狂信





「……ねえ、お前、こういうの好き?」

 シエルから唐突にかけられたその一言に、弟は固まってしまう。そのわかりやすく図星な様子の弟に、シエルは当たりを引いた子供のように満たされた笑みを濃くした。
 それはあまりにも一瞬のことだった。こんな形で、こんな簡単に図星をつかれるとは思っていない上、咄嗟に否定の言葉を吐くことすらできなかった弟は、何一つ隠すことができない。弟は物言いだけな顔で悦に浸るシエルを見つめることだけ許された気分になった。

 弁明したって遅い。遅いのはわかっている。だからこそ、このしてやられた気分に嫌気がさす。
 今にも唸り出しそうな猫の特徴をよく掴んでいる弟を、シエルはまた笑う。

「別にいいでしょ。悪いことではないんだし」
「良い悪いの話じゃないだろ、僕がこんなこと好きになりたくないんだ」
「ふぅん……好きになりたくない、ね」

 お前は自分の好き嫌いを意思決定でどうにかできると思っているんだ?と、シエルは更にくすくすと笑う。弟はもう黙っててほしい気持ちでいっぱいだった。必死になるあまり、頬や耳に熱が集まっていく。

 ……好きになんて、なりたくない。
 それなのに、ずっと身体は正直に反応している。気持ちには嘘をつけない。
 シエルから目を離せなくなるこの状況。意識を全てシエルに奪われるような、全部全部、身体の隅々から魂まで掌握されてしまうような感覚。どこからか湧き上がる何に対するものかもわからない期待。
 これを、好きになってしまったら戻れないような気がした。



「…………ッ…、ぁ……」

 
 自分を抱きしめ、支えているシエルの腕が少しだけ弱まり、弟から小さな息と声が漏れる。
 シエルは弟の反応を楽しむようにじっと観察していてた。しかし弟には、そんなシエルに趣味が悪いと、そう思う余裕すらなかった。

 シエルからの支えを失った弟は体勢を崩す。重力従ってゆっくり落ちてしまいそうになるその身体を何とかシエルの方に戻そうと、弟は怯えながら必死にしがみついた。

 意図の読めないシエルの行動ひとつひとつに理解が追いつかない。怖いと思うのはこの状況に対する恐怖からなのか。それとも自分自身に対してなのか。弟の思考は上手くまとまらなかった。
 
 ……だって、こんなの、おかしい。

 恐怖と相反する自分の感情の整理がつかない。何故恐怖しているのに、こんなに怖いのに、自分はそれ以上の何かを期待しているのかと。
 紅潮した頬も、濡れた瞳も。期待と恐怖が混ざってどろどろで、混乱してほとんど擦り切れている理性では制御できない。


 ……そんな弟のすべてを、シエルだけが見通していた。




 こうなったきっかけはたまたまだった。
 たまたま気分が優れなかったシエルが気分転換にバルコニーで星空を見ていたら、たまたま心配してくれた弟が呼び戻しにきて。シエルはそんな弟が可愛くて、魔がさして揶揄いたくなっただけのこと。

 本当に、そう、たまたま。シエルは弟を流れるような手つきで抱きしめて、そのまま抱きしめた弟をバルコニーの柵から乗り出させ、落とす寸前で止めたのだ。

 シエルからの支えがなければ、弟はそのまま背中から落ちてしまう状況は、側から見ても異質そのもので。仲のいい兄弟の戯れなどには見えないどころか、微笑ましさのかけらもない。もはや狂気だ。
 たとえ本気で落とすつもりはないと口で言っても信じてもらえるわけがないくらい、酷いことをしている。
 冗談にしては度を超えた、本気だとしても正気の沙汰ではない行為だ。

 その突然の行動は、二人の時が止めたみたいだった。時間が過ぎている感覚すらなかった。

 流れる世界の時間を見つめるだけのその時間を過ごしているとき、ああきっと僕は軽蔑されると、シエルは思った。こんなことをして許されるわけない、嫌われるとわかっていた。

 ……だけどあの子は優しいから。
 きっとこんなことがあった後でも、部屋に戻ったら僕を怒鳴りつけて、怒鳴りつけたあとはちゃんと何かあったのか話を最後まで聞いてくれるんだ。聞いた上で、一緒に頭を働かせて、たくさん考えてくれる。どれだけ僕が愚かで最低な行いをしても、あの子は僕の側にいてくれて、離れようとはしないのだ。
 その優しさを知っていて、知っている上で。こんな残酷な形で甘えようとする自分が、あの子の優しさをこんな卑怯なやり方で試そうとする自分が死んでしまいたくなるほど嫌で、僕はそんな自己嫌悪に浸っていた。

 なのに、とうの弟は……何も言わなかった。

 
 落とされそうになったのに。殺されそうになっているのに。弟は何も言わずに受け入れて、シエルに回す腕は必死に力がこもって、震えていたのに。それでも、弟はただ真っ直ぐにシエルを信じる瞳で見つめ続けた。

 その瞳と目があった瞬間、シエルは得ないのしれないものを感じ取った。
 揺れる瞳は、どう見ても怯えからではなく、期待からだったのだ。
 瞳だけではない。よく見れば、弟はほんのり頬まで赤らめていた。冬の凍てつくような寒さはとうに超えていて、春の訪れにより涼しい風が漂う夜に、肌を赤らめることなど本来はあり得ないのだから。それもまた期待の表れだった。

 弟は、自分自身でも何が起きているのか、よくわかっていない様子だった。
 
 弟が驚いていて固まっていたのは、シエルの酷い行動に対してではなく、シエルにされたことに対する自分の感情の揺れ動きに対してだったのだ。
 弟の感情揺れ動きはあまりにも複雑怪奇で、常人には何か一種の興奮でも覚えているかのように見えるだろう。けれどそこには性的興奮すらなければ、快楽を得ているようにも見えない。

 それは……もっと根強い、何か。
 とてもとても綺麗で、美しい祈りのようだった。

 怯えはそこにちゃんとあって、だけどそれ以上にシエルを信じていて、自分をどう扱うのか見極めようという……献身的な期待のようなものをシエルは感じた。

 シエルが弟に期待するように、弟もまたシエルに期待をしているのだ。ベクトルも、向ける期待の種類も、何もかも全然違う。それでも利害がたまたま一致してしまった故、二人の頭からはリスクもスリル的状況も頭から抜け落ちて、危険な体勢のまま、お互いのことばかり見つめてしまっていた。このまま時が止まってしまっても構わないだなんて思うくらいに。
 ただお互いだけを見つめて、信じて、期待した。信仰に近い、何かが狂ったような時間を過ごしたのだ。


 しばらくの沈黙が続いた後、うっとりとしたままの弟に、シエルはあの質問をした。こういう状況に置かれることが好きなのかと。この時間が愛おしいと思えたのかと。
 声をかけられて、ようやくまともな理性が戻ってきたらしい弟は、案の定、自分の身に起きていることを整理できていなくて。理性では否定したいけれど感情では否定ができない状況に苛まれているようで、それがまた堪らなく……シエルは、弟の何もかも愛おしくて堪らない気持ちにさせられたのだった。しあわせな心地いい時間に、何度も笑みが溢れた。
 好きになりたくないとは、弟もよく言ったものだ。


 シエルは弟の頬にキスを落とす。


「シエル……もう、これ以上は……」

 涙が滲んで揺れる瞳は美しくて、儚くて。これ以上はと、そう止めようとする割に、瞳の奥にはまだ微かに期待が灯っているように見えた。
 人を惑わして、狂わせる悪い子だ。シエルは心の中で、弟にそんな意地悪な言葉を浴びせながらも、口には決してしなかった。狂わされていることに、シエル自身も気分が高揚していたから。



 ぐっと力を入れて、弟の身体を引き上げると、弟は強張っていた身体から力を抜いてシエルの方にもたれかかってくる。そのままゆっくりと一緒にその場へ座り込んでも尚、弟はシエルに身を寄せたままみ離れようとはしなかった。
 ぴたりとくっついている弟から伝わる鼓動は、あんなことがあったのにも関わらず落ち着いていて、とくりとくりと穏やかに動いていて。呼吸も全然急いでなくて、むしろ、とても静かで。
 シエルがそっとその顔を覗き込めば……誰にも見せたくない表情がそこにあった。

 ただ安堵しただけじゃなく、まるで何か深くまで満たされたような……触れたら壊れてしまいそうなほど柔らかな表情。愛された生き物の姿だ。
 
 こんなもの、見ているだけでため息が出てしまう。シエルは弟のその姿が自分の目に毒だと思い、不意打ちで再度弟に触れるだけのキスを落とす。すると、弟は少し間を置いてからハッとした表情でシエルを怒鳴りつけた。

「あれは、一体何のつもりだ!!」
「…………ふふ、うーん、心中未遂?」

 シエルが冗談めいた声でそう答えると、震える弟は「ふざけるな」と小さな声で告げ、シエルの胸をさほど強くない拳で叩いた。

「好きに、なれるわけないだろ……こんなの、おかしい、こわい」

 ぽろぽろと遅れてきた涙を流しながら「こわい」と呟くように泣く弟を、シエルはそっと抱きしめ続ける。
 この子が怖いと口にするのは突然だとシエルは思う。
 まだ何もわかっていない子に、とんでもないものを身体で先にわからせてしまった罪は大きい。




「……僕だって、怖いよ」


 聞こえるか聞こえないかの小さな声で、そう弟の耳元に囁く。聞こえたかどうかはわからないけれど、弟はシエルを強く抱きしめて泣き続けた。
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