スペア





 星降る夜に、この世へ生まれ落ちた双子。シエルとその弟は、ずっと、ずっと一緒だった。

 初めて産声をあげるのも、初めて目を開けたのも、冬の星空から祝福を受けたのも一緒。
 食事をするのも、遊ぶのも、眠るのも……生まれてから何をするのも一緒の双子だった。
 極めつけは、そっくりな美しい容姿。それは、両親や使用人には名前を呼び間違えられるほど。全くの別人であればそんなことは起きないだろう。
 けれど、シエル達にとっては違う。お揃いの青い瞳で見たお互いの姿は、個として存在する異なるものだ。それなのに、周りの大人達はみんな口を揃えていう。“鏡合わせ”のようだと。
 そう言われるたびに、二人は似てるかな?と口を尖らせながらお互いの顔を見つめ合って、そして数秒後には笑いあう。
 そんな笑った瞬間でさえもほぼ同時だったことを「ほら一緒じゃないか」と、父親にもそう言われた。 それでも、やはりその瞬間の表情や声色は、シエル達からすれば“鏡合わせ”などではなかった。

 口を開けて大きな声で笑うシエルと、控えめに口を片手で押えながら笑う弟。

 ……ほら全然違うでしょ。鏡を見ているような気分になんて、ちっともならない。シエルはそう心の中で呟くと弟のことを抱きしめる。

 ——この子の傍にいられることは楽しい。

 叶うならずっと一緒にいたいと思ってしまうほど。
 だけどそれは、僕達は一人と一人だから…二人でいるのが楽しいんだ。
 同じじゃなくてもいい。同じだと思われなくていい。
 僕は僕で、弟は弟……それぞれが個であることを僕は尊重したい。
 そうだからこそ、僕は弟が大好きで、弟は僕を好きでいてくれるんだから。


 身体が弱くあまり外に出ない弟は、昔からシエルよりも読書家で、自分が読んだ本の中から沢山のおすすめをシエルに紹介してくれたし、色んなおもちゃで新しい遊びを考えてはそれにシエルを誘ってくれた。
 そんな弟に、シエルは外で遊んでいる時に見つけた外の世界について話すことが好きだった。ある日は屋敷の庭園に咲いている花について、ある日は父親の仕事関係で出向いた遠い街で見かけたお菓子屋さんについて。
 それぞれの知らない世界を弟と共有する時間がシエルも弟も大好きだった。大切だった。

 別に、弟と鏡合わせのように一緒であることが嫌なわけじゃない。むしろシエルにとって嬉しいことはある。
 好きな本が同じなら語り合えることも、好きなゲームが同じなら遊ぶことだってできるのだから。

 それでもシエルが弟と一緒でないことのほうが喜べると思ったのは、弟から知らない本や遊びを教えてもらうのはもっと嬉しいし、弟と自分の好きなスイーツを交換して新しい発見を得るのだってすごく楽しいから。
 苦手な教科を補い合う時間も、お互いが感じた嬉しかったことや悲しかったを共有する時間さえ愛おしいから。

 こうした時間は、いつまでもずっと、今よりも大きくなっても、大人になってからも永遠に続いていく二人だけの時間なのだとシエルは思った。とても尊い時間だと、シエルは幼いながらに感じていたのだ。
 何もかもが一緒では無いからこそ、お互いを理解してお互いを大事にし合えることが幸せだと思える。
 きっと弟も、そう思ってくれているとシエルは思っていた。



 ——それなのに、最近の弟は様子がおかしい。


 シエルがそう思い始めたのは、ひと月ほど前からだ。
 最近の弟は、自分の世界を閉ざして、シエルと同じものを見て、同じものを経験しようとするようになった。いや、少し違う。
 弟は、寸分違わずシエルと“一緒”であることに固執するようになったのだ。

 はじめは些細なことだった。
 何となくシエルの仕草や表情を真似して、何をするのにもシエルの後ろをついて同じことをしようとするようになった。
 違和感は感じていながらも、兄である自分と同じことがしたくなる弟としての性分……のようなものだろうかと、シエルは微笑ましくそれを受け入れて可愛がってみせた。
 いま思えば、真似っ子をしたい気分なのかもしれないと都合よく解釈して弟を可愛がってしまったことも良くなかった。弟の心を無配慮に傷つけていたのかもしれない。むしろ、そのせいで弟の行動は加速していったのでは無いかと。いまではシエルは自分の発言や行いを後悔している。
 けれど、いまとなってはもう何もかも遅くなってしまったように思う。

 最近の弟は、歩き方から食事の仕方、チェスの戦術、読むの本の傾向まで。上げればキリがないくらいシエルを真似ようとするのだ。まるで、本当の“鏡合わせ”を演じるように。

 ……いまだって、弟自身が大好きだったチョコレートケーキには目もくれず、シエルと同じいちごのケーキを口にしている。
 そんな弟を、シエルは横目に見た。
 シエルと同じスピードでフォークをもち、同じサイズに切り分けたそれを、同じ瞬間に口に運ぶ。そして、美味しいと口元を緩ませ、最後には満面の笑みを浮かべてみせる。
 美味しいものを食べた時に、自然と頬に手を当てるシエルの些細な癖さえ上手に真似ていた。

 ずっと隣で過ごしてきたのだから、当たり前のことと言えばそうなのだが……弟は本当によく自分のことをよく見てくれていたのだなと改めてシエルは思う。
 その事実はシエルにとっては嬉しいことであり、事態が事態でなければ、いまの弟と同じ満面の笑みで喜びたいことでもある。
 しかし、この状況では弟のそんな姿を見て嬉しい気分になど到底なれやしない。

 ……だって、僕が好きなのは、いちごのケーキをこんな嘘に塗れた笑顔で食べる弟じゃないから。

 シエルは、チョコレートケーキを小さな口に運ぶ度に、あの青い瞳に星を煌めかせる弟が好きなのだ。
 それから、弟は自分好みのその味を口にできたとき、あえて自分の表情を少し隠そうとする。
 本当に美味しいものを食べたときの、素直にはしゃいでる姿を誰かに見られることが恥ずかしいからだと、シエルにだけはそれを教えてくれた。
 そんな弟も食事の途中にどうしても美味しさを共有したいと思うときがあるらしく、そういったときの弟は本当に可愛い。
 まず、テーブルの下で弟はこっそりシエルに合図して、それに気づいたシエルが弟の顔を見ると、弟は内緒話をするような、本当に小さな声で「これすごく美味しい」と、可愛らしいあの控えめな笑顔を向けてくるのだ。
 それに対して、シエルが「よかったね」「僕も好きな味だよ」と返せば、共有できたことを心から嬉しそうにする。
 そんな弟がシエルは本当に大好きだった。

 ……だから、願うなら早く元の弟に戻って欲しい。
 シエルが愛おしいと感じていたあの無垢な弟に。

 どうして突然、寸分の狂いもない自分の真似に固執して、ここまで意識するようになったのか。
 もし悩んでいることがあるのなら今すぐにでも打ち明けて欲しい。
 もし何か特別な理由があるのなら話してほしい。
 この問題を解決させる手助けをさせてほしい。一人で抱え込まずに、自分を頼ってほしいと、シエルはずっと思っていた。
 けれど……結局弟は自発的にはシエルをまだ頼ってくれようとしなかった。


 それならば、ここはシエルから行動に移すしかない。思えば、弟が自分からは助けを求められない状況の可能性も捨てきれないのだから。

 まだ別れてはいない二人部屋の寝室で毎晩眠りにつくシエル達は、二人きりになれる時間がたくさんある。どちらかがその気になれば、いつだって話はできる状況だ。
 だから、まずは時間をかけて話をしよう。そう決めたシエルは邪魔が入ることのない就寝前のひとときを狙うことにした。





 そして、待っていた夜は訪れた。

 両親や執事長などに挨拶を済ませれば、シエル達は今夜も寝室で二人きりになる。
 ここならば、危惧した邪魔者はいないし、多少の夜更かしを止めるものもいない。
 唯一の懸念があるとするならば、ここ最近すぐにベッドへ潜り込んで、いそいそと眠りについてしまうことの多い弟くらいだ。

 日中あれだけシエルの一緒の姿になろうと真似をする弟は、このひと月の間、当のシエルと二人きりでは話そうとしなかった。まるで話すことを恐れ、拒んでいるようにさえ見えるくらいだった。

「……おやすみ、シエル」

 それは今日も変わらず、シエルの目には眠りにつく為の身支度や挨拶を終えた弟が、挨拶を済ませてすぐにベッドへ入り込もうとしている姿が映った。
 後ろめたい何かがあるのは言うまでもない。

 意を決したシエルは弟のベッドのそばまで向かい、あえて何も言わず、そして弟に有無を言わせることなく弟のベッドに潜り込んだ。
 突然のシエルの行動に弟は目を丸くしてびっくりしていたものの、すぐに平然を装おうとした。

「……ここはシエルのベッドじゃないぞ」

 口調は柔らかいのに、まるで突き放すようなその一言にシエルの胸は少し痛む。しかし、そうやって遠回しに拒まれようとも、それでもシエルは退くわけにはいかない。はなからその気はない。
 たとえ強い口調で弟から突き放されても、多少嫌われることになっても、絶対に今日は逃してやらないのだと、シエルは決意をもって口を開く。

「そんなの知ってるよ。知ってる上で、僕はここにきた。お前と話がしたいから」
「………僕は……話したいこと、なんて……」

 シエルは弟の瞳をじっと覗き込む。
 気まずそうな弟の瞳は僅かに揺れていて、その瞳にはこれ以上の詮索はやめて欲しいと書かれていた。
 けれど、シエルだってこれ以上は待てない。もうあんな弟の姿を見るのも、弟に理由もわからずに避けられるのも、辛くて仕方がないのだから。
 決着をつけさせてもらうよ、と言葉は口にしない。けれど、薄く濡れた瞳に語りかける。
 そんなシエルに、弟は観念したようにゆっくりとその瞳を瞬かせた。


「最近のお前、様子がおかしいよ」
「………」
「どうして僕の真似ばかりするの。どうして何もかも僕と一緒にしようとするの」
「……不快にさせたなら、ごめん」
「っ……ちがうよ。謝って欲しいわけじゃないんだ。ねぇ、答えて。ーーーー。一体何があったの。それとも誰かに、なにか口止めされてるの……?」
「…………いいたくない……」

 シエルからの質問に弟は口を噤んでしまうが、ときより何かを言おうとしてはその唇を震わせ、どうするべきかと迷ったように瞳は震え続けていた。
 その姿にシエルの心はまた痛む。シエルは弟にそんな顔をさせたいわけじゃない。ここで一歩引いて弟の言葉を待っていたい気持ちがないわけでない。
 だけどそうしないのは、これ以上状況が停滞することも悪化することもシエルが望まないからだ。

 シエルは、最後のひと押しをする。



「じゃあ、僕のことが嫌いになった……?」
「…っっ、そんなことない……!僕がシエルのこと嫌いになるわけない……」

 そう言い切った弟にシエルは少しだけ笑みを浮かべる。その笑顔を見た弟は、咄嗟に目を逸らして、そのままシエルのそばを離れようとした。でもシエルはそれを許さなかった。

 ただでさえ近い距離にあった弟に、さらに身を寄せて、逃げ出したそうなその顔を両手ですくい上げて……言葉を紡げなくなった弟の唇に、シエルは自分の唇を合わせる。
 そうした瞬間、弟が目を見開いて息を飲むのがわかった。だけどシエルは止まらない。止まれるわけがない。

 ——僕は、お前の敵になりたいんじゃない。僕は、お前だけの味方だよ。

 その想いが届くようにと、シエルは祈りながら角度を変えて何度もキスを送り、出来るだけ長くキスを交わす。そしてその間、安心させたい一心で弟の頭を撫で続けることにした。

「なにか辛いことがあったなら話して欲しい。困ったことがあったなら助けさせて欲しい。お前の為なら僕はなんだってするから」

 ……この命をかけて、最後までお前を守り抜くから。

 精一杯のシエルの想いを込めたキスと言葉は、弟の心を少しでも動かしてくれたのか、弟はシエルの背中に腕を回し、抱きついてくれた。
 それを合図に、シエルは最後に名残り惜しむように弟の唇を軽く食んでからキスをほどいた。
 キスを終えた後、改めてシエルが弟を見つめると、その表情はまるで何か悪いことをして怒られる前の子供のようだった。シエルを抱きしめる弟の腕が、助けを求めるように強くなる。

「怖がらなくて、大丈夫……僕のことを信じて」

 ——お前がいまも僕を好きでいてくれているのなら、ね。絶対に僕が何とかしてみせるから。

 微かに震えはじめている弟の身体を安心させるように撫でて、シエルが水面のように揺れるその瞳を見つめ続けると観念したように弟はようやく口を開いてくれた。
 けれど、いまにも泣きそうな弟から語られた言葉にシエルは動揺せざるを得なかった。


「……僕は、シエルのスペアだから」


 ——僕は、シエルにもしものことがあったときに代わりを務める存在なんだって聞いた。そのために生かされてるんだって。


「シエルがいない間……シエルがたとえこの屋敷からいなくなっても、僕がシエルを演じられるように……いまから練習したらどうかって言われたんだ。それを聞いて、僕もそれがいいって思った。
 ……だって、きっと、誰も、僕なんか望まないから。みんなが望むのはシエル・ファントムハイヴ伯爵なんだって、そう言われてすごく腑に落ちたんだ」

「それに……僕は、シエルと見た目がよく似ているし、みんなも昔から“鏡合わせ”だっていつも言われてる。子供のうちからシエルの上手な真似ができるようになれば……みんなその時が来ても見抜けない。どうせ見分けなんて、つくわけない」

「ちゃんと僕がシエル・ファントムハイヴ伯爵でいられれば、僕は、僕の役割を……スペアを真っ当できるはずだって、そう思ったんだ」


 だから、ずっとシエルの行動や仕草や好みを真似をしてた。上手くできてなかったかもしれないけど、続ければきっと………
 小さな声でぽつりぽつりと話しはじめた弟の声は、話が進むたびに更に小さくなって、話すスピードも落ちていく。
 やがて震えはじめた声は消えてしまい、堪えていただろう涙が弟の両目から溢れるのを見ていたシエルは、弟を強く抱きしめた。
 シエルには、弟へかける言葉がすぐに思いつかなかった。

 弟は、きっと誰かからひどい嫌味を言われたのだ。
 いつかファントムハイヴ伯爵となるシエルの弟であるお前は、スペアとして励めばいいとか。シエルをよく見て振る舞いを真似ればお前にも代わりが務まるだろうとか。それは遠回しにお前なんていらないと、そう言われたも同然だ。
 そして、心優しいこの子はそれに傷つく余裕もなく、間に受けてしまった。聡明なこの子が、普段から劣等感を抱えているこの子は、間に受けたまま、その悪質な期待に応えようとしてしまった。

 だからこその、このひと月の弟の行動があったのだ。

 確かに長男としてこの家に生まれたシエルの立場は、次期ファントムハイヴ伯爵であり家督を継ぐ運命にある。
 もしシエルの身に何かが起きたとき、スペアとして家督を継ぐことになるのは次男であるこの弟になるだろう。それは紛れもない事実だ。
 その上、“女王の番犬”というかなり特殊な立場すらも継承することになるファントムハイヴ伯爵は、それなりの責務を全うすることになるのだから……この家に関わる者たちが、子息にあたるシエル達に過度な期待やプレッシャーを与えることは今回が初めてではない。シエルだって厳しい指導や心無い言葉を投げかけられた経験があった。

 けれど、だからといってまだパブリックスクールにも通っていない幼い子供に個としての成長を促さず「スペアとして生きるための努力」を求めるだなんて、こんな酷な話があっていい訳がないとシエルは思う。
 いずれは向き合わなくてはいけない現実だとしても、こんな歪んだ形で、弟に余計なものを植え付けてまで、なんてことをしてくれたのだと。こんなことをして許せるわけがない。
 ましてや、日常的にシエルと比べられてばかりの弟がそんな言葉をかけられたら何を思うか。
 それによりどんな行動に出るかなど、いま正に目の前で体現されてしまっている。

 こんなにも残酷なことを……弟はずっと一人で抱え込んで悩み続けてきたのかと。
 いま起きていることを頭で理解すればするほど、シエルの中ではふつふつと色んな感情が湧き上がってくる。
 なぜもっと早く弟から話を聞き出そうとしなかったのかという後悔と、一体誰が弟にこんなことを吹き込んだのかという怒り……はやく弟を救いたいという焦り。
 乱された頭は混乱を産むばかりで整理が追いつかない。

 どうすればこの状況を改善することが出来る?
速やかに解決させる為に僕はまずどうやって動けばいい?
 何をするのが最適解になるんだろうか。

 ……いや、今はそんなこと全部どうだっていい。まずは弟のケアが最優先事項だ。それ以外のことなんて今はどうだっていいんだ。

「……ーーーー」

 弟の名前を無意識に口にしたシエルは自分の思考を一度放棄して、改めて弟に向き直る。
 弟は変わらず涙を零し続けていて、ときより掠れた声でシエルの名前を口にしながら「ごめんなさい」「上手に出来なくてごめんなさい」なんて、本来不必要な謝罪の言葉を口にしていた。
 その姿にシエルは再び怒りや後悔で頭がいっぱいになりそうなのを何とか抑え、なるべく優しい表情と声を意識することを心がける。

「お前が謝ることなんて何一つない。だから悪い事をしただなんて思わないで。……もし誰かがお前を責めるのなら、この僕が絶対に許さない。絶対にね」
「……シエル……っ、ぼく、僕は……」
「もう大丈夫、大丈夫だから。全部話してくれてありがとう」

 縋るような声で名前を呼ぶ弟を安心させたくて、シエルは真剣でありながらも穏やかな表情を決して崩すことなく、弟を強く抱きしめてその背中や頭を撫で続けた。
 そうしていく内に涙が零れるばかりだった青色の宝石に、ほんのりと光が灯るのが見えたシエルは言葉を続けることにする。

「僕は、お前にはお前のままでいてほしい。スペアだから、なんて言わないで。お前の人生を、お前らしく生きていて欲しい。お前がお前でなくなってしまうなんて嫌だ」
「………………」
「誰に何を言われたのかは分からないけれど……他の誰でもないお前の兄が……シエル・ファントムハイヴがそう心から望んでいるんだよ」

 ——もしお前が僕を信じてくれるのなら、僕を一番に考えてくれるなら……他の誰でもない、この僕の望みを叶えて欲しい。僕からの一生のお願いだよ。
 もう、僕になろうとしないで。
 僕が愛するーーーー・ファントムハイヴのままでいて。

 そこまで続けられたシエルの言葉に、弟は声をあげて泣き出してしまう。
 シエルの胸に縋りついて、何度もシエルの名前を呼びながら嗚咽をこぼすその姿に、シエルの願いが聞き届けられたのだと。
 シエルは弟を優しく抱きとめながら、安堵から溢れた何かが自分の頬をつたった。


 しばらくそうして泣きながら抱き締め合う時間が過ぎたあと。
 シエルから弟に触れるだけのキスをすると、今度は弟からシエルに触れるだけのキスをした。
 赤くなりほのかに濡れる目元にもシエルが優しく口付ければ、弟は柔らかく微笑む。
 最後にもう一度だけと、緩んだその唇に深いキスを落とし、熱を絡め合った。
 普段より交わされるキスは、シエル達にとってお互いを確かめあうものであり、お互いを満たしあう為に欠かせない行為だった。
 ……それもこの最悪なひと月の間は、おざなりとなってしまっていたのだが。

 ようやく拗れかけていた心が再び通じあうことが出来たのだから、この時間を噛み締めさせて欲しいと……お互いにお互いをしばらくの間強請り続けることになった。
 この行為だって、この関係だって、ファントムハイヴ家の子息であり兄弟な彼らには、傍からみれば異質なものであり、相応しくないものかもしれない。
 それでも、二人にとっては当たり前のことだっただけのこと。
 お互いがお互いを一番に信じて、愛しているからこそ……いまの二人がいる。それこそが真実であり、二人の歩きたい人生なのだから。

 長く続いてしまったキスを終わらせるころには、だいぶ夜の時間も進んでしまい……部屋の時計を見るに、とっくに日付も変わってしまっている時間だった。
 このまま眠るのはお互いに少し難しくて、怖い夢を見て寝付くことが出来なかった……なんて小さな嘘を紛れ込ませながら、廊下を見回っていた執事長のタナカを捕まえることにした。
 普段よりシエル達の世話を焼いてくれている察しのいいタナカには、二人の目元の赤みや涙の跡にもすぐ気づいていただろうに、彼は何も聞かず、部屋に小さな灯りと温かいハニーミルクを用意してくれた。

 これを飲んで落ち着いたらベッドに入ること。そうすれば今度こそ良い夢が見られるでしょう。
 あの穏やかな表情で、それだけ伝えて、そうして部屋を後にしたタナカに二人は揃ってお礼を口にした。
 甘い飲み物を口にしながら穏やかな時間を過ごし……二人同じベッドの中で眠りにつくことになる。
 ベッドの中でも手放すことなく握られた両手のおかげで、シエルたちは二人揃ってしあわせな夢へと船を運ぶことができたことだろう。













「……タナカ、昨日はありがとう」

 翌朝、シエル・ファントムハイヴは廊下で出くわしたタナカにお礼を言う。
 それに対して、立ち止まったタナカは執事として当然のことをしたまでだと笑顔を向けてくれた。
 そんなタナカにシエルも笑顔を返すと、その隣の人物へと視線を移す。

 何かあったのか、と今にも口にしそうなシエルたちの父親であるヴィンセント・ファントムハイヴ。現ファントムハイヴ伯爵に、シエルは真っ直ぐな瞳を向けた。
 その瞳でシエルが何かを伝えたいのがヴィンセントにも伝わったようで、どうしたのかとシエルに問いかけてくる。
 その問いかけに、シエルは深呼吸をひとつおいて口を開いた。

「お父様にお願いごとがあります」
「……お願いごと、か。随分改まった言い方をするじゃない。さては無理な頼みごとをするつもりかな?」

 どこか茶化すような発言をするヴィンセントだが、その瞳は依然としてシエルの話を真剣に聞こうとしている瞳のままだ。
 ちゃんと話を聞いてくれるのであれば、それで構わないシエルが変わらず真剣な眼差しで見つめ続ければ、それに対してヴィンセントは「悪くない瞳だね」と愛想のいい微笑みを浮かべた。
 ヴィンセントは傍にいるタナカへと声をかけると、シエルを執務室へと手招いた。
 話を聞くにどうやら紅茶と茶菓子の準備をお願いしたようだった。

「長い話を聞くことになりそうだから場所を変えよう。ついでにチェスでもどうかな?」
「勝つことが出来たら、僕のお願いを聞いてもらえるって思っていい?」
「おや、生意気なことを言うようになったね。……いいよ、何でも叶えてあげる」



 執務室についたヴィンセントは「一応聞いておくけど、一体どんなお願いごとがしたいの」と聞いてくるので、シエルは貼り付けた笑顔ではっきりと答えた。

「……邪魔なネズミの駆除」

 その答えに、久しぶりに腕がなるいい勝負が出来そうだと笑うヴィンセントにシエルも挑戦的な笑顔を向ける。



 番上に並ぶ駒を見たシエルは目を閉じて、愛おしい今朝の弟の笑顔を思い出す。

 例の件の、事の発端は……最近よく弟の世話を見ていたハウスメイドだったことがわかった。
 三年ほど前から務めている彼女は野心家で、地位や名誉にうるさいのが子供であるシエルにも伝わるほど。
 この屋敷に来た頃から鼻につく部分は確かにあったが、寄りによってシエルの最愛の弟に嫌味を言うだけでは飽き足らず、ろくでもないことを吹き込んでいたとは。
 無垢なあの子に、使用人の分際で心無い言葉をかけた罪は大きい。

 ……大好きなあの子を脅かすものは、害獣として今すぐにでも駆除されるべきだろう。

 けれど、決定的な証拠がない以上、子供の一存で使用人を解雇させることなど簡単にはいかないだろう。
 何せ、女王の番犬であり秘密主義なファントムハイヴ家に関わった使用人の解雇は、“死”を意味する。少なくともヴィンセントの代ではそういうことになっているのを、シエルは既に知っていた。
 ハウスメイドだろうが、使用人は使用人だろうが、ヴィンセントにとっては必要だから配置されている駒の一つだ。安い命というわけではない。それだけ重く、軽い命でもあるのだ。

 それでも、ヴィンセントはそういうリスクも承知の上で子供を聞いてくれる、“良い父親”だとシエルは思っている。
 何せシエルがこういったお願いごとをするのは今回が初めてではないし……その辺も含めて、歪みあるシエルという子供のことをヴィンセントもある程度察してくれているのだろうから。
 とはいっても「パパおねがい」なんて一言でこの人が簡単に動いてくれる訳では無いし、父親のご機嫌取りとして、余興に過ぎないこの勝負に勝つことが大前提だけれど、シエルだって譲れないものは譲れない。
 今回のチェスも、本気で挑むまでだ。



 ……僕は手段を選ばない。

 使えるものはなんだって使うし、その目的はほとんどが大好きな弟の為だなんて言いながら、弟に近づく不快な害獣を踏み潰したい私利私欲に塗れたもの。その欲で、いまは一人の命すら簡単に奪おうとしている。
 シエル・ファントムハイヴは、もとよりそういう人間なのだ。
 自分で抱えこんで何とかしようとする無垢で優しいあの子が真似るには相応しくない存在だし、こうは成長して欲しくない。



 ほら、全然違うでしょ?
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