Believe



 

 午後2時の陽気な日差しと心地よい風。暖かく、けれど暑すぎない気温がまた過ごしやすい。構成するすべてが今日は出かけるのに最適ないい天気であることを示している。まさにおでかけ日和と呼べるだろう本日だ。

 そんな日に、シエルと弟は郊外を二人と馬一頭で散歩していた。いわゆるホーストレッキングというもので、誘いの声をかけたのは珍しくも弟の方だった。
 もちろんシエルは誘いに笑顔で答えた。弟と過ごす時間が好きなシエルにとってその誘いを断る理由がないからだ。
 出発前の身支度や遠出する準備を整えて、弟が選んだコースを確認したのち、休憩を挟みながらゆっくりと進んでいくことになった。

 いつもと違うことといえば、やはり二人で一頭の馬に跨っていたことだろう。
 一人一頭でのホーストレッキングは、いままでにも何度か経験していた。けれど今回はあまり広くはない細い道も通るからと、弟に提案されるまま、シエルは弟の前に座らされることになったのだ。

 弟は幼少の時から、馬という生き物を好ましく思っており、乗馬の上達はシエルよりも早く弟の得意なこと一つでもある。
 そんな弟が馬を走らせ、扶助する役割も担うとなると……弟の中にある最後まで兄をエスコートしたいという思惑が十分に読み取れた。

 最近のシエルは考え事が多く、少し疲れている。それに気づいていた弟は、その疲れを綺麗な景色を見せることで晴らそうとしてくれていたのだ。
 だから、シエルはその思惑に甘えて、弟にすべてを預けることにした。






「……この辺で一度休憩にしよう」

 馬を走らせてしばらく。屋敷からは少し離れた小さな湖までやってくると一度馬を休憩させることになり、二人もまた持ってきた敷物を引きその場に腰を下ろす。
 そして馬が湖まで水を飲みに行く姿を二人でぼんやりと見つめていた。弟はあえて馬の手綱をどこかに縛ることはしなかったようだが、逃げ出す様子もない。その姿に、シエルは何気なく「……お互いに信頼しているんだね」と、呟くような小さな声でそう口にした。

「子供の時からの付き合いだしな。こういうときくらい自由にさせてやりたいんだ」

 弟はそう言って笑っていた。
 まるで家族の誰かを語るような弟の優しい声音に、シエルもそっと微笑む。

「昔からお前は馬が好きだったもんね」
「まぁ、意外と自分の性にあっていたのかもな」
「……言われてみれば確かに、ちょっとお前と似ているのかも」

 弟があまりに柔らかい眼差しで馬の方を見つめてばかりなので、ついシエルがそんなことを口走ると、弟は少し驚いた顔でシエルの方を振り返る。

「シエルからそう言われるとは思わなかった」

 その顔は、意外なことを聞いたと言わんばかりだ。その返しにシエルがニコニコと微笑んでいると弟は質問を投げかけた。

「ちなみに、どこが似てると思ったんだ?」

 何気なく口にしたシエルの言葉の意味を知ろうとする弟に、シエルは少し返答に悩んだ顔をする。けれど、悩んでおきながらも案外早く答えを出した。

「すごく臆病なところ、かな」

 その答えに弟は微妙な顔をした。

「…………。否定は、しない」
「ああ、別に欠点をあげたわけじゃないよ……臆病で、繊細で、だからこそ目の前にいる人間をちゃんとよく見てるってこと」

 ——よく見て、見極めて、信じてくれる。心根が綺麗で優しいからこそだ。馬もお前も。

 そういい終えると、シエルは弟の肩にもたれかかって目を閉じる。

「だから、いつか悪い誰かに騙されてしまわないか心配になるんだよね」
「悪い誰かって、なんだよ」
「…………たとえば、そう、シエル・ファントムハイヴとか」

 弟が何か言いたげな少しむず痒そうな顔でシエルを見ていると、シエルは目を閉じてしまう。その勝手な姿に弟は呆れたようなため息をついた。
 少し不満そうにこちらを見てくる弟のことを、シエルには目を瞑ってても容易く想像できていた。


「別にいい、シエルになら騙されても」

 その一言にシエルはハッとした顔で目を見開いて、弟の瞳をじっと見つめる。
 弟は決して目を逸らすこともなく、ただシエルの驚いた顔を見たまま、不敵な笑顔を向けた。

 シエルはその笑顔に、僅かに顔を歪めて「ああもう、そういうところだよ」と弟の胸元に顔を埋める。
 震えたその声を聞いた弟はシエルをただ何も言わずに強めに抱きしめた。

「だめ、僕に気を許さないで、僕を信じちゃだめ」
「無茶ばっかり言う」
「僕のことなんか信じたら、お前一生幸せになれないよ」

 少しだけ顔を上げたシエルが弟にそう言えば、弟は優しい声音で笑う。

「別にいいって」

 弟からなんでもないかのように発せられたその一言に、シエルはいよいよ顔を歪ませて、引き結ばれた唇は震えはじめていた。怒っているのか、悲しんでいるのか。弟にはよくわからない表情だった。
 ただ、その口元を緩めて笑って欲しいとだけ思った。

「騙されても、幸せになれなくてもいい。そんなこと僕は気にしない。僕はシエルを信じたいから信じるし、例えその結果が幸せとは呼べないものだったとしても構わない」

 ——シエルを信じたくて信じた僕が幸せになれないなら、そもそも僕自身が“幸せ”とは無縁な運命だっただけだろう。

 そこまで言い終えても、シエルはまだ顔を歪めたままだった。何か言いたそうなのに上手く声にならないようで、苦しそうだ。
 だからつい、ちょっとでも気が逸れればと弟はシエルに前触れもなくキスをした。

 その行動を最後にシエルはいよいよ泣き出してしまう。

 その上、水を飲んでいた愛馬はいつの間にこちらに戻ってきて、やや離れた位置……ちょうどシエルの後ろほうから弟を睨むように見てくるのだ。その眼差しが弟には深く刺さった。

「っ、シエル……ごめん、泣かせるつもりじゃ、っ!?」

 シエルを泣かせてしまった罪悪感と愛馬からの圧に耐えかねて、慌てて並べた弟の謝罪は、あっさりとシエルに唇を奪われたことでキャンセルされてしまう。
 そのまま確かめるように何度も重ねられるシエルの唇はやはり震えたままだった。
 そのシエルからの縋るようなキスを、弟はただ受け入れ続ける。拒んだら最後、シエルはこのまま消えてしまうのではないかと思うくらい、弱々しくて、必死さがわかるものだった。
 それでも可哀想なそのキスを受け入れるばかりでらいられなかった弟が、隙を見てシエルの唇を食んでみる。それは二人がどちらともなく行う、深く口づけを交わすときのお互いの合図だった。その仕草に気づいたシエルが唇を緩めて、弟はその場所を舌で慰めるように辿る。
 
 そのまま、ゆっくりとお互いの舌を絡めて、シエルの震えが落ち着くまでキスを続けた。

 ひと段落ついてようやく涙も止まったシエルは泣き止んだばかり濡れた瞳で弟を見つめて、最後に触れるだけのキスを送る。それから、何も言わないまま、シエルは弟にぴたりとくっついて離れない。
 しばらく一言も話すつもりはないらしいシエルにどうしたらいいかわからなくなる弟だったが、シエルの好きにさせてようとあえて何も言及はしないことにした。
 なんとも言い難い沈黙の時間はさほど長くなく、しばらくしてシエルから弟の名前を呼んだ。普段のシエルからは想像できない、弱々しくて、小さな声だった。しかし、もう震えてはいなかった。

「昔のことを思い出したんだ。……お前がちょうど乗馬になれてきたときのこと」
「……」

 はじめたシエルの話は前触れもないものだったが、弟はただ耳を傾ける。

「乗馬中、裏社会の人間に巻き込まれかけたことがあっただろう」
「……ああ、覚えてる」

 もう5年以上も前の話だ。弟の記憶としてはあまりいい思い出とは呼べないが、ちゃんと覚えている。今日と同じようにホーストレッキングを楽しんでいるとき、刺客に狙われたのだ。

 ——幸いお前は無傷だったけど、馬の方が酷い怪我を負って、しばらく歩けそうもなくて。獣医から下手したら殺処分しなくてはならないって言われて。だけど、そう聞かされてもお前は絶対に泣かなかったよね。もうみんなあの馬は助からないって思ってたのに……僕だって奇跡でも起こらない限り無理だって思ってた。

 それでもお前は信じて、信じ続けてずっと看病して……だからあの馬は今もお前のそばにいるんだ。


 力のないシエルの声は、話せば話すほど音が小さくなっていく。

「それなのに、僕はあの時お前に余計なことをいったんだ」
「余計なこと……?」

「……怪我をするくらいなら、傷つけられるくらいなら、ずっと屋敷から出さなければいいって。そうすればこの子は、きっと、お前のそばで最後まで幸せなままだよって。僕ならそうするって思ったから」

 シエルの言葉は弟にとって確かに聞き覚えのある言葉だった。シエルのいう通り、弟は泣きはしなかったものの、内心不安でいっぱいで、毎日馬のことばかりに気にかけていて、色々なことが疎かになってしまっていた。そんな自分を心配したシエルが、そんな提案してくれたのだ。

「でもお前は、“確かにそうすれば、僕は幸せなのかもしれない。だけどあの子の幸せは僕が決めるものじゃない”って」
「…………シエル」
「その答えを聞いて僕は自分のエゴに気づかされたんだよ」

 シエルは弟の手を弱く握る。その弱さに弟はどう答えるか躊躇って、だけど手放したくないとできるだけ強すぎない力でその手を握り返した。

「……なんで、握り返しちゃうかな、お前は」

 シエルは弟の瞳を、苦しそうな笑顔で見つめた。

「ねぇ、わかるでしょ。わかっているんでしょう、僕がどういう人間か。
 見て。ちゃんと見て、ちゃんと見極めてよ。
 僕は、お前の幸せを願っていながら平気でお前の幸せを決めようとする、悪い人間なんだよ。こんな僕を信じるお前が可哀想だとすら思ってしまうくらいに」

 シエルの声は淡々としていて、それでいて強い叫びにも聞こえた。聞いている弟にそれは十分過ぎるほど伝わっているのに、すべては受け止めきれてはいないような気がした。
 それでも、一滴でもとりこぼして仕舞えば、シエルはこのまま消えてしまうのではないかという、そんな危機感を覚えるほどの何かに掻き立てられる。

 掻き立てられるまま、手放したくない手を今度こそ強く握って、弟はただシエルに向き合う。

「シエルがどんな人間かなんて……わかってるよ。ちゃんとシエルのこと見てるから、見てきたから」
「…………じゃあ、なんで。なんで僕なの」

 光が消えてしまいそうなほど影のさす瞳で、弟にそう尋ねるシエルに、弟はひたむきに真剣な眼差しを向け続けた。

「さっきも言ったけど、僕はただシエルを信じていたいだけだよ…………そう思わせてくれるくらい、シエルは僕を一番に想い続けてくれている。だから僕は、シエルを信じていられることを“幸せ”だって思えるんだ」

 その言葉に、シエルは目を閉じる。
 弟はそんなシエルに言葉をさらに上乗せした。



「……それに、シエルが本当に悪い人間だとして、それでも僕はそんなシエルを信じたいっていうんだから。それなら僕だって悪い人間って言えるだろ?」



 目を伏せていたシエルも流石にそんな言葉を投げかけられるだなんて思っていなかったらしい。
 顔を上げてしばらくは真顔だったけれど、真剣に不敵な顔をくる弟を見て堪えきれなかったのか、ついに笑ってくれた。

「お前って、ふふ、お前ってさぁ、本当に。ふふ、あははは」

 シエルがそうやってたくさん声をあげて笑う姿を見た弟はつられるように笑った。
 重なる笑い声はさきほどの張り詰めた空気を吹き飛ばすほどもので、自然と二人の間には穏やかであたたかな空気が舞い込んでくる。

 その空気に浸るように弟はその場に仰向けになって寝転ぶと、シエルはそれにつられるように寝転んだ。

「うん、お前って本当に悪い子だよね、本当に良くない、いけない子だよ」
「シエルにうつされたんだ」
「ふぅん、でも実際どうなんだろう。案外、うつされたのは僕の方かもよ?」
「……その説も、否定はしない」


 ——なんにせよ、お互い様だな。

 弟が空を見上げてから、シエルを見て優しく笑えば、シエルもまたお揃いの笑顔を返す。
 その笑顔を見た弟は「もう少し休んだら、また出発しよう」と目を閉じた。

 シエルは目を閉じないまま、再び空を見上げる。




「……うん、最後まで、一緒につれていってね」
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