幸福の檻
「おかえり、早かったね」
——今日はクライアントとの打ち合わせで遅くなるって言ってなかった?
玄関のドアを開けたばかりの弟はまだ一言も発していない。それなのに一体何の気配を察しているのか、シエルはいつも通りの笑顔で出迎えてくれる。
このいつもの光景は相変わらず少し気味が悪いと思うのに、毎日シエルにこうして出迎えられるのは悪くないとも思えて……そんなささやかな日常に、本来であれば何とも言えない擽ったい気持ちにさせられるところだった、のだが。
残念ながら、いまの弟は別件で絶賛ご機嫌斜めな為、シエルからのお出迎えがあってもマイナスの感情が帳消しになることはなかった。
そんな苦虫を噛んだみたいな顔で帰宅して、出迎えに対しても何も言わないまま黙り込んでいる弟の顔を見たシエルは、当然おもしろいものをみたといわんばかりににやりと笑うわけで。それがまた余計に弟の不機嫌を煽った。
「ふぅん……その顔、さては何かやらかしたんだ」
「僕がやらかしたわけじゃ……ッ!」
「じゃあ、またクライアント側?」
「…………」
沈黙の肯定にシエルは小さく息を吐いた。
「お前って用意周到な割に、最後の詰めが甘いところあるもんね」
——とはいっても別にお前自身に問題があるわけじゃなく、相手の癖が強すぎることの方が多くて、それが原因なのも知ってるけどさ。
それでも躓いてばかりいないで、お前はそこも加味してもっと先を見越して行動しなくちゃね?
シエルからの意見に弟は顔を顰める。
……うるさい。そんなこと僕が一番わかってる。そう言い返そうとしたが、弟は開きかけた口を閉じた。
別に慰めてほしかったわけではないが、シエルからのお小言はもっともすぎて、耳が痛くなるのだ。言い返してやろうにも口がよく回るシエルに口喧嘩で勝てた試しなど生きてきた二十年近くの中でも片手で数える程度のこと。無謀に挑んだところでいまこの場で言い負かされでもしたら、不機嫌はさらに悪化を辿るどころか、シエルに必要のない嫌なことを言ってしまうかもしれない。そんな自分の未熟さが露呈するのはもっとみっともなくて嫌だ。
それにシエルがそうやって厳しい言葉をかけてくれるのはむしろありがたいとさえ弟は思う。弟が何故上手くいかないかを理解しているシエルから「大丈夫だよ」「次があるよ」なんて、そんな励ましの言葉をかけられる方がよっぽど惨めだ。
……そんな理由で言い返したいのをぐっと堪えた弟は、悔しそうな顔を浮かべることしかできない。
するとシエルはそんな弟の顔を見て困ったように柔らかく微笑むのだった。
「いじわるなことを言ってごめんね」
「……別にいい。全部本当のことだから」
羽織っていたコートを脱いで帽子を取ると、シエルはそれを受け取って部屋の中へと先に進んでいく。もう貴族でもなければ、いまは一人の商人……一人の大人として生きているのだから、それくらい自分でできるし、シエルには使用人みたいな真似をしないで欲しい。いつの日かそうシエルに伝えたけれど、シエルはただ少し不服そうな顔で「世話焼きは兄の性分であり、特権なの」と訳がわからない理由で聞いてもらえなかったが為に、これも恒例のことになってしまった。
シエルの後を追うように自分も廊下を進み、部屋の中に進んでいくと、暖炉のあたたかさが冷え切った身体に染みいる。火加減も強すぎず弱すぎず、上手い具合に調節できている。
弟がじっと暖炉をの火を見つめていると、コートと帽子を片づけ終えたシエルから声をかけられた。
「それの扱い、だいぶ上手くなったでしょ?」
「うん……ここに引っ越してきた時は火種の用意も薪の用意も出来てなくて、散々な思いをすることになったのが懐かしい」
「あはは、そうだった。仕方なくお互い羽織れるものを何枚も引っ張り出して、こんな風に暖をとって眠ったよね」
後ろから抱きついてきたシエルは外に出ていないからか、すごく暖かくて、その温もりが心地よくて抜け出せずにいる弟が何も言えずにいると「あったかいね」なんて機嫌のいい声が聞こえた。弟がそれに同意するように回されたシエルの手を握ると、後ろからくすりと笑う声が聞こえて、そのすぐ後に首筋へキスが落とされた。
わざとらしいリップ音に首を抑えた弟が振り返ると、シエルはいたずらが成功した子供みたいないい顔をしている。そして弟が小言を言おうものなら鼻歌を歌いながら食事の支度をはじめてしまうのだ。そんなシエルに小言を口にすることを諦めた弟もその支度を手伝うことにした。
二人がこの家に引っ越したのはいまから半年前。弟が起業した事業……言い換えるのなら、彼の「おもちゃ屋さんになりたい」という幼い頃からの夢が形となり叶ったことがきっかけだった。寄宿学校に在籍していた頃から、弟はシエルの助けを借りながらその夢を叶える準備を進めてきた。
そして、計画通りに進んだ準備に加え、かつて彼らの父が残してくれたコネクションにより父の古い友人達のツテを借り、卒業から起業するまでにそこまで時間は要さなかった。
夢が叶ったからといってもちろんすぐに軌道に乗るわけではないので、卒業後は寄宿学校に入るまで育ててくれた親戚にあたる叔母の家にしばらく居候することになったし、なんだかんだでたくさん世話も焼いてもらってしまっていた。
寄宿学校にいた頃から身の回りのことや一般的な家事は学んできたものの実際に誰にも頼らずに暮らすとなると、十歳の誕生日を迎えるまでは貴族だった彼らには中々上手くはいかないものだ。
けれど、思い出したくもないトラウマ……あの襲撃事件とその後のことを思えば、そんな苦労は二人にとって可愛いものに過ぎない。
異質なあのカルト集団に囚われの身だった頃は、地獄そのものだった。人間としての尊厳を失わせるには十分な奴隷みたいな扱い。繰り返される性的なことを含む暴行の数々。生かすためためだけの最低限の食事。このまま僕達は搾取され続け、死んでしまうのだと思いながらも、シエルが何度もかけてくれる「絶対にここから逃げ出そう」「二人でやり直そう」という言葉を弟はただ闇雲に信じていた。そして、弟が信じ、シエルが思い描き続けた未来はちゃんとこうして叶ったのだ。
もう何もかもが終わりなのだと思ったその瞬間、二人がよく知っている顔の、名前も何も知らない死神が助けてくれたおかげで。
そんな過去があるからこそ、こうしてどちらも欠けることなく揃っていまを生きていける、それだけで二人は十分すぎるくらい幸せだった。
……それでもこの平穏な暮らしにはノイズのように歪さが紛れ込んでいる。
「……やっぱり意外だな」
「ん、何が?」
「シエルが家事全般を引き受けるなんて思わなかったから」
家のことはお手伝いさんを雇ってまかせちゃおう!……なんて突飛なことを言い出しかねないと思っていた、とまでは口に出さずとも、弟はそう言いたげ視線をシエルに向けた。
当のシエルは夕食に使ったカトラリーを片付け終わったところで、手際良く食後の紅茶の準備まで済ませている。そんなときにかけられた弟からの一言は意外だったようで瞳を丸くさせていた。そんな顔をされると年齢よりもだいぶ幼く見えたが、弟は口にはしない。大人になっても童顔なのはお互い様だからだ。
「まぁ確かに僕自身も意外だとは思うよ。それでも、お前の世話を焼く時間だと考えればどんな家事も天職だと思うんだよね。あ、これ役得ってやつ?」
「聞かなきゃよかった」
「え〜、お前から聞いたのに酷いなぁ」
シエルは、そう言いながらテキパキとティータイムの準備を整えてソファで待っていた弟の隣にもたれるように座った。それなりに稼げようになって二人で腰掛けても余裕のある程よい大きさのソファを買ったはずなのに、スペースを活用する気はシエルには毛頭ないらしい。
「もう一つの理由を付け足すなら、お前の叶えたい夢がおもちゃ屋さんなのに対して……僕はただ、お前とずっと一緒いたいって願っていただけだから。その気持ちが昔も今もこの先も、変わることがないだけだよ」
そう話したシエルは弟の手を絡めるように握った。その手をシエルが握り返すと、シエルは嬉しそうにこちらに寄りかかってくる。
「傍にいてくれるなら、家のこと以外にももっと違うやり方だって……」
「そりゃあ、やりようならいくらでもあったよ。だけど僕はその中から、夢の手伝いじゃなくてお前の生活面のサポートのほうが“僕の夢は手っ取り早く叶う”と思って選んだの」
話を静かに聞いていた弟には、シエルの言っている意味はわかりそうで言葉がまだ足りないような気がする。もう少しだけ補足が欲しいと目で訴えかければ、シエルはみなまで言わせないでよとため息をついたがそのまま話を続けてくれた。
「お前には夢を叶える力と才能、計画性と実行力が十分に備わっている。きっと本当なら僕がいなくたって一人で成功することもできる……ずっと隣で見てきた僕にだからわかるんだ」
「……むしろ、お前がいないとダメなのは僕の方。お前が隣にいないと思うだけで何をするのも億劫で、生きる意味さえ見失いそうになる……僕はお前に生きる意味を見出して、言い訳してる卑怯な人間なんだ」
「そんな僕が大好きな弟に見捨てられない為に考えた結果がいまの形なんだよ。お前が一人でも叶えられる夢の手伝いをするよりも、お前が一人ではこなせないだろう部分で生命線を握った方が有用性を示せるし……少なくともお前の傍にいる口実としては上々でしょ」
シエルはそこまで言い切ると弟の瞳をしばらく見つめてから、にっこりと笑って何かを話そうとした弟の口に「はい、あーん」なんて、チョコレートのガナッシュを刺したスイーツピックを向けてきた。
ほとんど反射でそれを口にしてしまうと、ほんのり口の中に広がるまろやかな甘さと苦さに一瞬で心奪われて、口角を緩めながら咀嚼しているとシエルは満足げに笑う。
「製菓雑貨を取り扱っている店主にレシピを教えてもらったの。美味しくできてるでしょ」
シエルがガナッシュを自分でもひとつ口にするその姿を見ながら、弟は言いたいことがうまくまとまらないまま目をテーブルへと逸らす。
シエルが用意してくれる紅茶もお菓子も、そのほかのことだって何をとっても文句のつけどころなんて一つもない。まだ家事に不慣れな頃を知っている弟だからこそ、シエルがどれだけ努力をして生活の基盤を作ってくれているのか、どうやってそれを安定させてくれているのか、その努力のすべてを、弟は計り知れずとも理解しているつもりだ。本当にシエルはよくやってくれている。
——そもそもシエルは優秀な人間なんだ。僕なんかよりもずっと……。
本来であれば、いまは燃えてしまったあの屋敷で伯爵の責務を背負うはずだった。それをこなすだけの力がシエルにはあった。
だけど、シエルはあの事件以来、その未来を自分の手で閉した。
“地位も名誉ももう要らない。伯爵になんてなりたくない。そんなもののせいで、これ以上何かを失うのはもう嫌だ。僕にはお前だけがいればいい”
事件に巻き込まれて、誘拐されて、売り払われて、辿り着いた地獄のことは思い出したくないけれど、その囚われの身から解放されたあの日、そう震えた声で告げた幼いシエルの姿と叫びは、今も弟の脳裏に焼き付いて離れない。
あのときのシエルの決断について、今更とやかく言ってもシエルはきっとすごく嫌な顔をするだけだろう。弟にだってそれくらいわかる。
それでもシエルが未来を見ていながらも、ずっとあの事件をトラウマのように引きずっていることが弟は気掛かりで仕方なかった。
……自分がシエルの傍を離れるわけがないのに、離れられるわけがないのに。伝わらないことがまたもどかしくてたまらなかった。
もどかしさを上手く伝えることができないから、弟はシエルにキスをおくる。言葉ではうまく伝えられない以上、弟が取れる手段はとても少ない。それでも弟は何もしないという選択肢だけは取りたくなかった。
ガナッシュを口にしたばかりのシエルの唇は甘く、その間を通り抜けた先の中も、何もかもが甘くて、弟は自分の好みになっているその場所を堪能するように味わった。そして、はじめからこうされることが目的だったかのようにシエルは乗り気で、弟からされることを全て受け入れてくれる。
ときよりお互いから漏れ出す甘い声が、お互いのことを煽った。
シエルと弟がこういうことをするようになったのは、やはりのあの事件が原因だった。
お互いがお互いに向けているこの感情は、恋愛感情だと名付けるにはどこか歪で、だけどただの兄弟間の間に生まれる愛情と呼ぶにはどこを越していて。
……ただひとつ確かに言えるのは、まともな恋愛をすることも、まともな兄弟のままでいることも、彼らにはもう不可能だということだけ。
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