カノン×テティス

【Side アイザック】
かつての修行地で穏やかな時間を過ごし、ふわふわと浮ついた心持ちでアイザックは海底神殿に戻った。
天に広がる海が視界に入ると、流石に気の抜けた顔は晒すまいと背筋を伸ばすが、辺りには人影もない。
あまりの静けさに己の吐息さえもが反響する気がした。
かつて過ごしたシベリアの地と、現在のアイザックが在る海界。
聖戦が終わり、失われた命が戻った今、アイザックは2つの居場所に対してどこか似ていると思えるようになった。
広大で、厳しくも暖かく見守ってくれる大地と海。そしてその奥に佇む、帰る場所。
変わるものだな、とアイザックは思う。
幼い頃からずっと、地上の平和のために女神の聖闘士となるのだと修行に勤しんだ。
やがてクラーケンに導かれて神殿に辿り着き、新たな使命と同胞を得た。己の宿星を認めたアイザックは、海闘士ではないアイザック個人としての言葉を友や師と交わすことは二度と出来ないだろうと悟りながら戦いに身を投じた。
そして友に敗れ、命を散らしながらも神々の奇跡により現世に舞い戻った。
敵対していた闘士たちは神々の取り決めの下に交流を許され、アイザックは師や弟弟子との再会が叶った。
穏やかで平和な時。得難い時間だと心から思う。
いつの日か、戦いの火蓋が切られたなら、偉大なる海の王が決断したならば。クラーケンの海将軍としてアイザックは喜んで前線に立つだろう。この身が果てるとも。再び友や師と袂を分かつことになるのだとしても。
なればこそ、今はどちらの居場所も大切にしていたいと考える。

この時間ならば海将軍たちは執務室に集まっているだろうとポセイドン神殿に向かう道すがら、人影を見つけたアイザックは立ち止まった。
海闘士の証である鱗衣を纏って何事か話し込んでいるのは黄金聖闘士の肩書きも持つ海龍のカノンと、上層部の紅一点、人魚姫マーメイドのテティスである。
海将軍筆頭の海龍がいるのならば報告の手間が省ける。帰還したと声を掛けるために腕を上げるが、中途半端な位置で動きを止めてしまい、不格好な姿を晒すことになった。
――お邪魔虫とは言わない。別段、アイザックが間に入ったとして二人は何も言わずに笑うだろう。
ここでも、きっと暖かな「おかえり」が聞けるだろう。
年齢不相応な子供じみた笑い方で、カノンは絡んでくるに違いない。乱暴に頭を撫でる裏で、年少の海将軍たちを常に気にかけている最年長だ。鬱陶しいと腕を払えば、どこか寂しそうな顔をするのも知っている。
だからついつい、撫でさせてやろうと思ってしまう……こともある。許しすぎると調子に乗るので、それはそれで鬱陶しいとアイザックは思っていた。
正直イオが構えとばかりに突進していく気持ちも分からなくはない。どんな過去を、罪を背負っていようと、あの男は七将軍の兄で、父なのだから。
恐らくイオがこの場にいたなら何も考えずに割って入るだろう。
カーサやソレントなら丁度良いタイミングを見つける。
バイアンやクリシュナなら自然な流れで会話に参加する。
けれど、自分は……どれも出来る自信がなかった。
気を遣う必要などないと分かっていても、躊躇してしまう。
二人の表情に。
本人たちにそんな意識はないのだとしても。
……ああ、ほら。今もまた、カノンは他の海闘士の前では決してしない顔をテティスに見せている。
自覚があるのかないのか。恐らくはないのだろうが。
テティスの方もカノンに対してだけは特別な感情を覗かせる。
お互いに何故気付かないのかと不思議でならない。双方相手が自分に向ける想いは親子か兄妹のような意味であると思っているのだから。
カノンが優しい顔をしてテティスの頭を撫でている。女として見ている訳がないなど、どの口が言うのか。

目は口ほどにモノを言う。

その言葉を文字通り投げつけてやりたい。慕わしい想いを乗せ、美しいかんばせを染めている女をちゃんと見るべきだ。どう見たって答えは一つだろうに。
色眼鏡をかけて、そんな簡単なことに気付かないから実の兄以外からも愚弟と呼ばれるのだ。
愚かしくも慕わしい兄貴分へ、今日もアイザックは溜息を吐く。
せっかく平和な時間であるのだから素直になればいいのに。常々「愛とは尊きものだ」と語る師の顔を思い出しながら、アイザックは迂回して神殿に向かうことを決めた。

【Side カノン】
実家のような、という比喩はこういうことかと海界へ戻る度に実感が湧く。
本来はその感情を聖域に向けるべきなのだろう。
兄や好敵手、戦友、女神に想いを馳せるが、彼の聖地には独特の空気感がある。
カノンはそれが幼い頃より苦手だった。
聖闘士ととして生きたい思いはある。兄たちのようにと焦がれたことがないとは言わない。
一度は死した身で、一度ならず女神の慈悲を賜った。和解した兄とこの先を過ごすこと、共に贖罪の道を探すことも考えないではない。
しかし13年もの間、偽りの立場で過ごしたこの海から離れがたく思う自分がいる。
「偽りも何もあるものか。其方がまことの海龍でなくて、誰がその地位にあるべきと思うのだ」
どのような罰も受ける覚悟で神前に参じると、広大な海を統べる王は揚々と笑みを浮かべていた。
「其方や小娘が何を望もうと其方が我が臣であることは揺らがぬ」
海将軍筆頭、海龍のカノンよ。
そう名を呼ばれた瞬間の肌が粟立つような感覚。同時に胸に沸き起こった昂揚を生涯忘れはしないだろうとカノンは思った。

「海龍、仕事終わった?」
神殿の執務室から出た途端、待ち構えていたようにイオが飛び付いてきた。
すっかり闘士らしく成長したと思っていたが、平時となれば幼い頃から変わらぬ行動をとる男にカノンは呆れと安堵の溜息を吐く。長年の裏切りと大罪を詳らかにした場で最も切り替えが早かったのもイオだった。

「海龍はポセイドン様のために戦う気はないのか?」
実力も年齢も遥かに下の男から、真っ直ぐに向けられる視線をカノンは眩しく思った。けれど愚直な問い掛けから目を逸らしてはならない。彼らの輪の中にあることを海皇は望むのだから。
「罪を贖う為に身命を尽くす覚悟はある。だが、俺はポセイドンかアテナのどちらかを選べと言われても答えられん」
その時が来たなら、この身を神に捧げることになるだろう。
純然たる事実を言葉にした瞬間、頬に衝撃が走る。鈍い痛みに数歩後退り、次の衝撃に備えて前を見据えた。しかし2撃目が繰り出される様子はなかった。
小宇宙の込められていないただの拳。
それでは自身も痛かっただろうにイオはカノンを睨みつけるだけでそれ以上何もする気はないらしかった。
「……もう良いのか?」
他の海闘士たちが満足するまで殴られる程度の覚悟はしていた。しかしイオはそんなカノンを鼻で笑う。
「別に殴ったって解決しないだろう。それにこっちだって痛いし、ピンポイントに小宇宙込めるとか面倒臭いからしない」
あんたを殴りたいやつがいるならそれはそれで止めないけど。
そう言って他の海将軍たちに視線を向けたイオにつられてカノンも周囲を見る。
呆れた顔をする者。安心したように微笑んでいる者。納得はしていないが、妥協点であるという態度の者。
「ま、旦那にいなくなられちゃ困るってのも確かだしな」
あーあー、と嫌そうにカーサが頭をかいた。
「せいぜい働いてくれや、俺らが楽できるようにな」
そう言ってニヤッと笑う顔に言葉ほどの棘はなく、カノンは肺の中の息を全て吐き出したくなった。
自分にも「気まずい」なんて感情があったのだと自嘲する。
「……海龍様」
聞こえた女の震え声にカノンは視線を動かした。
以前の日常と同じように騒がしくなり始めた海将軍たちの声が少し遠くなる。
意識を向けられたことに気付いたらしく、彼女――テティスは随分と嬉しそうな顔をして駆け寄って来た。
「これからもよろしくお願いします」
瞳を潤ませながら、にこりと笑う少女に言葉を失う。
かつて人との繋がりを持たなかった人魚に全てを教え、総てを奪った。その事実が今更ながらカノンを突き刺す。
「……別にカノンで良いぞ」
自分には敬われる資格などないと告げると、きょとんと幼子のような顔をしてテティスは言った。 
「海龍様は海龍様ですよ。……何があっても」
ふわりと笑って、最後に付け加えられた言葉が何故か耳に残った。
カノンはそうか、と返すのが精一杯で、誤魔化すようにテティスの頭に手を伸ばした。

……そんな会話をした日から、そう時は経っていない。
けれど随分前のようにも、つい昨日のことのようにも思う。
「海龍。バイアンと組手しようか、って話してたんだけど見てくれない?」
「悪いが見廻りに行かねばならんのでな」
また今度見てやる、と明るい色の髪を少し雑にかき混ぜる。
不服そうに唇を尖らせつつ、イオは絶対だからな、とカノンに指を突き付けた。ふっと笑って頷いていれば、回廊の向こうからバイアンの声が聞こえてくる。
「今行く! じゃあな、海龍シードラゴン
手を上げて軽やかに走り去るイオを見送り、カノンは自らが守護する北大西洋の柱へ向かった。

見廻りついでに北氷洋の柱へ届けてやるか、と書類を持ち出した少し前の己をカノンは恨んだ。
闘衣を纏わず、私服で並ぶクラーケンのアイザックと人魚姫マーメイドのテティス。どこからどう見ても年頃の男女だ。
カノンとてまだまだ若いつもりであるが、一回りも歳下で青い春を体現するように談笑する二人の邪魔をするのは流石に気が引けた。
この間まで見た目はそれなりでも中身は子供だったのにな、と岩肌に背中を預けながら人魚姫に視線を向ける。
願いと共に導かれた娘には、海で生きる者としての知識はあったが人として過ごすにはあらゆるものが足りなかった。
それらを教え、補ったのはカノンであり、幼くして海底にやってきたイオだった。
年齢は13しか離れていないが、正直妹というよりは娘のようなものだと思っている。
そのテティスが同世代の異性と仲睦まじくしているのは喜ばしくもあり、どこかむず痒くもあった。
世の父親というのは皆このような複雑な感情を抱いているのだろうか。
カノンは大きく息を吐き出し、岩場の影にどかりと音を立てて座り込んだ。
片膝を立てて頬杖をつき、天の海を見上げる。
……何故だか今日は一段と空が遠い気がした。


【Side テティス】
生きる場所と定めた海底の神域。
何よりも大切な、大好きな人たちのいる場所。
失ったことは哀しかった。
偽りであったことが辛かった。
けれど過ごした時間は偽りではなく、気持ちは揺らがない。
戻って来れたことが、帰って来てくれたことが何よりも嬉しかった。
だからそれだけでいい。それ以上は望まない。望めない。彼の人を苦しめたい訳ではないのだから。

コツコツと足音が回廊に反響している。
神とは比べるべくもないが、暖かで力強い小宇宙がその場に満ち、テティスはそれまで軽やかだった口を閉ざした。
お喋りの好きな十代の女の子から、七将軍を補佐する人魚姫へと意識を切り変える。
「テティス」
呼ばれる度、高鳴る鼓動と集まる熱に顔が赤くなっていないだろうかと不安に思う。
独特のバリトンがもたらす心地よい響きに崩れそうな表情筋を引き締め、たおやかな笑みを意識して作る。そして呼びかけに応えるため、自分よりも頭一つ以上背の高い男を見上げた。
「はい。海龍シードラゴン様、どうなさいましたか?」
ああ、どうかこの心が見えていませんように。
隣にいる隻眼のクラーケンが、ツ、とテティスを見る。
もの言いたげな表情には素知らぬ顔をして、彼女は海将軍筆頭の問いに淀みなく答えていった。
「すまん、助かった。礼を言う」
ふっと笑ったカノンはテティスの頭をぽんぽんと叩いて踵を返した。
最近はそんな小さな触れ合いがとても嬉しいと思う。幼い頃はよく膝に乗せてもらったり、背中に戯れついて困らせていた。もしも今のテティスが同じ行動をとったところで、カノンは怒ったりはしないだろう。
「まだまだガキだな」
そんなことを言って、面倒臭そうに溜息を吐いて、呆れつつもきっと好きにさせてくれる。甘やかしてくれる。
けれどそれはテティスの願う関係から遠退くことであるともう知っている。
知っているが、時折それで良いのではないかと問いかけてくる自身もいた。
叶いようのない想いであるとは理解しているつもりだ。なのに、もしかしたらという希望が消えない。かと言って消してしまえるかというと答えは否だった。
だから今は何も告げない。
蓋をするとは言わないが、わざわざ言の葉を漏らす必要もない。
「テティス」
「なんでもないですよ。クラーケン様」
最年少の海将軍はそれ以上口を開かなかった。
アイザックはずっと、テティスと秘密の鍵を共有していながら、その扉を開け放たず閉めたままにしてくれている。それはきっと彼だけではなく、他の海将軍たちもそうなのだろう。
同時にそれほど自分は分かりやすいのだろうか、という不安と何故カノンは気付いてくれないのだろうかという不満が湧き出てくる。
「テティス」
再度名を呼ばれ、テティスはアイザックに視線を向けた。
目が合うと1歳下の上官はなんとも言えない表情でお茶に誘ってくれた。
「気分転換も必要だろう?」
テティスの思考はやはり筒抜けであるらしい。
これはまずい、と両手で頬を覆う。しかしカノンや他の海将軍と顔を合わせるよりは、とテティスは有り難くその申し出を受けることにした。
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