奪い奪われ

 窓の外からそっと日が差し込む。
 寒さの中に混じる柔らかな日の温かさは、冬ならではのもので……その温かさを一番に感じることが出来るソファでは、弟が読書に勤しんでいた。

 よく晴れたせっかくの休日だというのに、この弟は朝からずっと外の世界よりも本の世界に夢中になっている。
 弟の手の中にある昨日発売されたばかりの推理小説は、相当読み応えがあるらしい。
 作者となるその人物は、弟が新聞で連載を持っていた頃から面白いと目をつけていたこともあり、新刊が出るのを楽しみにしていたのだとか。

 ——名前は……アーサー先生、だったかな? うん、たしか、そうだったはず。

 はしゃぎ気味に熱弁する弟の顔と声ばかりが脳裏に浮かんだシエルには、弟以外の人間の名前をそう簡単に思い出せそうにない。弟がいますぐに、必ず覚えて欲しい、というのなら話はまた別だが。

 弟は、幼い頃からの人見知りも相まって、人前では自分のことをあまり多く語らない。
 けれど心を許してるシエルは例外であり特別で、弟が自分から何かを共有したくなる相手こそがこのシエルだった。
 そんな自分の好きな物を共有したくなるいちばんの相手に弟から選ばれるのは、シエルにとって光栄なことであり、見えない尻尾が激しく振られるほど嬉しいことでもある。

 そんなわけで、弟はお気に入りの作家が書いた、これからお気に入りの一冊となる本に現在進行形で夢中なのは、シエルもわかっていた。
 その時間を邪魔することはしたくないとも思う。
 好きなことにまっしぐらな弟はとても可愛らしくて、見ているとシエルの中で愛おしさは溢れるから。
 ……本来そのなのに、気を抜くと大好きな弟を本に取られてしまったような気分になってしまい、シエルの胸の内に現れているほんの小さなモヤは少しずつ存在感が大きくなっていく。

 そうはいっても、これでもシエルは耐えた方だった。

 昨日本を手に入れてから変わらない弟のその姿に、シエルも微笑ましくぼんやり見つめながら、自分も隣で読書を楽しんだり、他のことをしていたのだ。
 だけど、弟はこうなってしまうと本当に本に夢中で、シエルがこうしてソファの隣に腰掛けても視線の一つ与えてくれない。
 
 少しはかまって欲しい兄心を察して欲しくもなるシエルなのだが、アプローチは昨日からあまり上手くいっていない。
 家庭教師から出された課題はもう終わってるのか、とか……明後日の夜会の準備はもう済んでいるの、とか。まるで世話係かのようなつまらない質問を投げかけては、本に夢中の弟から「んー」とか「あー」とか空返事を返されてばかり。

 シエルは現在進行形で敗北している。たった一冊の本に敗北を味わされているのだ。
 勝ち負けの話ではないし、たかだか一冊の本を読み終わるくらいの時間といえばそれもそうなのだが、そんな短い時間でも弟のことが好きすぎるシエルとしては絶望的な時間ともいえるだろう。
 せっかくの丸一日のお休みくらい、弟と仲良く談笑したり、チェスやカードで遊んだり、こんなに綺麗に晴れた今日なんかは庭園でささやかなお茶会を開くのだってありなはずだ。
 それなのに、“シエルと過ごす幸せ溢れる豊かな一日”はいまの弟にはあまり魅力的ではないようで。
 シエルは己の無力さに項垂れる。

「……はぁ」

 自然と漏れてしまったシエルのため息さえ、本に意識が集中している弟には届かない。


 ——僕よりも本の方が大切だなんて、お兄様はすごく、すごくすごく寂しいです。

 ——僕が寂しがり屋で構われたがりなの、お前は知ってるはずでしょ。

 ——もう! 少しでいいから構ってよ〜!


 弟の横顔を覗き込みながら、シエルがお揃いの青い瞳に目で訴えても効果はいまひとつだ。
 シエルは心の中でまた敗北の数字を増やさなくてはいけない。

 正直、弟の読書を邪魔することも考えた。だけど、それはあまりにも幼すぎる思考だし、集中している弟を変に邪魔して「シエル、いまは邪魔しないで!」なんて、ぷりぷり怒られながら言われたらと想像すれば……案外その姿は結構可愛かった。
 だがその後、半日程度続く無視がお兄様的には凄まじいダメージとなる。前科はもうあるのだ。あれは本当に辛い。やはり物理的な邪魔はするべきじゃない。

 なら他に、なにかいい案はないのかと、シエルがソファから立ち上がり、部屋の中を見回すと、ちょうど視線の先に居たものと目が合った。
 黒い瞳が陽の光を浴びてきらりと光り、グレーの長い耳がピンとたっている綿の塊。それを何となくシエルは持ち上げる。
 可愛らしいうさぎのぬいぐるみだ。

 いつの日かロンドンへ出かけた時に、弟が珍しく父に強請っているのを見たときはシエルも驚いた。しかしながら、このぬいぐるみを抱いて馬車に乗り込んだ弟の満足気な顔といえば愛らしく、それはそれはもうまるで天使のようだったといっても差し支えない。少なくともシエルにとっては天使で見間違いなかった。

 ……しかし、その日からシエルと一緒に眠るよりも、このぬいぐるみと眠ることを選びはじめた弟に、シエルは当時すごく嫉妬していたことも思い出してしまう。
 思い出から湧き上がった嫉妬からシエルは衝動的に目の前ぬいぐるみの頬をつねってみた。
 弟には見えない角度だし、まぁこのくらい許されるだろう。何せ相手はただの綿が詰まっただけの布切れだ。……ついでだし、鼻もつまんでやろう。

「………ふふ」

 僅かに歪むぬいぐるみの顔はまるで助けを求めているように見えて、シエルの加虐心を満たした。

 それはそうと、弟のお気に入りであるこの綿の塊は、普段は弟のベッドにいるはずなのだ。いつの間にこんなところに連れてこられたのだろう。
 つまんでいた鼻から指を離して、その口元を指先でなぞりながらシエルは考えたものの、深い理由などは思いつかず、存外触り心地のよいフニフニとした触感を楽しむことになった。
 ……あ、これはいいかもしれない。
 ふっと湧いた弟の気の引く妙案にシエルは青い瞳を瞬かせる。
 ぬいぐるみにしてはいいことを思いつかせてくれるじゃないかと、機嫌の良くなったシエルはその頭を撫でて「お前にも協力してもらうね」とにこりと笑った。

 さて作戦が決まれば、再挑戦と言わんばかりにまた弟が座るソファにシエルは戻り、腰掛ける。
 さっきと違うところをあげるなら、やはり新しく装備した膝の上にいるこのうさぎのぬいぐるみだろう。
 しかし、やはりそんなシエルにはやはりお構い無しの弟はいよいよクライマックスとなるだろう本に目がすっかり釘付けだ。隣のシエルなんてあまりにも予定調和すぎて見る気配もない。

 いや、もうここで挫けていては仕方ないのだ、この勝負今度こそ、シエルは笑って勝利を掴みたい。昨日より連敗が続いているこの不毛な勝負をいま終わらせてやる。

 準備はいいね?と、うさぎのぬいぐるみの瞳を見つめたが、相手はやはり物言わぬ綿の塊だ。
 それでも了承と勝手に見なしたシエルはそれを持ち上げて、弟の名前を少し大きめの声で呼んだ。それも絶妙に悲しそうで寂しそうな、何かを強請るような子供みたいな声で。

 そんな悲壮感溢れた兄の声には、流石の弟も本から目を離さずにはいられなかったようだ。
 本から弟の目が離されて、顔を上げてくれるのはきっとほんの数秒だけ。
 少しでも逃せば「ごめんシエル、またあとで」と言われてしまう。

 ——こちらを見あげた、いま、まさに、この瞬間!

 そう心で唱えたシエルはぬいぐるみの口元を弟の口元にそっと押し付ける。
 数秒触れ合ったそれを外したあとに弟の顔をみれば、豆鉄砲食らった鳩のような顔をしている。
 何が起こったのか理解していない弟の顔に満足したシエルはふんわりと笑った。

「……えへへ、奪っちゃった」

 完全に本から意識を奪われた弟は目をぱちぱち瞬かせてぬいぐるみを見つめたり、シエルを見つめたり、はたまた自分の唇を触っては何が起こったのかと首を傾げてる。

 ——寂しくて我慢できなくなっちゃった。少しだけでもいいから、僕とも遊んでくれない?

 そう伝えたかった言葉をいざ口にしようと、唇を開こうとしたシエルだった。
 けれどそれは叶わず、止められてしまった。

 ……ぬいぐるみでもなんでもない、大好きな弟の唇によって。



 弟はシエルのやわらかな唇を確かめるように何度か食む。そして大人しくシエルがそっと口を開けると、弟はそのままシエルの口の中を優しく小さな舌で掻き回していった。
 弟に愛されて身体も気持ちも溶かされると、何もかも奪われたような気分になる。弟のことばかり考えていることに変わりはないのに、余計なものはすべて奪われて、奪われた部分は甘くて優しいものでいっぱいになるように満たされていく。
 ……すっかりキスに夢中になってるのはシエルには、弟が何のためにこれを仕掛けてきたか思いつくわけもなかった。

 そろそろお互いの息が限界だというタイミングで弟から唇を離すと、飲み込みきれなかった唾液が吐息を漏らすシエルの口元を伝っていく。
 熱を閉じ込めた弟の青い瞳はどんな宝石よりも美しく、シエルをたまらない気持ちにさせた。
 ここからは、ようやく弟と楽しい時間を過ごせるなどと逸る気持ちを抑えきれず、自分から弟に再度キスを落とそうとしたが、それは弟に止められてしまった。

 弟はシエルの前に本を掲げて、上目遣い気味にこちらを見つめる。

「ごめん、シエル。……本の続き、本当にあともう少しだから、だから」

 この後に及んで、ここまでその気にしておいて?
 シエルはもう“待て”なんてごめんだと口を尖らせた。

「やだ……待てない」
「……シエル」
「……………………………」
「…………シエル、お願い」
「………………。ずるいよ、お前……。もう、本当に、あと少しだけだからね」
「ありがとう、すぐに読みきるから待ってて」

 シエルから本の続きを読んでいいと告げられた弟は、またしても本の世界へと旅立ってしまう。

 シエルはその姿を見つめながら名残惜しくも自分の唇を指でなぞる。
 さきほどのキスは刺し詰めハニートラップもどきとでもいったところなのだろうか。
 奪われてしまったのはどちらかといえばシエルのほうだった。弟の目的の為に、シエルの蓄積された寂しさは殺されてしまったのだ。
 してやられたのだ。まさか弟が自分の機嫌取りをここまで心得ていたなんて予想外だ。

 あんな熱烈なキス、もちろん効果は抜群に決まってる。むしろ抜群すぎて余計に寂しさが生まれてしまったのは誤算だ。
 それでも、弟のお願いならば仕方ない。あともう少しだけ弟の読書を見守ることにしよう。
 うさぎのぬいぐるみを再び膝に抱き抱えると敗北の烙印としてその額にデコピンした。

 シエルは、静かに弟の横顔を見つめたが、まだしばらくはその瞳が自分に向くことはない。
 弟との時間が恋しい。待てを言い渡されたシエルはもどかしい気分を紛らわせるようにぬいぐるみを抱く力を強めた。
 わがままを押し通したいわけじゃない。むしろ弟のお願いごとにはスマートに答えられるかっこいい兄でありたいとシエルは思う。だけどまだ自身の感情の処理にはなれていないの事実だ。普段はなんともないことも、大好きな弟が絡むとなるといつも上手くいかない。

 それでも、弟のお願いごとにこたえると決めたのだから。いまはちゃんと抑えなくてはと、己に喝を入れてシエルは席を立つ。
 読書を終えたあとの弟の為にメイドへ紅茶と茶菓子の用意を頼みにいけば、少しは時間も潰せるだろうか。


「シエル」

 この場を立ち去ろうとするシエルの服の袖を弟が不意掴む。振り返ったシエルに、弟は少し申し訳なさそうに、それでも柔らかく微笑んでいた。

「待ってくれる間、シエルはシエルのしたいことを考えていて。……シエルの為に、僕もシエルのお願いごと、何でもこたえるから」

 薄く頬を赤らめながらもそう言いきった弟はまたすぐに本へと視線を戻して、真剣に文字列をなぞり始める。赤らんだ頬はそのままだった。
 シエルは弟の姿を数秒見つめてから、どこか気の抜けた声で「うん」とたった一言だけ返して扉の外へ出ることにした。

 シエルはそれなりに長い屋敷の廊下を弾むようなステップで歩いていく。それもとびきりの笑顔で。

 その姿は、見たこともないくらい上機嫌で鼻歌まで歌っていたと……廊下ですれ違ったハウスメイド達の間で少し話題になるほどだった。
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