シエシエ ワンライ詰め
「はいこれ、お前にも見せてあげる」
部屋に戻るなり、シエルから突然差し出されたそれを、弟の彼は素直に受け取ろうとする。
しかし、自分の手のひらに乗せられたものに弟は驚いて、渡されたばかりのそれを思わず落としそうになった。落としそうになった……とはいっても、落とすことなど絶対に許されるわけがないからと何とか落とさずには済んだのだが。それでも心臓がたてる音があまりにもうるさくて、弟はほっとする気分にはなれない。
何故なら……それは本来、自分の手には絶対に回ってはこない代物だったからだ。
「びっくりさせちゃってごめんね。お前の言いたいことは何となくわかるよ」
——お父様からの借り物なんだ、それ。今日一日僕に貸してくれるって言うから、お前にも見せてあげたくなったの。
そう言って微笑むシエルはそこまで悪いことをしていないようにも聞こえるが、それでもすぐに弟は渡されたものをシエルへ突き返した。
シエルから弟へ渡されたものは、指にはめる用のアクセサリーがたったひとつ。ただし、それは十歳にも満たない子供が持つには無相応。いや、例え弟が大きくなったとしても、次男である彼が決してはめることが許されない代物だった。
星空のように青く煌めく宝石がついたあの指輪は、ファントムハイヴ伯爵だけが身につけることを許されたもの。
そして、それをいま手にする権利があるのは、現当主のヴィンセント・ファントムハイヴと、その後を注ぐ目の前のシエル・ファントムハイヴだけなのだから。
こんな簡単に見せびらかしていいものじゃないと、弟はシエルを注意しようとも思ったが……それよりも、シエルの目元が淡い赤で腫れていることの方が気になってしまい、言葉を飲み込む。
……今朝のシエルは、勉強なんてもうしたくないと弟や使用人の声にも応じようとせず、ベットに立てこもっていた。
目が覚めて弟と顔を合わせた時には既に機嫌が良くなかったシエル。そんなシエルを朝から両親が付きっきりで説得をする中、弟だけが午前の授業を終えてきたわけなのだが、戻ってきた弟を出迎えたシエルの突然の行動ときたら……これだ。
それはそれは訳のわからないものなわけだったけれど、その不可思議な行動よりも赤くなったその目元の方が弟には重要だった。
目の前にいるシエルの笑顔は確かにいつも通りといえばいつも通りのもので、すっかり元気になったようにも見えなくはない。でも、弟にはその笑顔の裏に何かを隠しているように見えて、心を掻き立てる。
その違和感は、ずっと隣で過ごしてきた弟以外の人間は気づかないだろう。シエルはやり過ごすことや隠すことがとても上手だから。
踏み込むべきか、踏み込まないでおくべきか。
そうやって弟が悩んでいるのを、シエルは待ってくれない。
「シエル……朝は、」
「今朝はお前にも心配かけちゃってごめんね。午後からはちゃんといつも通りやれるよ、これはその為のお守りにしなさいって。お守りにしては何だか重すぎるような気もするんだけどね」
「それは、そうかもしれないけど……あの、もしかして昨日のこと」
「お前は何も気にしなくていいよ、全部僕のわがままだから」
気にしなくていいと、そう言い放ったシエルの声はどこまでも冷たく感じるものだった。
子供には似合わない威圧感を放つシエルの姿に、流石の弟も口を閉ざさるを得ない。
シエルが今朝のように駄々をこねること自体、滅多にないことだったし、その前日の出来事だって今を思えば不可解なことが多かった。
あの日シエルは、どうして自分を一人にするのと弟に言った。けれど、その意味が弟にはどうしても理解ができなかった。
シエルはいつだってたくさんの人に愛されて、未来の伯爵だと期待もされて、綺麗な婚約者だって決まっている、何不自由のない幸せな人生を歩いているのに……一体誰がシエルを孤独にさせるというのだろうかと。
病を拗らせていつも部屋に篭りがちな自分でもあるまいしと、そこまでは口にはできなかったものの、シエルはやはり昨日から様子がおかしいことに変わりはなく、その理由を弟にも話そうとはしてくれないのだ。
喧嘩、と呼ぶほどのことはしていない。けれどいつも通りというにも程遠いこのままの状況は弟にとって歯痒かった。
——そう、できるなら仲直りがしたい。
弟はそう思い立ったものの、シエルのガードはどこまでも硬い。家庭教師の授業やら、剣術の稽古の合間に弟は何とか話をしようとしたものの、ことごとく綺麗に交わされてしまった。
しかもシエルは交わし方が絶妙だ。弟に対しての当たりが特別キツいわけでもなく、むしろ振る舞いはいつも通りのまま。ただただ例の話題から避ける。
躍起になりそうな弟も、夜になる頃には万策尽きて、心が折れる前にこれ以上のことをしたら逆にシエルから嫌われてしまうのではと、ほとんど諦める形となった。
こういったことはもう触れないものとして、時間に解決してもらうほかないのかもしれない。そんなことを考えると少し寂しくもなったけれど、シエルとの関係が悪くなるよりかはマシだと弟は思った。
でも、でも、それでも……と居ても立っても居られずに、最後の最後。
寝支度を済ませて部屋に戻ってきたばかりのシエルに弟は思い切って、勝負を持ちかけることにした。
——勝負の内容はカードを使った一本勝負。僕が勝ったら話をしてほしい。
けれど、持ちかけた勝負にシエルは首を横に振る。それは弟にとって予想通りの行動だった。
いくら必死に頼み込んだとしても、シエルは乗ってこないと弟には既にわかっていた。……だからあえて弟は不敵に笑って挑発してみることにした。
「シエルは僕に負けたら困るから、勝負から逃げるんだ」
普段こんな挑発なんてしたこともなく、声が僅かに上擦った気もするが、弟の安くて拙い挑発にシエルは乗ってきてくれた。
何を隠そう、この兄は実は存外負けず嫌いだ。そして弟はちゃんと知っている兄の特性を活かして、この勝負を持ちかけただけ。何も悪いことなどしていない。
だけど、笑顔のままどこか弟の往生際の悪さに苛立っている様子のシエルは、少しだけ怖かったと後に弟は語った。
そして、その勝負に弟は惜しくも敗北をしてしまったのだから、場の空気はいよいよ酷いものになっていく。
せっかく作ることのできた仲直りのチャンスは泡となり消えてしまい、微妙な空気が流れる中、弟はただ静かにカードを片付けることしかできない。
仲直りがこんなに難しいものだったなんて、弟は知らなかった。
涙をこぼすまでとはいかずとも、わかりやすくしょぼくれている弟に流石のシエルも居た堪れなくなったのか、少しだけならと話をしてくれることになった。
「放っておいて欲しかったのに、お前は何をそんな必死になっているの」
呆れたようなシエルの一言に、弟は返す言葉もなかったけれど押し黙ることしなかった。
「僕はただ…………シエルと仲直りがしたかっただけなんだ」
「仲直り……?」
「シエルが隠したいなら、別に全部話してくれなくてもいい。だけど、このままは嫌だって思ったから」
話せることだけでいいから、僕にもシエルの悩みを教えて欲しかった。僕が原因で悩ませているのなら、何がいけなかったのか知りたかっただけなんだ。
確かに僕はまだまだ頼りない弟だし、お父様達みたいに助言はできないかもしれない。それでも、僕だってお父様達に負けないくらいシエルのことが大切だから。僕のたった一人の兄弟の……大好きなシエルに嫌われたくないから。
……と、そこまで言い切っておきながら弟は自分の口元を抑える。いう必要のない恥ずかしい一言まで付け加えてしまったような気がしたから。
気恥ずかしさから、頬に熱が集まるような気分の弟だったけれど、目の前のシエルはといえば、弟よりも更に頬を染めて視線を僅かに逸らしていた。
予想外の反応に弟は思わずシエルの名前を口にすると、シエルは小さな声で何か言う。
しかしあまりにも小さなその声は、弟には届かず……催促するようにもう一度シエルに呼びかけるとシエルは突然大きな声を出した。
「あぁもう! だから、……ごめんねって、そういったんだよ。仲直りがしたいって言ったのはお前でしょ」
「え、あ、……僕の方こそごめん、シエル……」
「………うん」
せっかくの仲直りの言葉にが交わされたというのに、場は妙な沈黙包まれる。
ここから何をいえばいいのかとお互いに探りを入れていれつつも、結局シエルから「今日はもう寝よう」と言われてそのままベットに入ることになった。
弟にとって予想外だったのは、シエルが自分に背を向けながらも弟のベットに潜り込んできたことだ。
それをシエルなりの歩み寄りなのだろうと、解釈した弟は、突き放されてばかりの昼間の様子を考えるとようやく安心するような気分だった。
一度安心感を覚えると、眠気というのは勝手に誘ってくるものだ。それでも夢の世界に旅立つ前にもう一度だけ兄の声が聞きたくて、弟は小さな声でシエルに話しかける。
「ねぇ、シエル。起きてる?」
「もう寝た」
「……シエルは、結局何に悩んでたのか最後に聞いてもいい?」
「だからもう寝てるってば」
「……そっか…………なら仕方ないね。おやすみ、シエル」
「おやすみ」
「……………」
「…………………………」
「……………………………………」
「……………全く……お前のせいで、うれしい悩み事が増えたよ」
