ポメガノン
愛玩動物の様相となったカノンを一目見た瞬間、女神は見た目相応の少女らしく表情を輝かせた。
「まぁ……可愛らしい姿になりましたね。カノン」
ミロが抱き抱え、宥めすかしてなんとかカノンを教皇の間へと連れて来ることが出来た。ここまで、カノンは一切口を割っていない。
シュラが巨蟹宮から女神と教皇に謁見を求める小宇宙を送ると、すぐさま受諾の意が伝えられ、教皇の間に場が整えられた。青銅の少年たちほどではないが、近頃、女神は黄金聖闘士にも気を許し始めている。公式の場、というには少々緩やかな雰囲気で女神は微笑んでいた。
「……一先ず、何があったか聞かせよ」
咳払いを一つして、教皇が参内した黄金聖闘士たちを睥睨する。玉座に座る戦女神の傍らには教皇シオンと教皇補佐の一人であるアイオロス。一段下がって天秤座の老師という布陣だ。
執務室に詰めている筈のサガ、カミュ、ムウの姿はまだなかった。
青い毛玉――もとい、ポメラニアンの姿となったカノンは何を言う気力もないのかミロの足元でジッとしている。若干、隠れる様に身体を縮めているのは、女神の視線が居た堪れないのだろう。10代前半の娘が三十路の男に向ける視線ではないのだから、気持ちは分からんでもない。
「……本日は私もカノンも非番でしたので、昨夜から双児宮にて共に過ごしていたのです」
カノンは何も言えないと判断したのだろう。ミロが話し始めるが、いかんせん言葉選びが悪い。女神の表情は輝きを増したし、カノンはミロの脚に噛み付いた。
「痛っ!? 何をするカノン!?」
「黙れ! 語弊を産む言葉を選ぶな!!」
グルル、と唸るカノンと訳も分からず噛み付かれて混乱するミロ。
呆れた様子のシオンが深い溜息を吐き、一言女神に断ると喝を入れた。
「狼狽るな!小僧ども!」
どしゃあ!っと吹っ飛んだ一人と一匹は案の定、顔面から床に落ちて倒れる。
「……ミロ、カノン、言葉を取り繕わなくて良いから、そのまま話せ」
宜しいですよね、とアイオロスが問えば、鈴を転がすような声で女神が笑う。
「ええ、勿論です。わたくしは気にしませんよ」
起き上がったカノンは不甲斐なさそうな表情をしている気がするが、ミロは間違いなく分かっていない。だが、謁見の場であるからと堅かった表情が女神とアイオロスのやり取りで和らぎ、素に近いものになっている。
「……ではお言葉に甘えさせて頂きたく存じます。私とカノンは互いに今日が非番でしたので、昨夜の夕食後から今朝までゲームをしておりました。明け方までは起きていたのですが、その後いつの間にか眠ってしまい、目が覚めるとカノンはこの姿になっていたのです」
そして驚いた着の身着のまま、巨蟹宮へ飛び込んだのだ、と。
それが起こったことありのままであり、他に変わったこともなく、語るべきものは特にないと言うミロに何人かが頭を抱えたのは致し方ない事だろう。人の子のように座り込んで、器用に前脚で顔を隠しているカノンの心中を押して測るべきか否か。
「徹ゲーしてたのかよ、お前ら……」
「時々やるんだ。カノンは強いぞ!」
今度一緒にやろう、と拳を握るミロに対して、デスマスクは定期的に、何故こいつはこんなにも純粋に、無邪気に育ったんだろう、と疑問に思う。
「……カノンよ。つまるところ、徹夜して疲れた故にこうなったのではないか?」
百歩譲ってミロはともかく、と地を這う声がシオンから聞こえる。
「己が年を考えろ! 愚か者めが!」
あんたには言われたくねぇ! と叫びながら、カノンは再び宙を舞った。
今度は教皇の間の天井に激しく身体を打ち付けて。
「……ものすごい音がしましたが、何事です?」
誰か知りませんが生きてますか、と、ムウが扉の開く重い音と共に入室してきた。その背後には、苦い笑みを浮かべたサガとカミュが立っている。
視線を壇上へ向かわせ、女神に黙礼したサガはごく自然に、悠然とした所作で同行の二人より一歩前へ出た。そして遅参の口上を述べる。
「参上が遅くなり申し訳御座いません。愚弟が何やらご迷惑をお掛けしていると、伺い……ましたが……」
尻すぼみに言葉を発するサガなど珍しい。
とはいえ、この状況では致し方なかろう。
青筋を立てるシオンと青い顔で震えているミロ。部屋の中央には、砕けた天井の破片にまみれて倒れている青い毛並みの小型犬。言葉で現状を説明しても全く意味が分からない。
ムウもカミュも何事があったのかと目を丸くしている。
「なんです……? あそこで転がっている毛玉は」
「仔犬、か?」
そんなものが女神と教皇の御前で伸びているとは意味が分からない、という二人の反応はごく自然的な、予想の範疇に収まるものである。しかし一人だけ、予想外の反応をしたのは他でもない。真ん中で伸びて注目を浴びている男の片割れであった。
「……カノン……?」
わなわなと唇を震わせ、真っ白な顔で半身たる弟の名を呟いたかと思えば、サガはそのまま後ろに倒れ込んだ。
「サガ!?」
「は?」
咄嗟にカミュとムウが支えに入る。慌ててアフロディーテが駆け寄り、脈をとって状態を確かめた。
「……気を失っただけみたいだ」
胆力の備わった黄金聖闘士とはいえ、流石に目の前でいきなり倒れられては心臓に悪い。大なり小なり、全員が肺の中の空気を吐き出すことになった。
「何だってんだよ……」
「……そこの犬をカノンと呼んだように聞こえましたが……?」
先にその場にいた者たちへ、ムウが胡乱な目を向ける。じとり、と効果音が付きそうなさまに、ミロがたじろいだのが見えた。
「ああ、それがカノンだ」
「……は?」
こともなげに、寧ろ面倒臭そうに言い放ったシオンの言葉に、ムウとカミュは信じられないものを見るような目になる。
しかし打ち所が悪かったのか、カノンは未だに起き上がらず、小さな身体はピクリともしない。見かねたミロが恐る恐る近付き、声を掛ける。
「カノン、大丈夫か?」
明瞭な返事はないが、心臓は動いているようだし、大きな怪我もなさそうだ。一応は大丈夫そうだと判断したらしいミロが抱き上げると、唸るような声が微かに聞こえた。首も手脚も力なくぶら下がっている状態ではあるが。
「そのような姿でも双子座の黄金聖闘士で海将軍筆頭なのだ。あの程度は問題なかろう」
投げ飛ばされた方ではなく投げ飛ばした方に言われても少々不安が残るが、口振りから考えるとシオンなりに一応手加減はしたらしかった。
「……どう見ても犬なんですが、我々の知るカノンは人間だったかと……」
ムウの顔には、何を言っているんだこの師は、と書かれてあった。対するシオンもまた、何を言っているんだこの弟子は、と書いて顔に貼り付けている。
「ポメガ故に身体が弱って転じただけのことじゃよ。何も驚く必要はなかろうて」
「は?」
ほっほっ、といつもの好好爺の笑みを浮かべ、肉体的には黄金最年少の老師・童虎が言葉を発する。それを肯定するように、或いは理解の及ばなかった弟子たちを叱責するように、シオンは鼻を鳴らした。
「ぽめ……なんて?」
きょとん、と瞬きを繰り返し、ミロは首を傾げる。そして助けを求めるようにアイオロスを見た。しかし当の教皇補佐は視線を合わせないように明後日の方を向いている。……非常に分かりやすいと言わざるを得ない。
「あら、アイオロスもポメガを知らないのですか?」
クスクスと優雅に笑う女神は傍らの英雄を見上げた。主の言葉に返答する刹那、倒れたサガの方へ目をやったので言葉自体は記憶にあるのだろう。シオンがギラリと目を光らせた辺り、以前に教わったが忘れてしまったという線が濃厚に思える。
「……まことに恐れながら……存じません……」
「ほう……?」
冷ややかな声と共に目を細めた現教皇の表情については筆舌に尽くしがたい。
必死にそちらへ顔を向けるまいとしている次期教皇候補の姿は、大人に叱られる直前の子供そのもの。サガの意識がない分、多少の圧が減って幾分ましにも感じられるのが一層居た堪れない。
とはいえ、この場にいる黄金聖闘士の大半が【ポメガ】という単語に芳しくない反応を示しているのが実情だ。
「……驚きじゃのう……ポメガを知らんとは」
ふむ、と童虎は顎に手を当てて呟いた。
とても信じられない、と怪訝な顔をしたカミュとデスマスクがそれに続く。
「……話には聞いたことがありますが、伝承の一つでは……?」
「マジでいるんすか?」
多少なりとも知識を持っているのはこの二人だけであるようだった。ムウもアフロディーテやシュラと視線を交わして首を振っている。
「心身が弱るとそのような姿に変わる者のことを"ポメガ"と呼ぶのだ」
蹲るアイオロスの後ろで手を払う仕草をしながらシオンが言った。女神は頬に手を当てて、知らないのも無理はありません、と微笑む。
「今ではすっかり数が減ってしまいましたからね」
眉尻が下がり困った風であるのは、数が減ったことそのものに対してか、知らぬものが多いことに対してか。どちらであるのか判断はつきかねた。
「五老峰におる間、何度か麓の村に生まれたという話も聞いたものじゃが……言われてみれば、ここ数十年はとんと心当たりがないのう」
童虎曰く、二百数十年前の聖域では【ポメガ故に】と言えば疑問を呈するものはいない程度に浸透した存在であったらしい。
「しかし、弱ると姿が変わるのでしたら、聖闘士の役目は務まらぬのでは……?」
怪訝さと心配の篭った目をシュラがカノンに向ける。確かに聖闘士最強の一角に名を連ねる男に弱点と呼べる体質があるのは宜しくないだろう。
漂う空気に真剣さが増し、カノンを抱えるミロは表情と身体に強張りが見えた。
「……問題ない。ポメガが変化する条件は個体によって異なるものだ」
任務に支障の出る条件であればとうに露見している筈であり、候補生の段階で弾かれている。弾かれなかった者にのみ、古より聖闘士の道が開かれているのだと語り、シオンは目を伏せた。
「歴代、正規の聖闘士の中にも少なくない数のポメガはいた。前聖戦時の黄金聖闘士にもな。多少の配慮は必要だが気にしすぎる必要はない」
「セブンセンシズに目覚めた聖闘士ならば姿を転じておっても戦えるしのう」
いやぁ、ポメガの姿で冥闘士を千切っては投げる背中の頼もしかったことよ、と、何でもないことのようにしみじみと語る2人のご老体。
彼らに比べれば年若いと言わざるを得ない他の黄金聖闘士たちに二の句が継げる筈もなかった。
「……昔、サガが時々連れてた犬はカノンだったんだな」
ぽろっと呟いたアイオロスに、何人かが幼い頃の記憶を探る。そういえば、何処からか迷い込んだらしいのだ、とモコモコした仔犬を連れていることがあった。
あれがカノンであったなら。カノンだけがこのような体質であるとサガが認識していたなら。13年振りに姿を変えたカノンを見たのなら。
――サガが倒れるのも仕方ない。
デスマスクはそう思い、キッチリとセットされた自身の前髪をかき上げた。
「まぁ……可愛らしい姿になりましたね。カノン」
ミロが抱き抱え、宥めすかしてなんとかカノンを教皇の間へと連れて来ることが出来た。ここまで、カノンは一切口を割っていない。
シュラが巨蟹宮から女神と教皇に謁見を求める小宇宙を送ると、すぐさま受諾の意が伝えられ、教皇の間に場が整えられた。青銅の少年たちほどではないが、近頃、女神は黄金聖闘士にも気を許し始めている。公式の場、というには少々緩やかな雰囲気で女神は微笑んでいた。
「……一先ず、何があったか聞かせよ」
咳払いを一つして、教皇が参内した黄金聖闘士たちを睥睨する。玉座に座る戦女神の傍らには教皇シオンと教皇補佐の一人であるアイオロス。一段下がって天秤座の老師という布陣だ。
執務室に詰めている筈のサガ、カミュ、ムウの姿はまだなかった。
青い毛玉――もとい、ポメラニアンの姿となったカノンは何を言う気力もないのかミロの足元でジッとしている。若干、隠れる様に身体を縮めているのは、女神の視線が居た堪れないのだろう。10代前半の娘が三十路の男に向ける視線ではないのだから、気持ちは分からんでもない。
「……本日は私もカノンも非番でしたので、昨夜から双児宮にて共に過ごしていたのです」
カノンは何も言えないと判断したのだろう。ミロが話し始めるが、いかんせん言葉選びが悪い。女神の表情は輝きを増したし、カノンはミロの脚に噛み付いた。
「痛っ!? 何をするカノン!?」
「黙れ! 語弊を産む言葉を選ぶな!!」
グルル、と唸るカノンと訳も分からず噛み付かれて混乱するミロ。
呆れた様子のシオンが深い溜息を吐き、一言女神に断ると喝を入れた。
「狼狽るな!小僧ども!」
どしゃあ!っと吹っ飛んだ一人と一匹は案の定、顔面から床に落ちて倒れる。
「……ミロ、カノン、言葉を取り繕わなくて良いから、そのまま話せ」
宜しいですよね、とアイオロスが問えば、鈴を転がすような声で女神が笑う。
「ええ、勿論です。わたくしは気にしませんよ」
起き上がったカノンは不甲斐なさそうな表情をしている気がするが、ミロは間違いなく分かっていない。だが、謁見の場であるからと堅かった表情が女神とアイオロスのやり取りで和らぎ、素に近いものになっている。
「……ではお言葉に甘えさせて頂きたく存じます。私とカノンは互いに今日が非番でしたので、昨夜の夕食後から今朝までゲームをしておりました。明け方までは起きていたのですが、その後いつの間にか眠ってしまい、目が覚めるとカノンはこの姿になっていたのです」
そして驚いた着の身着のまま、巨蟹宮へ飛び込んだのだ、と。
それが起こったことありのままであり、他に変わったこともなく、語るべきものは特にないと言うミロに何人かが頭を抱えたのは致し方ない事だろう。人の子のように座り込んで、器用に前脚で顔を隠しているカノンの心中を押して測るべきか否か。
「徹ゲーしてたのかよ、お前ら……」
「時々やるんだ。カノンは強いぞ!」
今度一緒にやろう、と拳を握るミロに対して、デスマスクは定期的に、何故こいつはこんなにも純粋に、無邪気に育ったんだろう、と疑問に思う。
「……カノンよ。つまるところ、徹夜して疲れた故にこうなったのではないか?」
百歩譲ってミロはともかく、と地を這う声がシオンから聞こえる。
「己が年を考えろ! 愚か者めが!」
あんたには言われたくねぇ! と叫びながら、カノンは再び宙を舞った。
今度は教皇の間の天井に激しく身体を打ち付けて。
「……ものすごい音がしましたが、何事です?」
誰か知りませんが生きてますか、と、ムウが扉の開く重い音と共に入室してきた。その背後には、苦い笑みを浮かべたサガとカミュが立っている。
視線を壇上へ向かわせ、女神に黙礼したサガはごく自然に、悠然とした所作で同行の二人より一歩前へ出た。そして遅参の口上を述べる。
「参上が遅くなり申し訳御座いません。愚弟が何やらご迷惑をお掛けしていると、伺い……ましたが……」
尻すぼみに言葉を発するサガなど珍しい。
とはいえ、この状況では致し方なかろう。
青筋を立てるシオンと青い顔で震えているミロ。部屋の中央には、砕けた天井の破片にまみれて倒れている青い毛並みの小型犬。言葉で現状を説明しても全く意味が分からない。
ムウもカミュも何事があったのかと目を丸くしている。
「なんです……? あそこで転がっている毛玉は」
「仔犬、か?」
そんなものが女神と教皇の御前で伸びているとは意味が分からない、という二人の反応はごく自然的な、予想の範疇に収まるものである。しかし一人だけ、予想外の反応をしたのは他でもない。真ん中で伸びて注目を浴びている男の片割れであった。
「……カノン……?」
わなわなと唇を震わせ、真っ白な顔で半身たる弟の名を呟いたかと思えば、サガはそのまま後ろに倒れ込んだ。
「サガ!?」
「は?」
咄嗟にカミュとムウが支えに入る。慌ててアフロディーテが駆け寄り、脈をとって状態を確かめた。
「……気を失っただけみたいだ」
胆力の備わった黄金聖闘士とはいえ、流石に目の前でいきなり倒れられては心臓に悪い。大なり小なり、全員が肺の中の空気を吐き出すことになった。
「何だってんだよ……」
「……そこの犬をカノンと呼んだように聞こえましたが……?」
先にその場にいた者たちへ、ムウが胡乱な目を向ける。じとり、と効果音が付きそうなさまに、ミロがたじろいだのが見えた。
「ああ、それがカノンだ」
「……は?」
こともなげに、寧ろ面倒臭そうに言い放ったシオンの言葉に、ムウとカミュは信じられないものを見るような目になる。
しかし打ち所が悪かったのか、カノンは未だに起き上がらず、小さな身体はピクリともしない。見かねたミロが恐る恐る近付き、声を掛ける。
「カノン、大丈夫か?」
明瞭な返事はないが、心臓は動いているようだし、大きな怪我もなさそうだ。一応は大丈夫そうだと判断したらしいミロが抱き上げると、唸るような声が微かに聞こえた。首も手脚も力なくぶら下がっている状態ではあるが。
「そのような姿でも双子座の黄金聖闘士で海将軍筆頭なのだ。あの程度は問題なかろう」
投げ飛ばされた方ではなく投げ飛ばした方に言われても少々不安が残るが、口振りから考えるとシオンなりに一応手加減はしたらしかった。
「……どう見ても犬なんですが、我々の知るカノンは人間だったかと……」
ムウの顔には、何を言っているんだこの師は、と書かれてあった。対するシオンもまた、何を言っているんだこの弟子は、と書いて顔に貼り付けている。
「ポメガ故に身体が弱って転じただけのことじゃよ。何も驚く必要はなかろうて」
「は?」
ほっほっ、といつもの好好爺の笑みを浮かべ、肉体的には黄金最年少の老師・童虎が言葉を発する。それを肯定するように、或いは理解の及ばなかった弟子たちを叱責するように、シオンは鼻を鳴らした。
「ぽめ……なんて?」
きょとん、と瞬きを繰り返し、ミロは首を傾げる。そして助けを求めるようにアイオロスを見た。しかし当の教皇補佐は視線を合わせないように明後日の方を向いている。……非常に分かりやすいと言わざるを得ない。
「あら、アイオロスもポメガを知らないのですか?」
クスクスと優雅に笑う女神は傍らの英雄を見上げた。主の言葉に返答する刹那、倒れたサガの方へ目をやったので言葉自体は記憶にあるのだろう。シオンがギラリと目を光らせた辺り、以前に教わったが忘れてしまったという線が濃厚に思える。
「……まことに恐れながら……存じません……」
「ほう……?」
冷ややかな声と共に目を細めた現教皇の表情については筆舌に尽くしがたい。
必死にそちらへ顔を向けるまいとしている次期教皇候補の姿は、大人に叱られる直前の子供そのもの。サガの意識がない分、多少の圧が減って幾分ましにも感じられるのが一層居た堪れない。
とはいえ、この場にいる黄金聖闘士の大半が【ポメガ】という単語に芳しくない反応を示しているのが実情だ。
「……驚きじゃのう……ポメガを知らんとは」
ふむ、と童虎は顎に手を当てて呟いた。
とても信じられない、と怪訝な顔をしたカミュとデスマスクがそれに続く。
「……話には聞いたことがありますが、伝承の一つでは……?」
「マジでいるんすか?」
多少なりとも知識を持っているのはこの二人だけであるようだった。ムウもアフロディーテやシュラと視線を交わして首を振っている。
「心身が弱るとそのような姿に変わる者のことを"ポメガ"と呼ぶのだ」
蹲るアイオロスの後ろで手を払う仕草をしながらシオンが言った。女神は頬に手を当てて、知らないのも無理はありません、と微笑む。
「今ではすっかり数が減ってしまいましたからね」
眉尻が下がり困った風であるのは、数が減ったことそのものに対してか、知らぬものが多いことに対してか。どちらであるのか判断はつきかねた。
「五老峰におる間、何度か麓の村に生まれたという話も聞いたものじゃが……言われてみれば、ここ数十年はとんと心当たりがないのう」
童虎曰く、二百数十年前の聖域では【ポメガ故に】と言えば疑問を呈するものはいない程度に浸透した存在であったらしい。
「しかし、弱ると姿が変わるのでしたら、聖闘士の役目は務まらぬのでは……?」
怪訝さと心配の篭った目をシュラがカノンに向ける。確かに聖闘士最強の一角に名を連ねる男に弱点と呼べる体質があるのは宜しくないだろう。
漂う空気に真剣さが増し、カノンを抱えるミロは表情と身体に強張りが見えた。
「……問題ない。ポメガが変化する条件は個体によって異なるものだ」
任務に支障の出る条件であればとうに露見している筈であり、候補生の段階で弾かれている。弾かれなかった者にのみ、古より聖闘士の道が開かれているのだと語り、シオンは目を伏せた。
「歴代、正規の聖闘士の中にも少なくない数のポメガはいた。前聖戦時の黄金聖闘士にもな。多少の配慮は必要だが気にしすぎる必要はない」
「セブンセンシズに目覚めた聖闘士ならば姿を転じておっても戦えるしのう」
いやぁ、ポメガの姿で冥闘士を千切っては投げる背中の頼もしかったことよ、と、何でもないことのようにしみじみと語る2人のご老体。
彼らに比べれば年若いと言わざるを得ない他の黄金聖闘士たちに二の句が継げる筈もなかった。
「……昔、サガが時々連れてた犬はカノンだったんだな」
ぽろっと呟いたアイオロスに、何人かが幼い頃の記憶を探る。そういえば、何処からか迷い込んだらしいのだ、とモコモコした仔犬を連れていることがあった。
あれがカノンであったなら。カノンだけがこのような体質であるとサガが認識していたなら。13年振りに姿を変えたカノンを見たのなら。
――サガが倒れるのも仕方ない。
デスマスクはそう思い、キッチリとセットされた自身の前髪をかき上げた。
