるんです？」
「ハグ。30秒間のハグはストレスを和らげるんだって、どこかで読んだの」
「どこでそんな話を聞いたんです？」
「ネットの記事。信憑性は微妙かもだけど……試してみる価値はあると思ったの」

　疑っているのだろうか。ちょっと焦る。けれど、彼は小さく息をついた。整くんの背中から伝わる温もりが、彼が少しずつ安心してきている証拠のような気もして、私はそっと力を込める。


　整くんが静かに耳を傾けているのがわかる。その間、私自身も次第に落ち着いていく気がした。整くんの存在が、こうして私自身の安らぎにもつながっているんだと実感する。

「でも、驚きましたよ。千景さんがこんな……大胆なことをするなんて」
「整くんが疲れてると思ったから、こうしてあげてるだけでしょ」

　そう言いながら、私はほんの少しだけ顔を彼の肩に寄せた。いつもは緊張している彼が、今はまるで子供みたいに大人しくしている。

「効果、あった？」
「……思った以上に」

　整くんが低く呟く。その言葉に、私は少しほっとする。けれど、腕を離す気にはなれなかった。

「……もう30秒くらい、いいかな」

　私がそう言うと、整くんは少しだけ体を固くした。でも、そのまま何も言わずに受け入れてくれる。腕の中で、整くんの心拍が少しだけ速くなった気がした。

「……千景さんって、時々不思議な人ですね」
「整くんに言われたくない」

　お互いに何を話すわけでもなく、静かに時が流れる。遠くから聞こえる雨の音が、周囲の静寂を際立たせていた。30秒どころか、少し長い時間だったかも。彼の温もりは、思ったよりも穏やかで、心を落ち着ける力があった。

「そろそろ……離れますね」

　整くんの声に、私は小さく頷いて腕を解いた。けれど、彼の顔を見た瞬間、思わず笑みがこぼれた。彼の目にはさっきよりも少し光が戻っている。穏やかな表情に変わった彼を見て、私の心も温かくなった。

「疲れたら、また言ってね」
「それは……ありがたいような、困るような」

　整くんがそう言って少し照れたように目を伏せる。その仕草が微笑ましくて、私はもう一度、軽く彼の肩を叩いた。

「まあ、いつでもどうぞ」

　ふわりとした空気の中、私たちは再び歩き出す。整くんが少し前を歩いているのを見ながら、私はそっと息をついた。彼も、たまには誰かに寄りかかってもいい。私がその役割を担えたなら、それでいい。