CPなしの小説
いつの日のことだったか。
ただ、暑い夏の日。それだけは覚えている。
偶々一人で森の奥深くへと入り込んだ。
歩いている内に喉の渇きを覚え、水の音がする方へ向かう。小川のある場所へ辿り着くと先客が居た。
「あ……」
水面を見つめる蒼い瞳。
さらさらとその人の背を覆う青銀。
時が止まったように音が消え、トレミーの身体は動かなくなった。
どのくらいそうしていたのだろう。
スッと振り向いたその人と目があった。
途端に身体が熱を持つ。木々の隙間から照りつける太陽のせいだろうか。トレミーは急な身体の変化に戸惑い、それ以上視線を合わせていられなくなる。
クスっ……
その人が微笑んだことが気配で分かった。
すると何故か興味が出てきた。もう一度その人の顔が見たいと思った。
トレミーはゆっくり顔を上げ、再びその景色を視界におさめる。
そこには、陽の光に照らされながら優しく微笑むその人が居た。
「あ……あなたは女神 ですか?」
口をついて出たのはそんな言葉だった。
冷静に考えてみればそんな筈はないのに。
聖域で女神 を崇拝しない者はほぼ皆無である。
気分を害しただろうかと不安になり、今度は体温が下がったのが分かった。
しかし、その人は困った風に笑うだけだ。
白い肌と、長い睫毛。
綺麗だと思った。
他の言葉が浮かばないほどに。
纏う雰囲気も、表情も。総てが。
こんな人がいるのか、と幼心にそう思った。
何を考えていたか顔に出ているのだろう。
初めてその人は言葉を発した。
「君の期待に添えなくて申し訳ないが、私はただの人で……何より、男だよ」
二度目の衝撃である。
男。自分や同期や、指導官と同じ男。
とても信じられなかった。
確かに少女と見間違わんばかりの容姿を持った者も同期に居る。
しかしこの人は彼らとは全く違った。
勿論歳が違うのだから当然なのだが、何と言えば良いのだろう。根本的に違うのだ。
言われてからよくよく見れば、確かに男性だった。
がっしりした体躯も、よく通る低い声も、表情も。
けれど、本当に男の人なのか、とも思う。そんな不思議な人だった。
「あなたは、だれですか?」
何ですか?と聞きたい心境ではあった。とても同じ人間とは思えない感覚があった。
しかしそんな失礼極まりない質問で機嫌を損ねたり、嫌われたくないという感情が勝った。
もっとこの人を知りたい。近くに行きたいと思った。
……とはいえ現在の物理的な距離を縮めるのは何となく憚られたのだが。
「…………私は誰なのだろうな……正直、自分でも分かりかねている」
そう言うと、彼は哀しげに微笑んだ。
どうしてそんな顔をするのだろう。
トレミーは何故か胸の辺りが苦しくなる。
「名前を、教えてもらえませんか……?」
意を決した言葉だった。
握り締めた手に汗をかいているのが分かる。
沈黙が続き、教えてはもらえないのだ。聞いてはいけなかったのだ、と固く目を閉じた。
どうしよう、どうしよう。
そればかり頭の中でぐるぐるする。
「……サガ」
「……?」
ふわりと香った、とても安心する匂い。
ひだまりのような……衣に焚き染めた香の匂いだろうか。
それとも幻惑か何かか。答えは分からない。
けれど頬に触れられた暖かい手に自然と瞼は開き、視線が交じり合う。
思っていたよりも近くにその人の顔があった。
驚きに思わず後ずさると、その人は少し目を丸くしていた。
恥ずかしくてまた俯きそうになるが、刹那。先程までとは違う、明るい微笑みが見え、釘付けになった。
「驚かせてすまない。……私の名はサガ。君は?」
自分の名を聞かれているのだ、と理解するまでにどのくらいかかったのか。
「と、ととっ、トレミー!……です……」
勢い余っておかしな言い方になってしまった。
折角聞いてくれたのに。消えてしまいたいくらいには恥ずかしい。
けど彼は気にした風ではなかった。
「そうか、トレミー。良い名前だね。」
ニコリと笑うサガの後ろに光が差して見える。
何でもない名前が、サガが口にするだけでとても特別なものに思えた。
嬉しかった。名を呼んでくれることが。
普通の子供に接するように、頭を撫でてくれることがとても心地良かった。
「サガと呼んでもいいですか?」
「ああ、勿論」
けれど今日私と会ったことは他の人には内緒にしてくれないかい?
そう言われれば、まずは疑問に思うだろう。しかしトレミーにはそんな思いは浮かばなかった。
至極当然のような、いや、単に今日の出来事を独り占めしていたいと思っただけだ。
「言いません。誰にも……僕とあなただけの……」
秘密、とは流石に言えなかった。
だがサガはそれで理解したようである。
「ふふ、ありがとう。……大事になると怒られてしまうからね。」
怒られる?サガが?そんなことあってはいけない。絶対に守らなければ。
少し青くなった後、妙な使命感に駆られたトレミーは表情を引き締めた。それを見たサガは穏やかに微笑む。
「君は優しいね」
かけられた言葉にトレミーは首を傾げる。
果たして彼にそんな風に評価してもらえるようなことをしただろうか。
思い当たる節はなく、寧ろ情けないばかりだった気しかしない。
しかし純粋に嬉しかった。サガに認めてもらえたような気がして、表情が緩むのを止められなかった。
ついさっき会ったばかりの人なのにどうしてかは分からない。けれど素敵な人だと思った。好きだ、と。そう思った。
きっと自分ではなくともそう思うに違いない。そう確信させるだけの何かを持った人だった。
「……君はとても素直な子なんだね」
何故、サガがそう言ったのかは分からない。
だが、どこか哀しそうなのは分かった。
「あ……」
どうして、と問い掛ける前に遠くから声が聞こえた。よく知る同期の声だ。
きっと姿の見えないトレミーを探しに来たのだろう。
まだサガと話をしていたい。そう思ったトレミーは迷った。
しかし、あまり心配を掛けるのも良くない。
呼ぶ声にはまだ答えず、声の方へと振り返る。
「……私はもう行くよ」
「え……?」
サガの方を見た時、其処にはもう彼の姿はなかった。
夢か幻だったのではないかと、そう思わせる程に。
彼が居た痕跡はなく、その後同じ場所に何度か足を運んでも再び会うことはなかった。
ただ、暑い夏の日。それだけは覚えている。
偶々一人で森の奥深くへと入り込んだ。
歩いている内に喉の渇きを覚え、水の音がする方へ向かう。小川のある場所へ辿り着くと先客が居た。
「あ……」
水面を見つめる蒼い瞳。
さらさらとその人の背を覆う青銀。
時が止まったように音が消え、トレミーの身体は動かなくなった。
どのくらいそうしていたのだろう。
スッと振り向いたその人と目があった。
途端に身体が熱を持つ。木々の隙間から照りつける太陽のせいだろうか。トレミーは急な身体の変化に戸惑い、それ以上視線を合わせていられなくなる。
クスっ……
その人が微笑んだことが気配で分かった。
すると何故か興味が出てきた。もう一度その人の顔が見たいと思った。
トレミーはゆっくり顔を上げ、再びその景色を視界におさめる。
そこには、陽の光に照らされながら優しく微笑むその人が居た。
「あ……あなたは
口をついて出たのはそんな言葉だった。
冷静に考えてみればそんな筈はないのに。
聖域で
気分を害しただろうかと不安になり、今度は体温が下がったのが分かった。
しかし、その人は困った風に笑うだけだ。
白い肌と、長い睫毛。
綺麗だと思った。
他の言葉が浮かばないほどに。
纏う雰囲気も、表情も。総てが。
こんな人がいるのか、と幼心にそう思った。
何を考えていたか顔に出ているのだろう。
初めてその人は言葉を発した。
「君の期待に添えなくて申し訳ないが、私はただの人で……何より、男だよ」
二度目の衝撃である。
男。自分や同期や、指導官と同じ男。
とても信じられなかった。
確かに少女と見間違わんばかりの容姿を持った者も同期に居る。
しかしこの人は彼らとは全く違った。
勿論歳が違うのだから当然なのだが、何と言えば良いのだろう。根本的に違うのだ。
言われてからよくよく見れば、確かに男性だった。
がっしりした体躯も、よく通る低い声も、表情も。
けれど、本当に男の人なのか、とも思う。そんな不思議な人だった。
「あなたは、だれですか?」
何ですか?と聞きたい心境ではあった。とても同じ人間とは思えない感覚があった。
しかしそんな失礼極まりない質問で機嫌を損ねたり、嫌われたくないという感情が勝った。
もっとこの人を知りたい。近くに行きたいと思った。
……とはいえ現在の物理的な距離を縮めるのは何となく憚られたのだが。
「…………私は誰なのだろうな……正直、自分でも分かりかねている」
そう言うと、彼は哀しげに微笑んだ。
どうしてそんな顔をするのだろう。
トレミーは何故か胸の辺りが苦しくなる。
「名前を、教えてもらえませんか……?」
意を決した言葉だった。
握り締めた手に汗をかいているのが分かる。
沈黙が続き、教えてはもらえないのだ。聞いてはいけなかったのだ、と固く目を閉じた。
どうしよう、どうしよう。
そればかり頭の中でぐるぐるする。
「……サガ」
「……?」
ふわりと香った、とても安心する匂い。
ひだまりのような……衣に焚き染めた香の匂いだろうか。
それとも幻惑か何かか。答えは分からない。
けれど頬に触れられた暖かい手に自然と瞼は開き、視線が交じり合う。
思っていたよりも近くにその人の顔があった。
驚きに思わず後ずさると、その人は少し目を丸くしていた。
恥ずかしくてまた俯きそうになるが、刹那。先程までとは違う、明るい微笑みが見え、釘付けになった。
「驚かせてすまない。……私の名はサガ。君は?」
自分の名を聞かれているのだ、と理解するまでにどのくらいかかったのか。
「と、ととっ、トレミー!……です……」
勢い余っておかしな言い方になってしまった。
折角聞いてくれたのに。消えてしまいたいくらいには恥ずかしい。
けど彼は気にした風ではなかった。
「そうか、トレミー。良い名前だね。」
ニコリと笑うサガの後ろに光が差して見える。
何でもない名前が、サガが口にするだけでとても特別なものに思えた。
嬉しかった。名を呼んでくれることが。
普通の子供に接するように、頭を撫でてくれることがとても心地良かった。
「サガと呼んでもいいですか?」
「ああ、勿論」
けれど今日私と会ったことは他の人には内緒にしてくれないかい?
そう言われれば、まずは疑問に思うだろう。しかしトレミーにはそんな思いは浮かばなかった。
至極当然のような、いや、単に今日の出来事を独り占めしていたいと思っただけだ。
「言いません。誰にも……僕とあなただけの……」
秘密、とは流石に言えなかった。
だがサガはそれで理解したようである。
「ふふ、ありがとう。……大事になると怒られてしまうからね。」
怒られる?サガが?そんなことあってはいけない。絶対に守らなければ。
少し青くなった後、妙な使命感に駆られたトレミーは表情を引き締めた。それを見たサガは穏やかに微笑む。
「君は優しいね」
かけられた言葉にトレミーは首を傾げる。
果たして彼にそんな風に評価してもらえるようなことをしただろうか。
思い当たる節はなく、寧ろ情けないばかりだった気しかしない。
しかし純粋に嬉しかった。サガに認めてもらえたような気がして、表情が緩むのを止められなかった。
ついさっき会ったばかりの人なのにどうしてかは分からない。けれど素敵な人だと思った。好きだ、と。そう思った。
きっと自分ではなくともそう思うに違いない。そう確信させるだけの何かを持った人だった。
「……君はとても素直な子なんだね」
何故、サガがそう言ったのかは分からない。
だが、どこか哀しそうなのは分かった。
「あ……」
どうして、と問い掛ける前に遠くから声が聞こえた。よく知る同期の声だ。
きっと姿の見えないトレミーを探しに来たのだろう。
まだサガと話をしていたい。そう思ったトレミーは迷った。
しかし、あまり心配を掛けるのも良くない。
呼ぶ声にはまだ答えず、声の方へと振り返る。
「……私はもう行くよ」
「え……?」
サガの方を見た時、其処にはもう彼の姿はなかった。
夢か幻だったのではないかと、そう思わせる程に。
彼が居た痕跡はなく、その後同じ場所に何度か足を運んでも再び会うことはなかった。
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