相愛
静かな暗闇の中で灯る蝋燭を頼りに、弟が淡々とペンを走らせる。大体の生徒は眠りについているだろうこの時間を、熱心な弟は予習復習に当てていた。
そしてその姿を、シエルはベッドの上で読書をしながらそっと見守っていた。
シエルは弟の一生懸命な後ろ姿を見る時間が好きだ。
あの真面目でしっかりものの……ちょっぴり堅物な弟が、自由を得た魚みたいに、好きなことや取り組みたいこと、努力したいことにまっしぐら。時間も忘れて没頭するほどの集中力を発揮するあの姿。
嫌々取り組んでいるのではない。努力する行為に、楽しさを見出しているからこその、一生懸命さが、大好きだった。本人がそれに気づいてないことを含め、愛おしいと思う。
だけど、それはそれ、これはこれ。さすがに今日はやりすぎだ。
そろそろ声をかけようかとシエルは自分が読んでいた本に栞を挟む。
時間というものは有限だ。とめどなく溢れるものではない。
夜更かしと呼ぶにはまだ少し早いものの、もうとっくに消灯時間を過ぎたいい時間なのだ。寄宿学校に身を置く以上、規則正しい集団生活をしなくてはいけないし、好きな時間に寝て起きてというわけにはいかない。どこかで無理をしたらそのツケは必ず回ってきて、ずれた帳尻を合わせるのはなかなかに骨が折れること。
……身体面も精神面も拗れたら病になる。
弟に限っては特に身体面が心配だとシエルは幼い頃の記憶を呼び起こす。
いまは落ち着いてきているものの、弟は元々身体があまり丈夫ではないし、小さな風邪が持病である咳喘息のせいで重症してしまうこともよくあった。
精神面については……案外タフなことは知ってる。それでも弟は負けず嫌いだからこそ、とても追い込まれやすい部分もある。
寝る間も惜しんでせっかく弟ががんばっている勉強が、何かが崩れることでぱあになってしまうのは、見守っているシエルとしても複雑な気分になる。
そういう弟が自分では補完できない部分を、そっと埋められる存在になりたいと、シエルは思う。そう願っているからには、お節介だとしても、シエルには行動あるのみだ。
「ーーーー」
「……うん?」
まずは名前を呼んでみる。しかし返事は空っぽ。とりあえず相槌を打ってみただけのようだ。
集中している時の弟はこれだからもう、なんてシエルは困った笑顔でため息をつくと、ベッドから立ち上がる。そのまま音をなるべく立てずに弟の背後に移動した。
これでもまだ気が付かない。……いや、もしかするとちゃんと気づいていて反応をしないだけかもしれない。シエルは試しに弟の髪の毛を撫でるように指でとかしてみた。
すると、弟はくすくすと笑った。弟の反応に、ああやっぱりとシエルもつられるように笑った。
「今夜は冷え込んでいるんだから、そろそろ終わりにしたら」
「……でも、あと、もう少しだけ。キリのいいところまで……っ、ひゃ」
「ほら、耳まで冷たくなってる」
髪をとかしていたシエルの指が流れるように、弟の耳の輪郭を触れてなぞれば、流石の弟も小さな声をあげてペンを止めてくれた。
しかし、それでもまだキリのいいところまでは問題を解こうとするので、シエルはその耳元にキスを落とすことにした。
弟はぴくりと少し反応を見せるのに、シエルに流されることも、諦める気配もない。意地にならせてしまったかもしれない。無論、意地になっているのはシエル自身もだ。
弟のノートを覗き込めば、明日の授業の予習をしているのがわかる。習ってない文法の読み解きに苦戦しているようだ。
語学においては弟よりも少し自信があるシエルは、問題を少し読み込んだ後、十秒足らずで頭の中で凡その答えを描くことができた。
なので、いっそ弟の勉強を手伝ってあげることにした。
「そこの問題で躓いてるんでしょ」
シエルは耳元でそう囁いてから、唇で弟の耳殻を食む。反応を押し殺せない弟が身じろぐのを視界に入れながら、シエルは話し続ける。
「今日習った文法とは使い方が全然違うし、法則性もないから……難しいよね、ここ。でもまずは先にここから訳してみて」
耳元でそう囁いて、弟のノートを指させば、弟は何も言葉を紡がないまま黙々とノートに書き込んでいく。
そして、少しずつ辿るように訳して、シエルの囁く通りにペンを動かす弟が、ようやく答えを導きだしたのを見届ける。
「……ありがとう、シエル」
眠るのを惜しむほどだった難題を解き終えた弟がすっきりとした嬉しそうな声でそう告げると、シエルは後ろから弟を抱きしめて「よくできました」とその耳元に再度、できるだけ甘い声で囁いてみせた。
弟がまだ身じろぐ。さきほどからの弟の反応がシエルには堪らない良いもので。その可愛らしさを強請るように、弟の耳元にキスを落とすことにした。
「ぁ……っ、もう、勉強やめるから」
「ふふ。“あと、もう少しだけ”」
「…………。それ、もしかして僕の真似か?」
「あはは、ばれちゃった」
シエルが笑いながら、名残惜しそうに抱きしめて拘束していた身体を離すと、弟はすぐにシエルの方を振り返った。
「ほら、もう遅いし、早く寝よう」
随分と楽しんでいた癖に、もっともらしい言葉を並べるシエルに、文句を言いたげな弟は上目遣いで見つめてきた。
その弟の顔に、シエルはただ笑顔を浮かべたまま見つめ返す。
弟がこうして今日も明日も元気なまま、怒ったり笑ったりしてくれるならそれが一番だなんて、そんなことを思っていた。
そんなシエルの笑顔を見た弟は、文句の一つも言わず、これだからシエルはもう、と言いたげな……さきほどのシエルと似た困った笑顔を浮かべていた。
そして何か思いついたように、蝋燭の火を消して席を立った弟は、シエルの手を引いて、一緒にシエルが使っているベッドへと向かう。
「……珍しいね」
弟から一緒のベッドで眠ろうと誘われたのは子供のとき以来かもしれない。誘うのはだいたいシエルからで、それも弟のベッドへシエルが勝手に潜り込む形だったけど。
突然こうして弟からシエルのベッドへ訪れることも稀にあったなぁと、シエルは昔のことを思い出していた。
そんな思い出を振り返る間もなく、何も言わないまま先にベッドに入り込んだ弟が、シエルも早く入ってこいと言わんばかりに、自分の側に来るよう布団を軽く叩く。
その姿を見たシエルは、無言のまま引き寄せられるようにそこへ潜り込んだ。弟はそれを見届けると、シエルの方へと近づいて身を寄せてきた。
至近距離にいる弟は何も言わないままシエルを見つめる。その瞳も表情も、暗い部屋の中ではあまりよく見えないはずなのに。何かを見通すような、透き通る青さがそこにあった。
「好きなんだ、シエルのその顔」
小さな声で、弟が呟く。
「僕のことが、心配で仕方ないって顔」
そう言って弟は、シエルにゆっくりとキスをして懐かしむように笑って目を閉じる。
「……僕のことを、愛してくれる顔が、好きなんだ」
幼い頃は、シエルと同じベッドで眠ることが多かった。
“今日はすごく冷え込むから”
“僕が寂しくて一人じゃ寝れないから”
“昼間に聞いた怖い話を思い出したから”
“たまにはいいでしょ、たまには”
シエルからかけられる誘い文句は、いつもそれらしいものばかり。
弟はすっかり乗せられるまま“シエルは一人で眠るのが苦手なのかもしれない”などと考えていた。……それだけではないと知ったのはもう少し大きくなってからだ。
弟がシエルと同じベッドで眠る機会は、寄宿学校に入学してからというもの、帰省時以外にはほとんど無くなった。
シエル以外の他人を含む最大6人用の大きな部屋で寝泊まりするようになれば、それも当然だった。
入学する前までは何かと理由をつけて弟のベットへ潜り込んできていたシエルも流石に遠慮しているようで、弟自身も13歳になって兄と同じベッドで眠っているところを同級生見られるのは気恥ずかしさがあったから。
少しだけ、寂しい気持ちと心細さを抱えながらも、二人はそれぞれ静かな夜を過ごしていくようになった。
そんなあるとき、入学して半年くらい経つ頃に弟は風邪をひいた。
それは流行りものの類ではなく、季節の変わり目によるもので、とくに重症化することもないただの風邪だった。それでも念には念をと、他の生徒にうつさないように寮内の使われていない部屋のベッドで弟は一夜を過ごすことになったのだ。
その一夜に、二人はまた同じベッドで眠ることになった。
一人きりの部屋で、熱のせいか、なかなか寝付けない夜を過ごしていた弟のもとにシエルは来てくれた。
突然のことに起きあがろうとする弟を、シエルはそっと止めて寝かし付け直すと、内緒で抜け出してきたから大きな声はあげないようにと小さな声で説明して、そのまま弟のベッドに潜り込んだのだ。
どうやって?どうして?聞きたいことはあるのに、弟は何も聞けなかった。
疑問抱く前に、シエルがそこにいてくれたことにすごく安心して、弟はそれだけでいっぱいだったから。
寄宿学校に入る前と変わらぬ姿でと表情で、「僕がお前のそばにいたいから」とまた理由をつけて柔らかく笑うシエルに、弟はゆっくりと目を閉じる。完全に眠ることができなくとも、与えられる安心感に身を委ねるだけで、それだけで身体を休めることができたような気がした。
その一夜の中で、弟はときどき目を開いて、隣にシエルがいてくれることを確認した。
その度にシエルがまだ眠ることなく、自分の様子を見守っていることに気づいた。
薄目で開いた目が合うたびに、すごく優しい手つきで弟は頭を撫でられるのだ。
——大丈夫だよ、ーーーー。ずっとここにいるから。
穏やかな声で名前を呼ばれると、弟は少し涙が出そうで、この瞬間は好きなだけ甘えてもいいのだとそう言われているような気分になった。
シエルは優しい。いつも優しい。とびきり優しい。それなのに、弟にはいつもその理由がわからなかった。どうしてシエルは自分にここまで尽くしてくれるのかわからなかった。
わからないから、こういう時に限って察しの悪い自分の頭で、たくさん考えみることにした。考えてもそのときは結局答えなんてでなくて、余計に頭がぼーっと熱に浮かされるようだったけど。
だけど、シエルが自分を心配してくれるその表情がなによりも好きだったのは事実だ。
そしてシエルがその表情を向けてくれる意味が……根幹にあるものが自分に向けられた愛おしさであると、その一夜から弟はゆっくりと自覚するようになった。
同じベッドにいてくれる理由は、シエルが寂しいからじゃない。いや、それもあるだろうけど、それだけじゃない。
——僕が、一人になってしまわないように。シエルが繋ぎ止めようとしてくれていたんだ。
自分はどこかに行ってしまわないよと、ここにいるよと、弟が不安になる前に、苦しいと感じる前に、優しく示して、愛することで安心感を与えてくれていた。
……弟が自分の中での答えを導き出したとき、弟の中でシエルに向ける想いがとめどなく溢れた。
シエルと過ごす夜を繰り返す中で、止まることを知らず溢れ続けるその気持ちは、無意識なまま大きく大きくなっていく。
けれど同時に、シエルはどうして寂しさを知っていたのか。孤独を知り得たのかが弟は気がかりだった。
生まれからずっと何をするのもどこへ行くのも一緒だったのに。
シエルは孤独になることを恐れる瞬間があって、僕よりも先に、それが何よりも不安で苦しいと気付いているということだ。
疑問の一つに答えが出せたと思ったらまた更なる疑問がついて回るから困ると弟は思う。それでも答えを探し続けることだけはやめたいと思わなかった。
むしろ、もっともっと知りたくて仕方ない。
すべては理解はできないかもしれない、受け止めきれない何かがあるのかもしれない。例えそうだとしても、知りたいと願うこの気持ちは本物だった。
その根幹にあるものこそが、弟がシエルに向ける愛情だった。
弟は、シエルを愛している。だからシエルのことをもっと知りたいと願う。深く知ることができたその先に、自分がシエルが感じた孤独の理由があって、その孤独を消し去る方法があるかもしれないから。
それを探し出せた暁には、シエルを満たせる存在に自分がなりたいと弟は思う。
同じベッドで二人きりでいる時間は、お互いのことをより意識しているような気分になる。
まるで孤独な夜の世界を二人きりで旅しているみたいだと、そう思ったのはどちらだったか。
離れ離れにならないよう、どちらからともなく相手への伸ばした両手はいつの間にか絡ませるよう繋がれて、愛おしさが溢れた瞬間に見つめ合う二人はキスを交わす。
お互いの欠けた部分を、埋めるように、満たすように。
お互いのやり方で、お互いのことを愛した。
「……お前と過ごす夜が、好きなんだ」
小さな声で、シエルが囁く。
「お前に愛されるこの夜が、好きなんだ」
満たされた笑顔のシエルは、弟の存在を確かめるように触れるだけのキスをした。
だから、あと、もう少しだけ。
もう少しだけ、二人で過ごすこの夜の世界に浸っていたい。
その願いは、重なった。
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