聖夜の怪物





 弟は、冬にやってくるあいつが好き。

 鼻を真っ赤にしたトナカイが引くソリに乗って、夢のおもちゃがたくさん詰まった大きな袋を持って、白い髭を揺らしてやってくる赤い服のおじいさん。
 ……全国の子供達からサンタクロースと呼ばれ、そして慕われるそれに弟はご執心。


 毎年12月24日の夜から25日の朝にかけて、子供達におもちゃと夢を配り歩くその存在を嫌いな子供のほうが珍しい。しかしまさにそんな珍しい子供がここに一人いた。

 その理由は極めて単純で、大好きな弟の心を毎年この時期に決まって奪い去っていくその存在に嫉妬しているのであった。
 目視できた訳でもないのに、絵本の中の登場人物とさして変わらない空想の世界にいるその存在を瞳をキラキラとさせて語る弟の姿が……兄であるシエルにはどうしても看過できない。

 彼らの誕生日はクリスマスと同じ12月の14日。12月に入ったばかりの頃は“僕達の誕生日だ”と二人で待ち遠しい誕生日に思い馳せていたのに。いつのまにやら部屋にはアドベントカレンダーが置かれるようになり、誕生日が過ぎてしまえば、もう弟の気分はすっかりクリスマスに奪われてしまう。毎年恒例のことだ。同じことが繰り返されるだけなのに、シエルはそれが面白くなくて仕方ないのだ。
 
 サンタクロースが訪れる日を待ちかねた弟はご機嫌で、両親や使用人達と今年届くプレゼントの話をしたり、アドベントカレンダーの中身に一喜一憂したり……クリスマスツリーや屋敷内の装飾・彩りに飽きもせず毎年心を躍らせているのが隣にシエルにはよく分かる。
 普段はあんなに大人しい弟がはしゃいでいるその姿はとても可愛らしいのに、その様子がどうしてかシエルは気に入らないと思ってしまう。そんな自分が嫌気すら覚えていた。

 いつもであれば。病弱な弟は部屋に閉じこもり気味で、幼さによる人見知りも相まって、シエル以外の人間とは滅多に話そうとしない。話をするにしても世話係の執事やメイドくらいだし……弟の性格上、心を開くのに時間がかかる為、シエルと同等に本音を話せるのは執事長のタナカくらいなもの。シエルから見た弟は、両親にだって中々上手く本音を話せていないように見えていた。

 そう、だから本来であれば、両親にも使用人にもあんな風な浮かれた笑顔を簡単に向けたりしない。
 シエル以外と楽しそうにお喋りなんてしない。そのはずなのに、このクリスマスの時期だけは弟は見たこともないくらい上機嫌だった。

 毎日が本当に楽しそうな、そんな姿の弟を見ているとシエルの胸はちくりと痛み、痛んだその箇所からは薄暗いモヤが広がっていくような気分がした。

 ——僕以外の存在に、心を奪われないで、過度な興味を向けないで……なんて言えたら楽になれるのかな。

 シエルにとって、弟は他の何にも変え難いほど唯一無二の宝物で、目に入れても痛くないと思えるほど愛おしい存在だ。
 そんな存在を別の誰かに奪われる意識から芽生えた仄暗いもの。幼い彼に付きまとう可愛さのかけらもないこの嫉妬とよばれる感情。
 ……いや、黒く染まり過ぎているそれは嫉妬だなんてものにはもはや収まらないのかもしれない。それくらい、シエルが弟にだけ向けたこの感情は弟を愛おしく思えば思うほどあまりにも醜く育ち過ぎてしまっている。この時期になる度に悪化の一途を辿ってきたのだから。

 嫉妬とは呼べないこの独占欲。それをまだ未熟な彼は飼い慣らすことは愚か、可哀想なことに上手くコントロールできる術をもっていない。
 その欲が募る度に、シエルの心は荒れ、苦しむばかりだった。

 可愛い弟が夢見るその姿を否定したいわけではない。心に余裕さえあれば、そんな弟のことを愛でたいと思うのに。
 シエルは、クリスマスなんていっそ無くなってしまえば良いと……毎年、毎年、クリスマスの全てを心の中で呪い続けることしかできなかった。




 だから、隠せないシエルの嫌悪にも似た何かを感じ取った弟に余計な心配をかけてしまう。

「シエルは、クリスマスが苦手……?」

 両親や使用人に親戚に客人、どんな人物だってシエルがただニコニコと笑って楽しそうに振舞っていれば「元気のいい明るい子供」だと認識してくれるのに、この弟だけは彼の些細な変化を見落とさない。
 それはクリスマス期間もちゃんと働いていて、浮き立つ気持ちの中でも少しでも自分を気にかけてくれているのだと思えば……シエルの気分も少しは落ち着いてくるものだ。

 ごめんね、少し考えごとをしていただけだよ。そう何回も誤魔化しては、弟にこの薄汚い独占欲が露見することをシエルは拒んでいた。こんなものを弟に向ける自分のことすらシエルは呪っていた。




 今日は、クリスマスイブ当日。
 その日シエルは、明日が楽しみで眠れないという弟とベッドの上で遅くまでチェスをしていた。

 今年まで、自分はよく耐えたほうだとシエルは思う。

 毎年、毎年毎年毎年、サンタクロースなんているはずのない存在に弟の心を奪われて、気が狂いそうな気分で過ごしてきた。
 許せなかったんだ。例えそれが大人になれば覚める夢だとしても、幼い今だけしか見れない夢だったとしても、いい加減耐えられそうになかった。

 シエルの隣でサンタクロースは悪いものじゃないよ、おもちゃの国に住んでいる彼は子供が大好なすごく素敵なおじいさんで……なんて、弟がシエルに一生懸命子供騙しな寝物語を聞かせてきたのがよくなかったのかもしれない。クリスマスが苦手な自分ののために、弟がそうしてくれていることをシエルはちゃんとわかっていたのに。それでもだめだった。
 
 いよいよ独占欲は別の醜い何かに姿を変えていく。

 我慢の限界などとっくに超えていた。
 今年はもう、ついに、とうとう。弟への拗らせた独占欲を抑えられくなってしまったのだ。

 ——ああ、もう、だめだ。

 そう思った瞬間には冷たくなった唇が勝手に動いていた。



「サンタなんていないよ。そんなのいるわけがない」


 ああ、言ってしまった。夢を見ている子供に絶対にかけてはいけない言葉を、よりによって夢見る弟に、大好きな弟に言ってしまった。
 夢を壊してはいけない暗黙のルールを破ってしまった。

「あんなの、大人達が創り上げたまやかしの存在でしょ」

 僕はなんて最低な兄なんだろうと、シエルは頭ではそう思いながらも……目の前で豆鉄砲を食らったような鳩みたいに困惑している弟の顔がわなわなと怒りに震えていく姿に口元を緩めた。
 弟の理不尽に対する怒りに震えるその姿は愛おしくて、この子の夢を踏み荒らした事実はとても背徳的で、なぜか気分が高揚するような気がした。

「……っ、そんなことない!! サンタクロースはいる、絶対にいるんだ!!!」

 どうしてそんな酷いことを言うのだと、シエルを責めてくる弟に自分がどれだけ意地悪な顔をしてしまったか、シエルにはわからない。でも弟の顔を見れば一目瞭然だ。今のシエルは、夢を壊された弟から見ればただの最低な兄だ。

 シエルが座り込んでいたベッドから降りて「見たことのない存在を信じるのはおかしいよ」と笑えば、弟はベッドの上で悔しそうに瞳を釣り上げて頬を膨らまして睨みつける。

「さ、サンタはちゃんとベッドの中で眠っているいい子の元にしかこないから……だから誰も姿を見たことがないだけで」
「その前提がまずおかしいじゃない。そんなの都合よく子供をベッドから出さないようにする為の、サンタの中身を悟らせない大人の陰謀に違いないよね?」
「違う! そんなの絶対に違う!」
「否定するだけなら誰にだって出来るよ。子供だなぁ」

 ——どうせお前だってサンタの姿も、トナカイが空を飛ぶ姿だってみたことないんでしょ?

 ニッコリとした意地悪な笑顔でふんと鼻を鳴らしたシエルはそのまま出入り口の扉の前へと向かう。
 どこに行くつもりだと声を荒らげている弟に「喉が渇いただけ」と嘘をついて部屋を出た。

——言い任してしまった。

 大好きな弟の見る可愛い夢すら許容できない自分こそが子供ではないかと、部屋を出たシエルは自分に対して嫌気がさす。
 弟絡みとなるとシエルはどうしても上手く気持ちをコントロールできなかった。
 ……自分の理不尽な感情と欲で弟を傷つけてしまったと、ちゃんとわかっている。早く頭を冷して弟に謝らなくてはいけないことも。

 ——大丈夫、こんなのは喧嘩のうちには入らない。よくある兄弟同士の言い合いのひとつだから。ちゃんと行動に移せばすぐに仲直りが出来るはず。

 シエルは自分にそう言い聞かせながら、暗い廊下をあちこちに灯る蝋燭を頼りに進んでいく。
 そしてまだ灯りがついていた厨房の前で足を止めた。
 中を覗き込むと明日の仕込みで起きていた料理長と目が合い、シエルが喉が渇いてしまったことを伝えると、料理長は微笑んで少し待っていてほしいとシエルを作業用の小さな椅子に座らせてくれた。

 しばらくして、料理長はシエルに、カップに注いだホットミルクを差し出した。
 蜂蜜を溶かすと喉にも良いからとつけ合わせてくれたそれをたっぷり溶かして、それから一口味わうと、彼の強張っていた表情は柔らかくなる。
 蜂蜜を溶かしたホットミルクは、とても温かくて、優しくて、甘くて……荒立っていた自分の心が穏やかになっていくのをシエルは感じた。

 ——今度、弟にもつくってあげよう。

 シエルが思い浮かべたのはやはり弟の顔だった。


 ホットミルクを飲み終えたシエルは軽く口元を拭って料理長へお礼を告げると、料理長は執事長の彼には内緒にしてくださいね、と笑っていた。そんな彼にもう一度シエルはお礼をいって厨房を後にした。


 気分も落ち着いた。弟の気持ちもちゃんと考えられる。今なら弟の話をきいて、謝れる。
 大丈夫、大丈夫。きっと大丈夫。すぐに仲のいい兄弟に戻れるはずだから。
 ……ごめんね、僕が悪かった。ごめんね、僕が悪かったんだ。傷つけてごめんね。嫌な言い方をしてごめんね。
 部屋の扉の前に辿り着いたシエルは、何度も弟に謝る練習を心の中で繰り返した後、意を決して扉を開けた。


 弟は変わらずベッドの上にいた。

 しかしシエルとの言い合いの果てに疲れてしまっていたのか、彼はすっかり頭を項垂れさせている。
 少し様子がおかしいような気もしたが、シエルのかける言葉に迷いはなかった。

「……さっきはごめんね。僕が言い過ぎた」

 ベッドに腰掛けたままの弟の隣に座って、そう小さな声で謝罪の言葉を口にする。弟の反応が見えないのは、シエルが弟の顔を見て謝罪することができなかったからだ。
 ちゃんと顔を見なくてはいけないとわかっているのに、そう出来ない自分が情けなく思いながらも、シエルは謝罪の言葉を続けた。

「サンタクロースはいないだなんて、僕だって証明出来るわけじゃないのに、嫌なことをいって、お前を傷つけて本当にごめんね」

 けれど、そんな謝罪を弟が小さな声で遮った。

「……かった…」
「え?」

「サンタクロースはいなかった、いなかったよ……はじめから、そんなものいなかったんだ」

 俯いたまま、弟は力無くそう言った。
 その弱々しい声にシエルがようやく弟の顔をそっと覗き込むと、弟はショックを受けた顔でぽろぽろと泣いていた。

 赤くなり始めている目元、冷たくなった頬、悲しそうに下がる眉、潤み続ける瞳から溢れるのは止めることの出来ないだろう大粒の涙。
 シエルが咄嗟に弟の頬を包み込んで顔を正面から合わせても弟は声こそ出さなかったが、いよいよ本格的に泣き始めてしまった。

 一体何があったのかと聞き出したい気持ちには一度蓋をして、嗚咽で微かに震える弟の背中を出来るだけ優しく撫でて落ち着かせようとするシエルに、弟は泣きついたまま縋り付く。そんな状態がかれこれ十分弱続いた。

 涙は止まらないものの、ある程度落ち着いてきた弟に話を聞こうかとシエルは悩んでやめた。今この状態の弟に色々なことを問いただすのは酷なことのように思えた。
 だから、今日はもういっそ早く眠ってしまおうとシエルから提案した。すると弟はそれに小さく頷いてくれたので、ベッドの上で散乱しているチェス盤や駒を片付けて、こっそり持ち込んだお菓子を戸棚に隠すようにしまっていく。
 その頃には、鼻を鳴らしてぐずり気味の弟もようやく泣き止んでいた。

 シエルと弟の二人きりの寝室には、それぞれのベッドが用意されている。だからいつもであれば、各々一人一人で眠っているのだが……ついさきほどまで泣きじゃくっていた弟を一人で眠らせるほどシエルは無神経な兄ではない。むしろ心が落ち着かないのはシエルの方だ。
 今夜はそばにいたいと願うシエルと、心細そうな弟の利害は一致していた。
 
 どちらからともなく一緒に眠ることを決めると、シエルから自分のベッドへ弟を招く。
 一緒にベッドの中に入ると、シエルは弟を自分の腕の中へと誘った。弟は迷うことなくそこにおさまることを選んで、シエルのことを見つめてくる。
 まだ仄かに濡れている弟の目元はまた涙を流しそうに見えて、シエルはその場所に優しくキスを落とした。

 ……この行動を、シエルは涙がとまるおまじないだと称した。シエルから泣き虫な弟にだけ贈る特別なおまじないだ。

 されるがままの弟の頭をそっと撫でて、そのまま眠りの世界へとシエルが誘おうとするが、弟はそれに突然抗う。何かを言いたげなその姿にシエルは弟の頭を撫でるのをやめた。どうやら話を聞いて欲しいようだ。

「どうしたの」

 シエルが質問系にはならないよう、ただ口にしたような曖昧で柔らかい言葉をかけてみると、弟は鼻を鳴らす。

「……さっき、暖炉の前でじいやに会ったんだ」
「暖炉の、前?」

 その言葉を聞いたシエルはハッとした。

 毎年、クリスマスプレゼントが届くのは決まってツリーが飾ってある大広間の暖炉の前だ。もしその場所で部屋から抜け出した弟が執事長である彼に出会ったというのであれば……。
 まさかと疑いながらも、ほとんど確信を持ってシエルは弟の言葉を待っていた。



「……シエルに、見たこともないものを信じるのはおかしいって言われて、それが悔しくて……僕は、それで大広間にいって……

じいやに会ったんだ、じいやはプレゼントをもってて……それで、それで……っ……」


 今にもまた泣き出しそうなその声を聞いたシエルは血の気が引くような気分だった。
 自分の軽はずみな言動のせいでとうとう弟の小さな夢を壊してしまった。
 夢を壊されたショックでこんなにも傷ついている弟をみて、それでようやく自分の犯した罪の大きさに気づくなんて、自分で自分がどうかしているとシエルは思う。

 シエルが罪悪感から衝動的に力いっぱい弟を抱きしめると、弟は堪えきれなかった涙をぽろぽろと流しはじめていった。

「…ごめん、っごめんね。僕はお前になんてことを」

 本当に取り返しのつかないことをしてしまったと、シエルは弟に謝り続ける。けれどそんなシエルに「いいんだ」と、弟はあっさり許してしまう。

「僕が子供だっただけだから。シエルは何も悪くない……シエルが、正しかっただけだよ……」

 涙を流したまま、諦めたようにそう告げる弟をシエルはただ抱きしめ続けることしか出来なかった。
 こうなってしまった原因も責任も、全部シエル自身が背負うべきはずのものなのに、ただ自分は正しいことを言っただけだなんて開き直れるはずもない。
 夢を奪われた喪失感と悲しみに塗りつぶされた弟の姿に、シエルはたとえ弟が許してくれたとしても自分を許せるわけもなく、自分自身のことを最低だと嫌悪していた。



 ……けれど、弟を傷つけたという事実よりも、シエルには許せないものがあった。

 それは、自分の発言一つが原因で弟をここまで傷つけたことに、気分が高揚としてしまっている浅ましい自分。
 聖なる夜に生まれてしまったとても醜い怪物。
 シエルはそれを頭の中の片隅に閉じ込めたいのに、怪物は中々なりを潜めてはくれない。


 夢が壊れ、濁ったように揺れる瞳も、濡れぼそった赤い目元も、夢を諦めてくしゃくしゃになった表情も、精神が不安定になっていながらも、夢を壊した張本人であるシエル本人に縋りついてくる弱々しい身体も。
 いま目の前にいる弟の中には、もう紛い物に夢中だった姿なんて一ミリもない。シエルによって影響を受け、全てを変えられてしまった弟だ。
 もう弟の口からサンタクロースが実在するという夢物語が語られることは無いし、クリスマスの度にキラキラとさせていたあの瞳が輝くことも無い。
 シエルの言うことは正しいと諦めた姿勢を見せる、そんな弟のことをどうしようもなく愛おしく思ってしまう気味の悪い自分に、シエルはゾッとした。

 ——この感情だけは、弟に悟らせてはいけない。

 瞬時にそれが自分でも理解できた。
 シエルは自分自身が弟へ過度な独占欲を抱いているとわかっていた。けれど、そのただでさえ醜い独占欲がここまで酷い方向に悪化していたなんて、シエル自身も気づかなかったのだ。
 ただ自分の傍で笑ってくれている弟を好ましく思っていたはずなのに、泣いている姿も悲しんでいる姿も自分の手で晴らしてあげたいと思っていたはずなのに。

 自分のせいで傷ついている弟に、夢を壊して絶望に歪むその姿にさえ興奮して喜んでしまう自分をこれから僕はどう抑えていけばいいのだろうか。はたして、そんなものを愛と呼んでいいのか。
 ……こんなもの、もはやただの愛でも依存でも、独占欲とも呼べない。
 これは気味の悪い怪物が生み出した、身勝手で薄汚いだけの執着だ。


 シエルは自分で、自分のことが恐ろしくなってしまった。……だけど、直感的に理解してしまう。その醜い存在こそが自分の本質なのだと。

 ——僕はいつか、自分を信頼してくれている弟を汚すことさえ迷わなくなるのかもしれない。
 そんな弟を見ることでしか満たされないただの醜い怪物になってしまうかもしれない。

 たとえ、愛する弟の絶望に歪んだ顔を見たとしても、僕は……………僕は、




「シエル、ごめんね」
「……っ……え?」

 腕の中で嗚咽を零し続けていた弟はいつの間に泣き止んだのか、シエルの顔を見ながら小さな声で謝罪をして鼻を鳴らす。
 弟は別のことに意識を飛ばしていたシエルのワンテンポ遅れた返事には気づきもせず、シエルの腕の中にいるままもう大丈夫だと告げた。

「……ごめんね、こんなに泣いて」

 まだ少し震えた声でそう告げてくる弟にシエルはなるべくさきほどまで考えていたことを悟られぬように柔らかく微笑んでみせた。

「大丈夫、大丈夫だよ、謝らなくていいから」

 目を伏せた弟は更にシエルに身を寄せてくるので、シエルはその身体を優しく受け止めた。
 そして目元に残った涙を自分で拭う弟の頭をゆっくりと撫でて、撫でている間に弟が微睡み始める姿にシエルは自分が満たされるのを感じた。
 ただでさえ遅い夜にたくさん泣いて、疲れて、眠たくなってしまうのも当然だ。
 年相応の可愛い弟の姿に自然とシエルの口元が綻んだ。

「もう落ちついたかな」
「うん……なんだか一周まわって少し恥ずかしくなってきた」
「ずっと信じていたものが幻だったって知ったんだもの、ショックを受けて当然だよ。……僕が無神経だった、本当にごめんね」
「ううん、本当にいいんだ…気にしないで」
「…………。ありがとう、お前は優しいね」

 優しすぎて、綺麗過ぎて、心配になってしまう。その言葉をシエルは口にせず飲み込んだ。

 そんなシエルの気も知らず、眠たそうな弟は今にもその瞳を閉じて夢の世界へと旅立ってしまいそうだった。
 それなのにまだシエルと話をしたいのか、その青い瞳にシエルを映し続けてくれる。

「シエルは、サンタクロースがいないって知ったとき、どんな気持ちだった? 悲しかった?」
「うーん……正直、物心ついたときには何となくそういうものだって分かってたから」
「ふぅん、シエルは夢がないな」

 そんなのつまらないだろ?と、弟はふにゃりと笑う。

「……サンタクロースはおもちゃの国に住んでるんだ。大好きな子供達の為に大きな袋にたくさんおもちゃを詰めて、相棒の真っ赤なお鼻のトナカイにソリを引いてもらって……みんなにおもちゃと夢を配ってくれる」

 素敵な、とても素敵なおじいさんなんだよ。
 偉大な人物の話を穏やかな声で語る弟に、シエルは今度こそ否定しなかった。「素敵だね」と弟の言葉を肯定すれば、その言葉に弟は少し驚いた後、微笑んでみせた。

「僕達のところに来ていたのは、サンタクロースじゃなかったけど、きっと僕達の為にお父様やお母様……じいや達が今年もとっておきのプレゼント選んでくれたんじゃないかな。それも素敵なクリスマスだと僕は思う」
「……うん、シエルの言う通り、今までずっと、僕達を喜ばせる為にたくさんいろんな準備をしてくれていたんだろうなぁ」

 ——サンタクロースって僕が今まで想像していたような一人のおじいさんじゃなくて、子供達に幸せを運んでくれる人達のことを言うんだと思う……ううん、きっとそう。

 弟が語る解釈に頷いたシエルが、よくできましたと言わんばかりにその頭を撫でれば、弟は花が咲いたように笑ってくれた。
 さきほどまでショックを受けて泣いていた弟とは思えない。
 繊細な心の持ち主でありながら、同時に強さ持っており、立ち直りが早いところは弟の長所だ。一々口に出してはいわないけれど、シエルが褒めたくなる大好きな弟な一面だった。


「それに僕、おもちゃが好きなんだ」
「……うん、知ってるよ」

 おもちゃが好きと語る弟に、シエルは少し間を置いてから返事をする。

 体調があまり安定しない弟は基本的に外に出ることを許されず、物心がついた頃にはもう室内で遊ぶことが多かった。
 両親や使用人は、そんな外に中々出られない弟に室内で遊べる新しいおもちゃや本を事あるごとによく買い与えてきた。
 弟と遊びたいシエルは、弟に合わせて室内で遊ぶことが多いが、父の妹である叔母から剣の稽古を受けるついでに遊びに来る従姉妹の相手や父親の客人へ挨拶をしなくてはいけない日はそうもして居られないのが現実だ。シエルは弟のそばに居続けることはできなかった。
 そうした弟の一人きりの時間を共に過ごしてくれるのは数々のおもちゃ達だった。

 シエル達の過ごす子供部屋は、いつもたくさんのおもちゃで満たされている。
 そしてたくさんのおもちゃに囲まれる弟は、片付けを手伝いに来た使用人によくおもちゃ屋さんのようだと言われていた。

 そんな過程があるからこそ、弟がおもちゃを好きなのは当然のことだった。それでも、やはりシエルは、弟のそばに居られるだけでなく喜びで満たしてあげられるおもちゃ達に妬いてしまう。

 ——僕も、弟を喜ばせて満たしてあげられる何かだったら良かったのに。

 そう心から思ってしまうくらいには。


 けれど、そんなシエルの考えを見計らったように弟は口を開く。


「……好き、だよ」

「チェスもカードもリバーシも……お部屋の中にいても大好きなシエルと一緒にいっぱい遊べるから」

 弟はそんな可愛らしい内容を幸せそうな声で、内緒話をするようにシエルに耳打ちした。
 その行動に呆気に取られていたシエルを放って、弟は次の瞬間には眠りに落ちていた。
 その愛らしくあどけない寝顔にシエルは目元を細めた。

 小さな寝息を立てて眠る、腕の中の可愛い弟。
 嫉妬だけには収まらず、独占欲も超えた醜い執着までも向けられていることに気づかず、今日もこうして自分を慕ってくれる、愛おしい、愛おしくてたまらない弟。
 ……シエルの歪んだ欲望は、弟の純粋で出来た尊さによって浄化されていくようだった。
 
 思えば、いつもそうだった。
 シエルが些細なことで独占欲を歪ませて弟への執着を募らせる度に、弟はひたむきにシエルへの無垢で出来た想いを募らせて優しく包み込んでくれた。それもほとんど無意識にやってのけてしまうのがこの弟なのだ。
 シエルは決して言葉にしているわけでも、態度に出しているわけでも…かといって察している素振りだって見せないのに、弟はいつもシエルが欲していた言葉をくれる。態度で示して満たしてくれる。

 シエルですら制御出来ないこの怪物の本質を、弟だけが抑制してくれる。


「……お前だけだよ」

 ——僕を飼い慣らせるのはこの子だけだ。
 僕が怪物未満の醜い存在だとするのなら、この子はきっとどこまで純真を保つ天使だ。
 この子が傍で僕を飼い慣らしてくれている間は、僕はきっと怪物にならないで済む。この子が望む兄の姿でこの子の隣に立つことができるのだ。


 架空の人物でありながら、弟の心を決まって奪うサンタクロースの存在が許せなかった。
 クリスマスなんて無くなってしまえと本気で思ってしまうくらいこの時期が大嫌いだった。

 ……でも、今年からはそう悪くもないものになる。


 “大好きなシエルと一緒にいっぱい遊べるから”



 弟はおもちゃを配るサンタクロースが好き。
 弟はおもちゃが好き。
 弟はシエルと遊べるおもちゃが好き。

 弟は、シエルが大好き。

 全てちゃんと繋がった。弟にとっても自分が中心にいた大切で重要な事実。

 その事実に擽られるような喜びを感じたシエルはにやけた笑みを浮かべたまま、衝動的に無防備に眠りについたままの弟の唇に触れるだけのキスを落とす。
 シエルからのキスで幸せそうに緩む弟の口元が可愛くてもう一度、今度は少し長くキスを贈ると、弟は寝言でシエルの名前を呼んでくれた。
 それがとても嬉しくて愛おしくて、歯止めが効かなくなりそうになるのをシエルは堪えた。
 衝動に身を任せることなく、出来るだけ優しく抱きしめた弟の首元へ鼻を寄せるまま……大好きな弟の匂いに包まれていくうちに、ようやくシエルにも眠りの世界へと誘われていった。


 明日は、新しいおもちゃを手に入れてはしゃぎ気味の弟と、部屋の中で時間を忘れるくらい遊ぶことが出来るはず。
 クリスマスに浮かれる年相応の子供に厳しくあたる大人なんてそうそう居ないだろうから、邪魔されることだってない。


 大好きな弟と、一日中、閉じた世界で二人きり。

 ……ああ、楽しみだなぁ。


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