短編集

「いつでも、康二のこと、見とるから」
会社が倒産し、妻に浮気をされ、離婚した中年の男は、唯一の味方だった母を亡くす。自己破壊衝動を抑えきれなくなり、夜の町を歩くと空き地においしそうな匂いのする食べ物屋があり……。

冒頭、とても主人公が死を選びたいことを匂わせる表現がありますのでお気をつけ下さい。

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「腹が減った……」

 俺は死のうとしていた。会社の倒産と妻の浮気と離婚が原因だと、きっと人々は噂するのだろう。
 だが、知ったことか。

 俺には子供は居ないし、ペットも居ないし、そもそも俺の事を心配してくれるような奴は誰もいない。顔を突き合わせて酒を飲むような仲のいい友人とやらも、今はみな、転勤や転職で居なくなってしまった。


 そして照れくさくて面と向かっては言えたことがないが、大好きだった母が、先月亡くなった。


 仕事一筋で家庭を一切かえりみなかった父がぽっかり開けた穴を埋めるように、母さんはやたらと懸命に俺を育てて支えてくれた。

 荒波に飲まれても負けないようなパワフルだった、誰よりも根性のある母さんが、死んだ。

 あっけない最後だった。

 原因は餅を喉に詰めたらしい。…………。父さんは、どうでも良さげだったが、母さんが死んでから酷く痩せていた。


 だから俺は餅は高齢になったら食わない方がいいってあんなに言ったのに、母さんは頑固でちっとも聞いちゃくれなかった。

 なんとなく、生きるのが嫌になった。
 今までは、「鬱だなんて甘えだ」と豪語してはばからない父さんと同じとまではいかないが、「そんなものは繊細な平成以降の若者がかかる、10代と20代の病気だろ」と笑い飛ばしていた俺が、今度は「もう生きていたくない」と思い始めている。

 ネットで調べたところ、中年の鬱だのなんだのが出てきたが、どこにも具体的な解決策が書かれていない。

 朝散歩をしろだとか、三食きちんと食べろだとか、馬鹿にしているのかという気分になった。

 病院にかかれと書いてあったが、精神科なんか怖くて行きたくないし、心療内科なら……と考えたが、知らない人に弱みを見せたり、弱っているとか言うなんて恥ずかしくて仕方ない。

 お前は本当に中年の男かとか、笑い飛ばされても嫌だし、深刻に捉えられすぎて入院なんて事になるのも面倒だし。脳とか内臓に影響とか出そうで、薬を飲みたくないし……と思う。


 そうだ、気分転換をするか。
 そう思ってかけたCD。

 大好きだった学生時代から追いかけていたバンドの音楽を聴いても、まるでお経を耳から流されてるみたいに暗い気分になる。


 食べるものを変えようかと思った。
 スタミナのつきそうな物を買ってみた。

 食うもの全部が、油っこい粘土か味気ない砂みたいに感じるし、米がやたらとべちゃべちゃしてまずく感じる。

 若い時はなんてことなかった油っこい食事が、きつくて仕方ないと思い知らされただけだ。

 ああ、母さんの作ってくれる筑前煮とか、肉じゃがとか、ほうれん草の白和えとか、すまし汁とか、レシピを聞いておけばよかったなと、特に料理をあまりする訳でもないのに、思った。


 会社が倒産した。
 中年どころか初老になりかけている俺に、再就職先が簡単に見つかる見込みは、あまりない。

 面接までこぎつけても、落とされた。何回も。
 まあ、こんなにジメジメとした元気の無いし取り柄もない中年なんて、雇いたくないだろうなと自虐的になる。


 練炭も飛び降りも首括りも飛び込みも、迷惑がかかるし痛そうで嫌だった。

 睡眠薬を飲んで死ぬのがいいかと思ったが、心臓が痛くなって、喉がカラカラに乾いて、激しい頭痛に見舞われ、失神しただけで、翌朝起きたら俺はぴんぴんしていた。

 いや、気力はないし、体はボロボロだ。


 俺は、どうしたものかと、夜中の町をうろついていた。願わくば、通り魔か何かが俺を殺してくれないだろうかと、つまらない不謹慎な空想にひたりながら、職質されたら面倒だなと思い、帰ろうとしたその時。

 いつもなら何も無いビルの跡地の空き地に、やたらと目立つ灯りを放つ、食堂らしきものが建っていた。

 ラーメン屋みたいな赤いのれんをつけてるが、匂いは、……ラーメンではなく和食みたいな匂いがする。焼き魚だけでなく、ハンバーグの匂いもする。

 店に吸い寄せられるように入っていた。
 今日は昼から何も食べていなかった……。

「いらっしゃいませ」

 目の前にはしゃれこうべというヘタクソな平仮名が書かれたシャツを着た、骸骨の男が立っていた。

 ドッキリか何かか。いや、最新の3D投影機か? それともロボットか。いや、俺がついには幻覚を見だしたのか。夢か?

「メニューはこちらになります。どうぞ」

 メニューもふざけていた。
 思い出の味定食があるだけだ。
 他には飲み物にビールや焼酎やワインや、コーラやりんごジュースがあるだけ。

 しかし思い出の味定食、値段は880円だ。安い。

「……思い出の味ひとつ」
「思い出の味定食ひとつー! お飲み物はいかが致しましょうか」
 骸骨がメモをとる。

「えっと、じゃあ、こんぶ茶で」
「こんぶ茶ですね。かしこまりましたー!」

 骸骨が店の厨房に消えていった。
 よく周りを見渡すと、ぐずぐずと泣いている若い男や(俺はそれを見てほっとした)、謎のキャバ嬢のような派手な髪型をした娘が、店には居た。

 若い男はハンバーグを、キャバ嬢みたいな娘は焼き魚を食べていた。…………。
 人によって、出すものが違うのか……?


 しばらくして、さっきのよりちっこい骸骨が、とてとてとてと走ってこちらにやってきた。

「りんごジュースと、筑前煮でお間違えありませんか」いや、こんぶ茶だと思ったが、俺は……。
「あ、ああ」

 思わず、声を上げてしまった。偶然だろうが、母さんの作っていた不格好な野菜の切り方とそっくりな、でも桜型の人参は、母さんの……。

 母さんの筑前煮に、やたら似た料理が出てきた。


 そして、一口おそるおそる食べると、懐かしい味が口いっぱいに広がった。
 涙が、止まらなかった。


「お客様、どうされましたか? あ、白米とキャベツのサラダのお代わりは当店サービスで無料となっておりますが……」
「思い出の味っていうのは、どういう意味なんだ?」
「そのままですが」
「おふくろが作ってくれてた筑前煮と味が一緒なんだ」
「そういう事もあるんですね」
「はぐらかさないでくれ。この思い出の味っていうのは、どうやって作って……いや、誰が作ってるんだ」
「申し訳ありませんが、厨房に立つ者とはお話して頂くことはできない決まりになっております」
「……俺の母さんが、いるのか? 母さんは死んだんだぞ」
「お客様、厨房を覗いても、お母様はおられませんよ。さきほど、お母様はあちらへ帰られました」
「…………」
「……伝言なら伝えることができますが」


 俺は泣きながら、もっと親孝行すればよかった、まだまだ母さんは生きててくれるんだと思ってた、母さんが居ないと不安でしょうがない、毎週毎週長電話してきて鬱陶しいなんて言ったけど、今となっては電話できないのが寂しくて仕方がない、母さんは100まで生きるんだって信じてた……と俺はそれから、餅はやめとくべきだったよな……と言う。

「お客様、お母様が戻って来られました」
 骸骨が、空中を見て言う。
 なにも見えないが、部屋の空気があたたかくなった。

 肩をぱんぱん! と強く何者かに叩かれた。

 母さんに、「今までありがとう」と泣きながら俺は言った。「母さん、本当にありがとう……ありがとう……うう、ううう……俺は、かあさんのことが、だいすきだったんだよ……」


「筑前煮が冷めてしまうので、はやく食べて欲しいとお母様がおっしゃっていますよ」
 骸骨が言った。
「あと、そんなこと言わなくても分かってるから、こっ恥ずかしいこと言ってないでさっさと食べて、さっさと家に帰って、はやく寝ろとおっしゃっています」
「う……。はは……言いそうだな……かあさん……」
「辛いこともあるだろうけど、まだ50年はあちらに行ったら、蹴り飛ばして送り返すぞともおっしゃっています」
「……なんだよ、それ……はは」
 俺を殴ったことなんかなかったくせに。

「それから、最後に」
「はい……母はなんと……?」
「いつでも、康二のこと、見とるから、と」
 骸骨が、感情のこもらない声で言った。


 俺はずっと泣いていた。手持ちのポケットティッシュは使い果たした。ちいさな骸骨の店員さんが、「これよかったら!」と言って、箱でティッシュを持ってきてくれた。

 俺は泣くだけ泣いたら、ゴミ箱に鼻だの涙だのを拭いたティッシュをまとめて捨てた。

 そして、「筑前煮、タッパーにつめて貰えませんか」と骸骨さんに言った。

「かしこまりました」

 会計は、1500円と小銭がいくらかだった。
 りんごジュースが600円というのは少しぼられた気がしたが、まあ、最初からメニューに600円と記されていたので文句はない。

「またのお越しをお待ちしております」

 背後から声をかけられたので「また来るよ」と言おうと思ったら、そこにはもう店はなく、空き地がただあるだけだった。

 そして俺は手に筑前煮のタッパーを持っていた。


 帰り道、職質をお巡りに受けた俺は、しどろもどろになり、起きた出来事を話してしまった。

「たぬきに化かされたんですかね。いや、酒も薬もやってない。疲れてるんだたぶん……」
 俺が言う。

 お巡りは、「夜は危ないですから。気をつけて帰って」と言い、「辛かったら、誰かに相談すると良いですよ」と念を押してきた。

「じゃあ」
「はい。すみませんでした、お話聞いてもらって」
「気をつけて帰ってくださいね。本当に、近頃は危ないですから」
「はい」


 目には憐れむような色が浮かんでいたような気がするが、どうでもいい。

 俺は、帰ってから、筑前煮を食べた。
 今まで食ってきたどんな物よりも旨かった。

「あ。レシピ……聞き損ねたな」


 あの空き地にある店には、骸骨の見た目をしたオーナーがいる。オーナーに「思い出の味」を注文すると、あなたにとって大切な故人が現れ、あなたの好きだった料理を作ってくれる。

 故人と直接、抱きしめあったり、声を聞いたりはできないけれど。

 確かに、そこに、その人は居るのだ。


(完)
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