前髪の向こう側

　ロンはいつものように推理小説を読み、暇を持て余していた。ドアをノックする音には特に気を留めなかったのは、訪れる相手が誰であるかを容易に想像できたからだ。

　ドアが軽く開き、リナが姿を見せる。隣室の住人にして、最近では彼女のいる風景がこの部屋の日常に溶け込んでいる。ロンの目はページを離れ、リナへと向けられた。その一瞬の動きだけで、ただの視線以上の熱を帯びているのが伝わる。ふと視線を上げた彼は、彼女が明らかにいつもと違うことに気づいた。

「……どうしたんだい？」

　リナの目元が、前髪で完全に隠れていた。長めの髪がサラリと額を覆い、普段の彼女らしいすっきりした印象とは異なって見える。その変化にロンの眉がわずかに動く。

「真似してみたの」

　リナは少し得意げに笑い、ロンの反応を待っているようだった。その様子に、ロンの目はわずかに細まる。真似をした、と言われても、自分の前髪を意識したことなどなかった。けれど、今の彼女には確かに「真似をした」という自覚があるらしい。

　ロンは長身を伸ばし、静かに立ち上がった。その動きには一切の無駄がなく、ただ歩み寄るだけなのに、どこか包容力を感じさせる。彼女の前で足を止めたロンは、目元が隠れてしまった彼女を見て、心の中でため息をつく。

「リナ、君は僕を真似する必要なんてないんだよ」

　そう言いながら、そっと彼女の顔に手を伸ばす。その手は白く整っていて、どこか繊細さすら感じさせるものだった。彼が前髪を軽く払いのけると、隠れていた瞳が現れる。チョコレートのような深い輝き。いつもながら愛でたくなるような瞳だ。

「君の瞳は、隠すべきじゃない。綺麗なんだから」

　ロンの声は低く、優しく響いた。その声は、耳に心地よいどころか、体の奥深くまで届くような不思議な感覚を伴っていた。リナは一瞬動きを止めたが、次の瞬間、わずかに表情を曇らせた。

「綺麗なんて……別にそんな……」

　反論するリナの声は自信なさげで、ロンには彼女がその言葉を本気で信じていないことが伝わった。だからこそ、彼は柔らかく微笑むと、リナの髪にそっと唇を寄せた。

「僕がそう思うなら、それで十分だろう？」
「ひえ……」

　その言葉には、からかうような軽さもなければ、押しつけるような力強さもない。ただ、真実だけがそこにあった。その一言に、リナは戸惑い、慌てたように声を漏らす。

　語尾にハートがつきそうなほど甘い声だった。彼女の前髪が揺れるたびに微かに漂うチョコレートの香りは、ロンにとって心地よい癒しだ。彼はそのまま彼女の目をじっと見つめ続ける。

　リナは一瞬息を呑み、顔を赤らめながら目を逸らした。

「……そんなの、ずるいってわかってる？」
「僕がずるいのは、君も知っているだろう」

　ロンは肩をすくめて微笑む。

「僕の真似をするのも悪くないけど……僕には君らしい君が一番だよ」

　ロンのその言葉に、リナは照れくさそうに顔を隠した。けれどもその耳が赤く染まっているのを、彼は見逃さなかった。