カノン×テティス
騒がしさが静まり、訪れる静寂。
何も音を発しないその部屋で、入り口の扉に背を預けたままテティスは蹲っていた。
数時間、半日……いや、それ以上だろうか。
時間の感覚が無くなる程度の間、彼女は一人閉じ籠っている。
「テティス」
ドキリとした。
聞こえる筈がないと思っていた、聞きたかった、聞きたくなかった声が扉を一枚挟んだ場所から響く。
ノックの音にまた海将軍の誰かだろうとは考えていた。
だが何故、よりにもよってこの人なのだろう。
「……カノン様……」
外に漏れぬよう蚊の鳴くような呟きが溢れる。
わざわざ私室まで足を運んでくれたのだ。
会いたい。
今すぐ邪魔な扉を開け放ってしまいたい。
何も考えず、その胸に飛び込んで行きたい。
そしてそのまま声の限り泣き叫んでしまえたなら、どんなに良いだろう。
しかし、テティスには出来なかった。
一つ行動を起こせば解決してしまう、このもどかしい距離が今は堪らなく遠く感じる。
ごめんなさい。と、どうして。
心を埋め尽くす言葉は容赦なく彼女を切り裂いていく。
頭では理解しているのに、何故こうも心とは扱いにくく矛盾に満ちているのか。
胸中に渦巻く黒いものがテティスは恐ろしくて仕方なかった。
可能性を想像していなかった訳ではないのだ。けれど自分の目で見る機会がなく、強く意識することもなかった。
彼の年齢や容姿を考えれば何ら不思議なことでなく、寧ろ当然のことだとテティスも思う。にもかかわらずあの時、この目で確かめるまでそんな事実はないと思い込んでいた。
それはある意味でカノンが気を使ってくれていたのかも知れない。
しかし寂しいと思ってしまった。
どうしようもなく辛いと、情けないと思ってしまった。
その日、彼女が街に居たのは本当に偶然のことだ。
雑誌に掲載されていた小物を取り寄せたいと海将軍達に相談したところ、自分で実物を見て決めた方が良いと助言を受けたのである。
「写真と実物じゃ、かなり差があったりするからなぁ」
そう言いながら、ぽんぽんと頭を撫でられ納得した彼女は次の休暇に街へ向かった。
一人で出掛けるつもりだったが、心配したクリシュナとカーサの計らいでイオとアイザックが同行してくれている。
「どれも素敵で迷ってしまいますね!」
くるりとスカートを翻してはしゃぐテティスにイオはニコニコと笑顔を向けた。
「ゆっくり決めれば良い。時間は沢山あるからな」
珍しく年長者の顔を見せた彼にアイザックは少々目を丸くする。それに気付かないイオはテティスの手を引っ張り、ショーウィンドウの前へと連れて行った。
「こういうのは?」
普段海底では見かけない煌びやかな雑貨や装飾。着飾って立ち並ぶマネキン。そのどれもに人魚姫は瞳を輝かせる。
そうして二、三時間。あちこち歩き回り、目的の物以外も袋いっぱいに買い込んだ彼らは近くのカフェで休んでいた。
「なかなかの量だな……」
「すみません……お二人に荷物持ちなんてさせてしまって……」
しゅん、と小さくなるテティスにイオは明るく気にするなと手を振った。
「元々そのつもりでついて来たからな」
微笑みながらアイザックも頷けば、ほっとしたテティスの表情が和らぐ。
そのまま談笑を続けている内に注文していた軽食とドリンクも届き、食べ盛りの少年達は黙々とそれらを胃袋へ運び入れていった。
食べ方や表情の違いを微笑ましく眺めつつ、テティスは傍に置いたショッパーの中身に想いを馳せる。
(着るの楽しみだなぁ……おろすのいつにしよう?)
目に留まった瞬間、これはと思った。
いつも着ているようなガーリー系のワンピースではなく、カジュアルなパンツスタイル。
フリルの付いたパフスリーブのブラウスとスキニーパンツ。
オープントゥでミドルヒールのパンプス。
この出立ちで彼の人の前に立ったなら、「珍しい格好だな」と目を丸くするに違いない。同時に「似合っているぞ」と頭を撫でようとする姿も想像に容易かった。
けれど少しは気付いてくれるだろうか。
普段より幾分大人に見える衣装とメイクを施して眼前に立ったなら。
もう常識の違いに困らせて、世話を焼かれていた子供ではないのだと。
まだ大人とは呼べずとも成長しているのだと。
口に出せば、きっと彼の人は何とも言えない顔をして困り果ててしまうだろう。だからテティスからはまだ何も言わない。しかし確実にその時は来る。
もう少し大人になって、隣に立ちたいと望みを口に出来るようになった時。その時は遠慮なく想いの丈をぶつけるのだ。どれほど大きな存在か。大切な人か。
スタートラインに立ったなら、何を言われようともう手加減するつもりはなかった。
ふふ、と一人楽しげに笑う紅一点に男二人は首を傾げ、肩を竦める。
と、視線を外へ向けたアイザックが驚きに声を上げた。
「海龍……?」
「ん?」
「海龍様?!」
思わぬ名前が出てイオとテティスはテーブルに身を乗り出す。
すると窓の向こうに見慣れた藍色の長髪が見えた。人並外れたあの容貌を見間違えるものか。そこにいたのは双子座を冠する双子の兄の方ではなく、彼らがよく知る海将軍筆頭の海龍、カノンであった。
「こんなところで何して……」
「っ!!」
鉢合わせたことに対する疑問が浮かんだ次の瞬間、三人は目に入った光景に言葉を失わざるを得なかった。
カノンは隣に立つ女性の肩に手を回し、穏やかな笑みを浮かべている。
時折女性の髪や頬を触るなど、随分親しげに見えた。否、仲睦ましげに寄り添って歩く姿はどう考えても恋人同士のそれだ。
ガラスを隔てた場所から他の海闘士に見られているなど、当人は考えてもいないのだろう。
人混みの多さと距離からか、カノンは視線に気付くこともなく、そのまま女性と何処かへ立ち去った。
暫しの静寂を挟み、イオとアイザックが恐る恐るといった様子でテティスへ視線を向けてくる。
けれどテティスは何も言葉を返すことは出来ず、二人もまた言葉に瀕して黙り込んでしまった。
その後どうやって海界に戻ったのかよく覚えていない。
心配するイオやアイザックといくらか言葉を交わして自室に入った後、テティスは扉に鍵を掛けて閉じ籠った。
話を聞いて心配してくれたらしい他の海将軍達も幾度か様子を見に来たが、テティスはその誰にも応えることはしなかった。
上官である七将軍に対して全く不敬甚だしいが、今は誰とも話したくない。
だというのに、海将軍筆頭の地位にある男までもが自らやって来てしまった。
「眠っているのか?」
普段のテティスならば、彼が訪ねれば直ぐに応えて扉を開く。返事すらしない彼女のことを不審に思っているのだろう。
カノンは立ち去ろうとしなかった。
これ以上は、とテティスは両手で耳を塞いだ。
そして待っていても出て来ないことを悟ったのか、カノンが呆れたように息を吐くのが気配で分かった。
やっと行ってくれる。
もう行ってしまう。
反する感情が心で渦を巻いた。
「ったく……強情だな」
聞こえない筈の声が聞こえた。
いや、聞こえたと言うよりも頭に響いたと言う方が正しい。
思わず手に入れていた力が抜ける。同時にばさっと衣擦れの音がした。そして扉が軋むような音と共に先ほどまでより近くから男の声が聞こえる。
「持久戦はあまり好かないんだが」
わざわざ冷たい廊下にしゃがんで、扉にもたれかかっているのだと理解するまで僅かな間があいた。
「お前が音を上げて出て来るまでここに居てやる」
ニヤリと口角を上げ、いつものように笑っていることなど見なくとも分かる。
扉越しであるのに、暖かさが伝わってくるようだった。
じんわり熱くなる目頭から涙が溢れ落ちぬよう力を籠める。
「なぁ、テティス」
「っ! ……ふっ……うぅ……」
薄い扉一枚を挟み、背中合わせの状態で二人蹲る。
何も言わなくてもいいと言わんばかりに優しく名を呼ばれて、込み上げるものを押さえられはしなかった。
「カノンさまっ……!」
声が震えた。
出て来るのは嗚咽と、扉を隔てて座り込む人の名前だけ。
聞こえているのかは分からない。
だが彼には、テティスの想いは分からずとも感情が暴れてどうしようもないことは分かるのだろう。
力強い小宇宙が身体を包んでくれている気がしてテティスは抱えた膝に一層顔を埋めた。
何も音を発しないその部屋で、入り口の扉に背を預けたままテティスは蹲っていた。
数時間、半日……いや、それ以上だろうか。
時間の感覚が無くなる程度の間、彼女は一人閉じ籠っている。
「テティス」
ドキリとした。
聞こえる筈がないと思っていた、聞きたかった、聞きたくなかった声が扉を一枚挟んだ場所から響く。
ノックの音にまた海将軍の誰かだろうとは考えていた。
だが何故、よりにもよってこの人なのだろう。
「……カノン様……」
外に漏れぬよう蚊の鳴くような呟きが溢れる。
わざわざ私室まで足を運んでくれたのだ。
会いたい。
今すぐ邪魔な扉を開け放ってしまいたい。
何も考えず、その胸に飛び込んで行きたい。
そしてそのまま声の限り泣き叫んでしまえたなら、どんなに良いだろう。
しかし、テティスには出来なかった。
一つ行動を起こせば解決してしまう、このもどかしい距離が今は堪らなく遠く感じる。
ごめんなさい。と、どうして。
心を埋め尽くす言葉は容赦なく彼女を切り裂いていく。
頭では理解しているのに、何故こうも心とは扱いにくく矛盾に満ちているのか。
胸中に渦巻く黒いものがテティスは恐ろしくて仕方なかった。
可能性を想像していなかった訳ではないのだ。けれど自分の目で見る機会がなく、強く意識することもなかった。
彼の年齢や容姿を考えれば何ら不思議なことでなく、寧ろ当然のことだとテティスも思う。にもかかわらずあの時、この目で確かめるまでそんな事実はないと思い込んでいた。
それはある意味でカノンが気を使ってくれていたのかも知れない。
しかし寂しいと思ってしまった。
どうしようもなく辛いと、情けないと思ってしまった。
その日、彼女が街に居たのは本当に偶然のことだ。
雑誌に掲載されていた小物を取り寄せたいと海将軍達に相談したところ、自分で実物を見て決めた方が良いと助言を受けたのである。
「写真と実物じゃ、かなり差があったりするからなぁ」
そう言いながら、ぽんぽんと頭を撫でられ納得した彼女は次の休暇に街へ向かった。
一人で出掛けるつもりだったが、心配したクリシュナとカーサの計らいでイオとアイザックが同行してくれている。
「どれも素敵で迷ってしまいますね!」
くるりとスカートを翻してはしゃぐテティスにイオはニコニコと笑顔を向けた。
「ゆっくり決めれば良い。時間は沢山あるからな」
珍しく年長者の顔を見せた彼にアイザックは少々目を丸くする。それに気付かないイオはテティスの手を引っ張り、ショーウィンドウの前へと連れて行った。
「こういうのは?」
普段海底では見かけない煌びやかな雑貨や装飾。着飾って立ち並ぶマネキン。そのどれもに人魚姫は瞳を輝かせる。
そうして二、三時間。あちこち歩き回り、目的の物以外も袋いっぱいに買い込んだ彼らは近くのカフェで休んでいた。
「なかなかの量だな……」
「すみません……お二人に荷物持ちなんてさせてしまって……」
しゅん、と小さくなるテティスにイオは明るく気にするなと手を振った。
「元々そのつもりでついて来たからな」
微笑みながらアイザックも頷けば、ほっとしたテティスの表情が和らぐ。
そのまま談笑を続けている内に注文していた軽食とドリンクも届き、食べ盛りの少年達は黙々とそれらを胃袋へ運び入れていった。
食べ方や表情の違いを微笑ましく眺めつつ、テティスは傍に置いたショッパーの中身に想いを馳せる。
(着るの楽しみだなぁ……おろすのいつにしよう?)
目に留まった瞬間、これはと思った。
いつも着ているようなガーリー系のワンピースではなく、カジュアルなパンツスタイル。
フリルの付いたパフスリーブのブラウスとスキニーパンツ。
オープントゥでミドルヒールのパンプス。
この出立ちで彼の人の前に立ったなら、「珍しい格好だな」と目を丸くするに違いない。同時に「似合っているぞ」と頭を撫でようとする姿も想像に容易かった。
けれど少しは気付いてくれるだろうか。
普段より幾分大人に見える衣装とメイクを施して眼前に立ったなら。
もう常識の違いに困らせて、世話を焼かれていた子供ではないのだと。
まだ大人とは呼べずとも成長しているのだと。
口に出せば、きっと彼の人は何とも言えない顔をして困り果ててしまうだろう。だからテティスからはまだ何も言わない。しかし確実にその時は来る。
もう少し大人になって、隣に立ちたいと望みを口に出来るようになった時。その時は遠慮なく想いの丈をぶつけるのだ。どれほど大きな存在か。大切な人か。
スタートラインに立ったなら、何を言われようともう手加減するつもりはなかった。
ふふ、と一人楽しげに笑う紅一点に男二人は首を傾げ、肩を竦める。
と、視線を外へ向けたアイザックが驚きに声を上げた。
「海龍……?」
「ん?」
「海龍様?!」
思わぬ名前が出てイオとテティスはテーブルに身を乗り出す。
すると窓の向こうに見慣れた藍色の長髪が見えた。人並外れたあの容貌を見間違えるものか。そこにいたのは双子座を冠する双子の兄の方ではなく、彼らがよく知る海将軍筆頭の海龍、カノンであった。
「こんなところで何して……」
「っ!!」
鉢合わせたことに対する疑問が浮かんだ次の瞬間、三人は目に入った光景に言葉を失わざるを得なかった。
カノンは隣に立つ女性の肩に手を回し、穏やかな笑みを浮かべている。
時折女性の髪や頬を触るなど、随分親しげに見えた。否、仲睦ましげに寄り添って歩く姿はどう考えても恋人同士のそれだ。
ガラスを隔てた場所から他の海闘士に見られているなど、当人は考えてもいないのだろう。
人混みの多さと距離からか、カノンは視線に気付くこともなく、そのまま女性と何処かへ立ち去った。
暫しの静寂を挟み、イオとアイザックが恐る恐るといった様子でテティスへ視線を向けてくる。
けれどテティスは何も言葉を返すことは出来ず、二人もまた言葉に瀕して黙り込んでしまった。
その後どうやって海界に戻ったのかよく覚えていない。
心配するイオやアイザックといくらか言葉を交わして自室に入った後、テティスは扉に鍵を掛けて閉じ籠った。
話を聞いて心配してくれたらしい他の海将軍達も幾度か様子を見に来たが、テティスはその誰にも応えることはしなかった。
上官である七将軍に対して全く不敬甚だしいが、今は誰とも話したくない。
だというのに、海将軍筆頭の地位にある男までもが自らやって来てしまった。
「眠っているのか?」
普段のテティスならば、彼が訪ねれば直ぐに応えて扉を開く。返事すらしない彼女のことを不審に思っているのだろう。
カノンは立ち去ろうとしなかった。
これ以上は、とテティスは両手で耳を塞いだ。
そして待っていても出て来ないことを悟ったのか、カノンが呆れたように息を吐くのが気配で分かった。
やっと行ってくれる。
もう行ってしまう。
反する感情が心で渦を巻いた。
「ったく……強情だな」
聞こえない筈の声が聞こえた。
いや、聞こえたと言うよりも頭に響いたと言う方が正しい。
思わず手に入れていた力が抜ける。同時にばさっと衣擦れの音がした。そして扉が軋むような音と共に先ほどまでより近くから男の声が聞こえる。
「持久戦はあまり好かないんだが」
わざわざ冷たい廊下にしゃがんで、扉にもたれかかっているのだと理解するまで僅かな間があいた。
「お前が音を上げて出て来るまでここに居てやる」
ニヤリと口角を上げ、いつものように笑っていることなど見なくとも分かる。
扉越しであるのに、暖かさが伝わってくるようだった。
じんわり熱くなる目頭から涙が溢れ落ちぬよう力を籠める。
「なぁ、テティス」
「っ! ……ふっ……うぅ……」
薄い扉一枚を挟み、背中合わせの状態で二人蹲る。
何も言わなくてもいいと言わんばかりに優しく名を呼ばれて、込み上げるものを押さえられはしなかった。
「カノンさまっ……!」
声が震えた。
出て来るのは嗚咽と、扉を隔てて座り込む人の名前だけ。
聞こえているのかは分からない。
だが彼には、テティスの想いは分からずとも感情が暴れてどうしようもないことは分かるのだろう。
力強い小宇宙が身体を包んでくれている気がしてテティスは抱えた膝に一層顔を埋めた。
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