良亜美
「浦和くんってさ、優しいよね?」
教室から聞こえるクラスメイトの話し声。
「どしたの急に。」
特別親しい訳ではない同級生の口から親しい人間の名が聞こえたのだ。気にならぬ筈はない。話している当人には悪いと思いつつも、立ち止まった亜美は彼女たちの会話に耳を傾けた。
「今日の日直わたしなんだけどね? 黒板の上の方まで手が届かなくてさ……。」
「あー……だろうね。」
「ちょっと。今の間。てか視線。傷付くから。」
そういえば声の主はクラスの女子の中でも特に小柄な子だと思い至る。平均とは言わないからせめて150cmは欲しかった、というような会話をした記憶があった。
「あの先生めっちゃ上の方まで使うもんねー。」
「なのに絶対自分で消さないんだよね。消せなくはないけど、めんどくさい。」
なるほど確かに。黒板の上部をめいっぱいまで使われると、平均身長は超えている亜美も楽に消せるとは言い辛い。
10cm以上低い彼女なら結果は火を見るより明らかだ。
「でしょ? で、私が消せなくて飛び跳ねてたら……。」
「危ないから辞めなさい。」
のほほんと言い放たれた想像に難しくない光景。思わず亜美は小さく笑ってしまった。言ってくれたら手伝うのに、と思うのは彼女の友人ばかりではない。クラスの子なら誰だって快く引き受けてくれるだろう。
「だって自分の仕事だし、ってそうじゃなくて!」
「……その話と浦和がどう繋がんの?」
ああ、もしかして、と思った。優しい彼の事、困っている人を放っておくことはしないだろうから。
楽しそうな声で、それがね、と続けた彼女の言葉は、やはり予想を裏切らなかった。
「後ろからスッて、浦和くんが黒板消し取って全部消してくれたの!」
「うわ、イケメンかよ……。」
「あー、でも分かる。彼そういうとこある。」
例え見ず知らずの他人であったとしても、良は人を助ける事を躊躇したりはしない。クラスメイトなら尚更だ。
「そういや、あたしも前にプリント運ぶの手伝ってくれたわ。」
「優しいんだよね、浦和くんって。サラッとイケメンな事してくれるし。」
言われてみれば、と彼女たちからは似たような話が次々に出て来る。そう、彼は優しいし、格好良いのだ。
亜美の唇が誇らしげに弧を描いた。
「いつもは地味めで、そんなにカッコいいって訳じゃないんだけどねー。」
「結婚するならああいう人を選びなさい、って言われそうな感じ?」
「それ。」
軽い調子で交わされる言葉に他意はない。
そんな事は分かっている。
だが、女子学生特有の賑わい、とでも言えば良いだろうか。黄色い声に何故か胸の奥がざわついた。盗み聞きなど止めて立ち去るべきなのだろうが、どうにも足が動かない。
「浦和くんってさー、水野さん達とよく一緒にいるよね?」
唐突に己の名前を出されドキリとした。そういえば、良が同窓の男子生徒と共にいる姿を見ない。ただのクラスメイトでしかない彼女たちにもそう思われているのだから、考えるまでもないのだが、今の今までそんな事にも気付かなかった。
思っていた以上に、時間を共有出来る事に浮かれていたらしい。あまりの失態に愕然となる。
「そう、だね?」
「付き合ってるのかな?」
「何? まさか本気で狙ってるの?」
「ええ!? 違う違う!」
「えー?」
「怪しいよねー?」
「そういうんじゃないから!」
「あたしたち、友達じゃん?」
「だいじょーぶ。言い触らしたりしないから!」
「だから違うって!?」
……それ以上はとても聞いていられなかった。
彼に惹かれるのは、何も自分だけとは限らない。当たり前の事に思い至らなかったのだ。自惚れていたのか、それとも……。
校舎を出た亜美は中庭にあるベンチに力なく腰を下ろした。そうして一度肺の中の空気を全て吐き出す。
隣に佇む大きな木が枝を伸ばし、影を作っていた。頬を撫でていく風が、ゆっくりと思考の熱を冷ましてくれる。
これまで亜美は、恋人が自分以外の異性と居ると嫉妬心を露にするうさぎたちの心情を今一つ理解出来なかった。
しかし胸の中にもやもやと渦巻くこの感情が何かと考えれば、自然と合点はいく。特別親しい訳ではないにも関わらず、亜美は自分が良の恋人だと他の級友の前で彼女たちに宣言したくなった。
落ち着いて振り返れば自己嫌悪に浸りたくなる。
言った所で何の意味があるのか。ただの醜い、自己満足でしかない。……とは言え、他の女子に嫉妬する程度には良の事を好きなのだという事実も少し嬉しい。
「亜美さん。」
後ろから掛けられた声に肩が跳ねる。思考の海に沈んでいて人の気配に全く気が付かなかった。
恐る恐る振り向くと、いつもと同じように笑顔を向けてくれる良が居る。そして彼の隣には、不思議そうな表情をしたうさぎ 。
「……どう、したの?」
並んで立つ二人に心臓が大きく脈打つ。全くもってどうかしている。自嘲というより情けなさに吐き気がした。
「それはこっちの台詞だよ。声掛けても返事してくれないどころか、急に走ってどっか行っちゃうんだもん。」
心配になって探しに来たのだ、と言ううさぎに申し訳なさが先に立つ。何かあったのかと問い掛けてくれている彼女に自分は何を思った?
「ごめんなさい……。」
声は震えていた。それ以上言葉は続かない。
俯いてしまった亜美を、うさぎはどう思っただろうか。想像がつかないのは勿論だが、抱いた感情のあまりの黒さに知りたくないとも思ってしまう。
どうしたものかと思案しながら、ギュッと目を閉じた。直後、バシッという音が聞こえ、亜美は目を丸くする。
「じゃ、良くん、亜美ちゃんの事お願いね。」
「うさぎさん!?」
おもいっきり背中を叩かれ、よろけた良は当然抗議の声を上げた。しかし肝心のうさぎはと言えば、既に校舎への扉をくぐろうとしている。そして段差を上がった所で振り返り、大きく手を振って叫んだ。誰に聞かれるとも知れぬのに。
「亜美ちゃん! 恋人なんだから、たまにはワガママ言って甘えなきゃダメだよ!」
そう言ってウィンクを飛ばし、スキップでもしているのかというくらい軽い足取りで去って行ったお団子頭のプリンセス。
後に残された二人は顔を熟れさせる事しか出来ない。
どうしろと言うのか、という不満と、流石お見通しなのだな、という安堵が交互に顔を出した。
投下された爆弾をどう処理すべきか。考えあぐねる亜美の耳に、参ったな、という呟きが届いた。
無論、声の主は良である。そっと視線を上げると、恋人は空を仰いで頭を掻いていた。
何故だろうか、そんな彼の姿に、こちらを見て欲しいと思った。おもむろに腕を伸ばし、学生服の袖を引っ張る。釣られて下りて来た視線が確かに交わったのを確認して、亜美は立ち上がった。
「え……? あの……?!」
「ごめんなさい……少しだけ……。」
頭だけを恋人の胸に預ける。あまりした事の無い挙動に良は随分驚いているようで、触れている部分から焦りが音として伝わって来た。
「な、何かあったんですか?」
所在なさ気に身体の横にあった手が、そっと肩に置かれた。暫く亜美は黙ったままでいたが、やがて吹っ切れたように、良との触れ合いを解く。
「亜美さん?」
「何でもないの……ううん。何でもない、って訳じゃ、ないかな。」
心の中に渦巻いていたものは既に消えていた。
(たまには甘えなきゃダメだよ)
うさぎの言葉が蘇る。
迷惑では無いだろうか?
そんな事を考え、否定する為に首を振った。
きちんと伝えなければならない。きちんと伝えたい。
こんなにも大きな存在になっているのだ。傍に居るだけで安心出来る程。心が晴れるほどに。
意を決した亜美が口を開けば、初めはきょとんとしていた良も照れた仕草を見せ、最後には柔らかく微笑んでくれた。
教室から聞こえるクラスメイトの話し声。
「どしたの急に。」
特別親しい訳ではない同級生の口から親しい人間の名が聞こえたのだ。気にならぬ筈はない。話している当人には悪いと思いつつも、立ち止まった亜美は彼女たちの会話に耳を傾けた。
「今日の日直わたしなんだけどね? 黒板の上の方まで手が届かなくてさ……。」
「あー……だろうね。」
「ちょっと。今の間。てか視線。傷付くから。」
そういえば声の主はクラスの女子の中でも特に小柄な子だと思い至る。平均とは言わないからせめて150cmは欲しかった、というような会話をした記憶があった。
「あの先生めっちゃ上の方まで使うもんねー。」
「なのに絶対自分で消さないんだよね。消せなくはないけど、めんどくさい。」
なるほど確かに。黒板の上部をめいっぱいまで使われると、平均身長は超えている亜美も楽に消せるとは言い辛い。
10cm以上低い彼女なら結果は火を見るより明らかだ。
「でしょ? で、私が消せなくて飛び跳ねてたら……。」
「危ないから辞めなさい。」
のほほんと言い放たれた想像に難しくない光景。思わず亜美は小さく笑ってしまった。言ってくれたら手伝うのに、と思うのは彼女の友人ばかりではない。クラスの子なら誰だって快く引き受けてくれるだろう。
「だって自分の仕事だし、ってそうじゃなくて!」
「……その話と浦和がどう繋がんの?」
ああ、もしかして、と思った。優しい彼の事、困っている人を放っておくことはしないだろうから。
楽しそうな声で、それがね、と続けた彼女の言葉は、やはり予想を裏切らなかった。
「後ろからスッて、浦和くんが黒板消し取って全部消してくれたの!」
「うわ、イケメンかよ……。」
「あー、でも分かる。彼そういうとこある。」
例え見ず知らずの他人であったとしても、良は人を助ける事を躊躇したりはしない。クラスメイトなら尚更だ。
「そういや、あたしも前にプリント運ぶの手伝ってくれたわ。」
「優しいんだよね、浦和くんって。サラッとイケメンな事してくれるし。」
言われてみれば、と彼女たちからは似たような話が次々に出て来る。そう、彼は優しいし、格好良いのだ。
亜美の唇が誇らしげに弧を描いた。
「いつもは地味めで、そんなにカッコいいって訳じゃないんだけどねー。」
「結婚するならああいう人を選びなさい、って言われそうな感じ?」
「それ。」
軽い調子で交わされる言葉に他意はない。
そんな事は分かっている。
だが、女子学生特有の賑わい、とでも言えば良いだろうか。黄色い声に何故か胸の奥がざわついた。盗み聞きなど止めて立ち去るべきなのだろうが、どうにも足が動かない。
「浦和くんってさー、水野さん達とよく一緒にいるよね?」
唐突に己の名前を出されドキリとした。そういえば、良が同窓の男子生徒と共にいる姿を見ない。ただのクラスメイトでしかない彼女たちにもそう思われているのだから、考えるまでもないのだが、今の今までそんな事にも気付かなかった。
思っていた以上に、時間を共有出来る事に浮かれていたらしい。あまりの失態に愕然となる。
「そう、だね?」
「付き合ってるのかな?」
「何? まさか本気で狙ってるの?」
「ええ!? 違う違う!」
「えー?」
「怪しいよねー?」
「そういうんじゃないから!」
「あたしたち、友達じゃん?」
「だいじょーぶ。言い触らしたりしないから!」
「だから違うって!?」
……それ以上はとても聞いていられなかった。
彼に惹かれるのは、何も自分だけとは限らない。当たり前の事に思い至らなかったのだ。自惚れていたのか、それとも……。
校舎を出た亜美は中庭にあるベンチに力なく腰を下ろした。そうして一度肺の中の空気を全て吐き出す。
隣に佇む大きな木が枝を伸ばし、影を作っていた。頬を撫でていく風が、ゆっくりと思考の熱を冷ましてくれる。
これまで亜美は、恋人が自分以外の異性と居ると嫉妬心を露にするうさぎたちの心情を今一つ理解出来なかった。
しかし胸の中にもやもやと渦巻くこの感情が何かと考えれば、自然と合点はいく。特別親しい訳ではないにも関わらず、亜美は自分が良の恋人だと他の級友の前で彼女たちに宣言したくなった。
落ち着いて振り返れば自己嫌悪に浸りたくなる。
言った所で何の意味があるのか。ただの醜い、自己満足でしかない。……とは言え、他の女子に嫉妬する程度には良の事を好きなのだという事実も少し嬉しい。
「亜美さん。」
後ろから掛けられた声に肩が跳ねる。思考の海に沈んでいて人の気配に全く気が付かなかった。
恐る恐る振り向くと、いつもと同じように笑顔を向けてくれる良が居る。そして彼の隣には、不思議そうな表情をした
「……どう、したの?」
並んで立つ二人に心臓が大きく脈打つ。全くもってどうかしている。自嘲というより情けなさに吐き気がした。
「それはこっちの台詞だよ。声掛けても返事してくれないどころか、急に走ってどっか行っちゃうんだもん。」
心配になって探しに来たのだ、と言ううさぎに申し訳なさが先に立つ。何かあったのかと問い掛けてくれている彼女に自分は何を思った?
「ごめんなさい……。」
声は震えていた。それ以上言葉は続かない。
俯いてしまった亜美を、うさぎはどう思っただろうか。想像がつかないのは勿論だが、抱いた感情のあまりの黒さに知りたくないとも思ってしまう。
どうしたものかと思案しながら、ギュッと目を閉じた。直後、バシッという音が聞こえ、亜美は目を丸くする。
「じゃ、良くん、亜美ちゃんの事お願いね。」
「うさぎさん!?」
おもいっきり背中を叩かれ、よろけた良は当然抗議の声を上げた。しかし肝心のうさぎはと言えば、既に校舎への扉をくぐろうとしている。そして段差を上がった所で振り返り、大きく手を振って叫んだ。誰に聞かれるとも知れぬのに。
「亜美ちゃん! 恋人なんだから、たまにはワガママ言って甘えなきゃダメだよ!」
そう言ってウィンクを飛ばし、スキップでもしているのかというくらい軽い足取りで去って行ったお団子頭のプリンセス。
後に残された二人は顔を熟れさせる事しか出来ない。
どうしろと言うのか、という不満と、流石お見通しなのだな、という安堵が交互に顔を出した。
投下された爆弾をどう処理すべきか。考えあぐねる亜美の耳に、参ったな、という呟きが届いた。
無論、声の主は良である。そっと視線を上げると、恋人は空を仰いで頭を掻いていた。
何故だろうか、そんな彼の姿に、こちらを見て欲しいと思った。おもむろに腕を伸ばし、学生服の袖を引っ張る。釣られて下りて来た視線が確かに交わったのを確認して、亜美は立ち上がった。
「え……? あの……?!」
「ごめんなさい……少しだけ……。」
頭だけを恋人の胸に預ける。あまりした事の無い挙動に良は随分驚いているようで、触れている部分から焦りが音として伝わって来た。
「な、何かあったんですか?」
所在なさ気に身体の横にあった手が、そっと肩に置かれた。暫く亜美は黙ったままでいたが、やがて吹っ切れたように、良との触れ合いを解く。
「亜美さん?」
「何でもないの……ううん。何でもない、って訳じゃ、ないかな。」
心の中に渦巻いていたものは既に消えていた。
(たまには甘えなきゃダメだよ)
うさぎの言葉が蘇る。
迷惑では無いだろうか?
そんな事を考え、否定する為に首を振った。
きちんと伝えなければならない。きちんと伝えたい。
こんなにも大きな存在になっているのだ。傍に居るだけで安心出来る程。心が晴れるほどに。
意を決した亜美が口を開けば、初めはきょとんとしていた良も照れた仕草を見せ、最後には柔らかく微笑んでくれた。
