オーバーライド【未完】




 嫌な夢から目が覚めたとき、僕の視界に広がったのは暗闇で、灯りは一つもなかった。
 本当に何も見えない。何も見えない黒く塗り潰された世界で、得体の知れない大人達に囲まれて、何度か声をかけられていることに気がつくと、恐怖で身体がガタガタと震えはじめる。

 ちょうどそのとき、誰かが、シエルの名前を呼んだ。
 シエルもこの暗闇のどこかにいるのだろうか。探したいけれどやっぱり目に映る世界は暗くて何も見えない。その恐怖に押しつぶされそうで、シエルが本当にここにいるのなら声だけでも聞きたい。手を握って欲しかった。
 
 助けてと願ってもそれを叶えてくれる存在はいなくて、代わりに自分の方に伸ばされたのは大嫌いな大人の手。体温を感じない冷たくて、怖くて仕方ないそれを恐怖から拒絶すると、大人達の動揺する声が聞こえた。
 この部屋には一体何人の大人がいるんだろうか、僕は何をされるのだろうかと考える度に身体震えた。またあの頃のように“痛いこと”をされるのだろうか。あんな、苦しいことを、また繰り返されるなんて……

「シエル……、シエル、いたいの、もうやだぁ」

 自分の口から勝手に震えた声が出た。何も見えない瞳にはいつのまにか涙が滲んでいて、ポロポロとこぼれ落ちていく。何度も君の名前を呼びたかった。でも近くにシエルの姿はない。大人ばっかりで、大人しかいなくて。大人達の言っていることはよくわからなくて、何をされるのかわからなくて、ずっと、ずっと怖かった。

 だけど、部屋の中に一人だけ子供がいるのがわかった。僕達と同じで、大人達に好き勝手に利用されて痛いことをたくさんされただろう、そんな子供がひとり、僕のそばにいるようだ。彼は大人に囲まれても堂々としてた。だから助けを求めて身を寄せた。彼は驚いていたけど守ってくれた。そして、彼に抱きついているうちに、大人達は静かになっていつの間にか部屋から一人一人と姿を消していった。

 しばらくして子供の彼は、これから僕の面倒を見てくれるといった。彼のことはよく知ってると思う。名前だって本当はちゃんと呼べるはずなのに、記憶が混濁して今はよくわからない。そばにいると約束してくれようとする彼の言葉も信じたいのに、信じることができない。信じるのは怖い。
 
 ……それよりも、シエルはどこにいるんだろう。


“お前は僕が守ってあげる”

 頭をよぎるのはいつもその言葉だ。その言葉以外いらないと僕は本気で思っていた。その優しさを信じていた。強いシエルに弱い自分を守ってもらえるあの安心感を信じていた。
 でも全部僕が壊した。シエルは僕のせいで、僕なんかの為に、僕が生きて残ってしまったから…………シエルの命を引き換えに僕が、あんな選択をしたから。僕が“僕”であることをやめて“君の人生”を選んだんだ。
 ああ、そうか、そうだ。だから、僕はもういないし、君がここにいるわけがいない。僕のことをもう助けてはくれない。例え君がここにいたとしても、僕のことなんて、もう……。

 頭の中であの時の記憶が再生される。思い出したくもないあの瞬間の絶望が押し寄せる。忘れてしまいたい。忘れるなんて許されない。苦しい。苦しくて逃げ出したい。逃げたくない。戦わないと、でももう戦いたくない。痛いのも苦しいの嫌だ、こわい。何も考えたくない。思い出したくない。誰か助けて。助けて、助けて、助けて……

「……シエル………」






 ……混乱する意識の中、いつの間にか時間だけが過ぎた。
 ずっと身体が恐怖に怯えているのは体力を使うもので、気がついたときには僕は眠りについていた。
 再び意識が元に戻っても、やっぱり目を開いた先の世界は真っ暗で、ここが夢なのか現実なのかもわからない。

 さきほどの子供の彼の気配もしない。いまは部屋にはいないようだ。
 何もわからなくて、何もかもが怖くて、僕はベッドの上で身体を丸める。起き上がることも、ベッドの上から降りることもできない。
 ずっとこのまま時間だけ過ぎて仕舞えばいいと思った。もう何もしたくなかったんだ。

 ……それなのに、誰かが被っていた布団をそっと撫でてきた。

「起きて、もう朝だよ」

 そして僕がそれを拒むように寝返りをうつと、くすくすと笑い声まで聞こえてくる。思わず目を開いても、やっぱり見える景色は真っ暗で何もわからない。声の主は朝だと言っていたのに嘘をついたのだろうか。
 その瞬間だけ、恐怖よりも好奇心が優って、僕は身体を起こして声をかけた。

「朝……? こんなに真っ暗なのに」

 はっと息を呑むような声が聞こえたあとで、たった一言に部屋はしんと静まり返る。その沈黙に薄れていた恐怖がじわじわと溢れて、また僕は怖くなってきて、ベッド上で身を縮こまらせるしかなくなる。

「ねえ、ずっと何も見えないんだ、暗くて怖い……そこに誰かいるのなら教えて……お願い、灯りをつけて……」

 その呼びかけに、すぐに誰かは返事をしてくれた。

「僕はここにいるよ。でもごめんね、あいにく今は灯りを持っていないんだ」

 その声はとても穏やかで優しかった。優しいけれど凛とした響きで、視界が暗闇で覆われる底知れない恐怖を癒してくれるようで、思わず涙が溢れた。ようやく誰かと会話が成立したような気がしたからだろうか。

「ずっと暗闇の中に一人で、怖かったね」

 そっと指先に誰かの手が触れる。僕が手探りで手を伸ばすと、誰かは体温を映すように手を絡ませてくれた。その動きに安心して、確かめるように少し強く手を握ると、それに反応した彼は僕のもう一方の手も同じように握ってくれた。

「ほら、僕はここにいる、ゆっくり目を閉じてみて……この手は絶対に離さない。ちゃんとそばにいるから」

 言われた通りに目を閉じても、約束通り握られた手はそのままだった。
 そこにいる誰かの手は、体温こそあまり感じないはずなのに、繋いでいる間にぬくもりが宿っていくようで自然と僕は強張っていた表情を緩めた。そうすると、涙も自然に止まってくれた。

「もう少しお前のそばにいってもいい?」

 その呼びかけに目を閉じたまま小さく頷くと、すぐ後にベッドが少し揺れてシーツの擦れる音が聞こえる、手を繋いだままの誰かが身体を乗り上げて、本当に近くまで来ているのがわかった。

「ありがとう。これでもっと僕の声がよく聞こえるかな」
「……うん。でも少しくすぐったい」
「ふふ、こうした方がちゃんと僕がそばにいるってわかってくれると思ったんだ。嫌だった?」

 こしょこしょと内緒の話をするように囁かれる誰かの声はくすぐったいのに、それよりも耳に響く音が心地よかった。誰かの言う通り、そこにいてくれる存在をより感じ取りやすい。嫌なわけがないと首を横に振ると誰かはまたくすくすと笑う。どこか甘さを含むその笑い声はくすぐったくて、僕もつられて笑ってしまう。
 誰かのおかげで、暗闇の中にいる恐怖なんてすっかり忘れていた。緊張も解けたからか自然とそばにいる誰かに身を委ねることにだけ集中できた。
 
 ……小さく咳払いをした誰か話をしようとしているのがわかって、僕はその声に耳を傾ける。

「まずは自己紹介から、といきたいところなんだけど、時間があまり無くて……ゆっくり話してはいられないんだ」
「……どこかに、いってしまうのか」

「ごめんね。どこにもいかないよって言いたいけど、ここにはずっと居られないんだ。怖い人達がいっぱいいるからね。ここに僕がいることがバレたらすぐに追い出される」

 その言葉に僕は誰かと握っているその手に無意識に力を入れてしまう。行かないで欲しいと口ではそう言いたいのに、うまく言葉が出てこない。
 ようやくなりを潜めていた恐怖にまた支配されそうになると、突然、耳元に柔らかい何かが触れた。
 ゆっくりと何度触れてくるそれが唇だと気付いたのは、耳の輪郭をそっと唇だけで喰まれたから。それは狼狽える僕から手を離さずに、宥めようとしてくれた行動だということがよくわかった。でも、そうわかっていも、突然のことで自分の耳に熱が集まっていく。すると、その光景が見えたのか、誰かはくすりと笑って、最後に少しの間だけ耳元に唇を押し当ててから「落ち着いて、僕だけの声に集中してね」と囁かれる。

「僕はいまからお前をこの暗闇から攫いたいって思ってるの。でも、無理強いはしたくない。お前がここにいるのにはきっと意味があって、お前がそれを選んだ結果だと思うから。そして、僕はその気持ちを尊重したいから」
 
 ここに何をしに来た。その目的は。僕は何のために今まで選択してきたのか……考えようとすると頭が痛くなってくる。恐怖に支配されていて長いこと頭が回っていなかったからだろうか。はっきりとしてきた思考に、僕は少しだけ目をあける。

 その瞬間、部屋の扉がノックされた。

 思わず反射的に開いた瞳で扉の方向を見ると、ぼやけた景色が少しずつ見えてくるような気がした。

「……僕は、……ぼく、は……っ……」

 けれど、そこにいる誰かは、それ以上考える時間を与えてはくれなかった。

「もっとちゃんと考えさせて、悩ませてあげたいけど、本当に時間がないんだ。ごめんね。だから最後にこれだけ、聞いて。

 お前がもし僕に攫われることを……僕のことを選んでくれるなら、

 “お前は僕が守ってあげる”」



 その言葉に僕は目を見開く。暗闇だったはずの世界はすっかり元に戻っていて、部屋には朝の柔らかい日差しがよく差し込んでいて、程よい明るさを保っていた。
 僕の両手は目を開いた後も握られていて、繋がれたその両手の主は僕のすぐ隣にいる。
 そこに誰がいるのか、僕にはもうわかっていた。
 わかっているからこそ、その顔が見れなくて、せっかくクリアになっていた視界がすぐに涙でぼやける。妙な緊張感さえあった。

 それなのに、本当に、時間というのは残酷で、僕のそばにいた誰かは、僕から手を離してベッドから立ち上がってしまう。時間が来てしまった。誰かは、もうこの場所を去らなくてはいけないのだ。

 わかっているのに、咄嗟に僕はその手を掴む。その存在がここにいる理由を深く考えることもできず、ただよく知っているその背中にぼくは無意識に声をかけていた。

「お願い、待って……もう、置いていかないで、ひとりにしないで」

 ようやく回し出した頭でも、まだ理解できない部分が多い。それでも今が夢か現実か、もう答えなんて出ていた。
 僕がいま口走ったその選択は、あまりにも衝動に身を任せた危険なものだ。それでも、あれだけ徹底していた嘘をつくことが出来なくなっていた。
 僕を恐怖から掬い上げまでくれた存在。何度も僕を守ってくれた存在。その存在にずっと会いたかったことも、全部、全部、事実だ。



「……僕を攫って、シエル」

 そう言葉にしてしまった僕に振り返った大好きな存在は僕を力強く抱きしめる。

「よかった、選んでくれてありがとう、ーーーー」

 最愛の兄の腕の中で、久しぶりに呼ばれた自分の本当の名前を最後に……



 僕は意識を奪われた。
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