シエシエ ワンライ詰め
完全に未練を切り離せた、なんて、それはきっと僕にとって一番つまらない嘘になるだろう。
目が覚めた時、何もかも無かったことになればいいと何度思ったかわからない。自分の身に起きたことは全部悪い夢で、目が覚めたら全部元通りで、あの幸せだった日々がまた送れたらと。だけど、そんな都合のいい絵空事を思い描いた分だけ、押し寄せる現実にそんなものはもうどこにもないのだと解らされて、その度に僕は絶望を感じなくてはいけなくなる。
だから最近はそういったことを、考えるのをやめていた。やめていたというよりも、身体が拒絶していたという方が正しいけど。
「…………。朝?……いや、まだ夜か」
また目が覚めた。けれど、目を閉じてからそう時間は経っていなかったらしい。
日が差し込むはずのカーテンは閉ざされたまま、目が覚める頃に紅茶の準備を済ませている従者も今はいない。随分と中途半端な時間に目を覚ましてしまったものだから、再び眠りにつこうと僕は何事もなかったかのように寝返りを打った。
けれど、どうしてか寝付くことができず……頭の中では、普段は蓋をして鍵をかけている古い記憶ばかりが呼び覚まされていく。
幸せな思い出から言葉にするのも躊躇う嫌な思い出……どれも忘れるつもりはないけれど、普段であれば思い出す必要のないものばかりだ。
特に、“君”との記憶はどれも今の僕にとっては穏やかで眩しすぎて……それに縋りたくなる度に、僕は“僕”が“僕”であることを見失いそうになる。それがとても怖い。
本当に今は現実なのだろうか、それとも僕はあの頃から何も変わらないまま、檻の中で夢でも見ているのだろうか。優しい君に守られて、手を握られて、頭を撫でられて。目を覚ませば、おはようと君が僕の隣で微笑んでくれる。……そんな幸せな朝は、もう二度と来るわけがないのに。
——ああ、だめだ、やはり今日は寝付けそうにない。
僕は無理に眠るのをやめて、ゆっくりと身を起こしてベッドから抜け出した。そして裸足のまま部屋を歩いて、窓際にある鏡の前に立つ。
カーテンを少しだけ開ければ、月明かりがさして、鏡には僕の姿が映し出された。
何を考えているのかもわからない自分の顔は、相変わらず。我ながら気に食わない。だけど、自分の顔はやはり変わらず、君と瓜二つなものだから。鏡の中の僕は、右側の瞳を隠してゆっくりと目を閉じる。
そして再び目を開ける時に、鏡の外の僕に笑いかけた。
「どうしたの?……また、眠れないの?」
鏡の中にいる誰か僕に笑顔を向ける。今は記憶の中に眠る懐かしいあの笑顔だ。
「悪い夢を見たんだ、君が僕の前からいなくなってしまう夢を」
ぽつりと漏れ出した自分の声を、鏡の中の誰かは笑顔のまま聞いていた。その顔がなんだか恐ろしくて僕は目を逸らすことができない。
「……わかってる。本当は、夢なんかじゃないって。でもいいんだ、僕にとって夢であっても現実であっても同じことだから」
僕は鏡の君に手を伸ばす。決して交わることのない手だけれど、重ねることはできる。冷たい温度が手のひらに伝わるはずなのに、わずかに温もりを感じたような気がするのは気のせいだろう。もしかすると、本当に今だけは夢を見ているのかもしれない。
「大丈夫だよ。僕はずっとお前のそばにいるから……僕がお前を守ってあげるから」
鏡の中の、君が言う。今の僕には不必要な言葉を。まるで呪いのように僕に囁く。でもそれは、僕が今一番聞きたかった言葉だった。
優しい言葉。甘い言葉。かつての僕が信じたかった言葉。何度も頭の中で反復させた言葉。その言葉以外いらないと、本気で思っていた。
——でもそれは、僕が一番大嫌いな嘘となった言葉だ。
「うそつき」
そう罵った自分の唇をなぞると、鏡の中の君も同じ動作をする。当たり前のことなのに、目の前に映し描いた幻をこれ以上は見ていられなくなって僕は窓のカーテンを閉じた。
