良亜美

重なり合って頭上を指していた長針が、短針に一時の別れを告げる頃。はたと集中が切れてしまった良は大きく伸びをした。週末の三更、良は机に向かう事を習慣にしている。
慣れてしまえば別段苦でもないが、集中力が持続する時間にはやはり限界があるようだ。このまま座っていても効率が悪い。固まりかけた身体を解すため一度立ち上がる。
そうすると夜の街並みが視界に飛び込んできた。このような夜更けではあるが街は未だに明るく煌めいている。だが高層階という事もあるのか、響く音もなく至って静かだ。
気分転換に少し風に当たろうと、良はバルコニーに出た。心地の良い夜風がビルの間を抜けていく。大きく息を吐くと、隣から控えめな笑い声が聞こえてきた。
両隣の部屋はどちらも明かりが点いていない。
だがその声の主を良が間違える筈はなかった。見れば、恋人でもある隣人の少女が隣のバルコニーに立っている。優しく微笑む彼女の顔は、良の部屋の光に照らされていた。
自身の顔に赤みがさしているだろう事は疑うべくもない。
「ごめんなさい。笑うつもりは無かったんだけど……」
そう言って申し訳なさそうにしながらも、彼女の表情はどこか楽しげであった。
「こんな時間までお勉強?」
「あ、亜美さんこそ、明かりも点けずに何を?」
「目が覚めちゃって。……駄目ね。偶に早く眠るとこうして夜中に起きて……いつもは勉強し始めるんだけど、そんな気にならなくて。隣は明かりが点いていたから」
申し訳なく思った良は謝罪を口にした。だが亜美は全く気にした風もなく笑顔のままである。それどころか顔には嬉しいと書かれているようにも見えた。良は首を傾げ、思ったことをそのまま言葉にして告げた。そうすると今度は亜美の方が恥ずかしそうに口許を抑えた。
恋人の可愛らしい姿に、ついつい抑えきれなかった笑い声が漏れる。
そんな良の態度がお気に召さなかったらしい彼女は頬を膨らませ、そっぽを向いてしまった。やってしまった、と思うが咄嗟に言葉が続かない。
しかし幸いな事に沈黙は長く続かなかった。
互いにどうするべきか、と悩んだのかは定かではない。だが、しっかりと目が合ってしまった事で二人揃って吹き出した後は、楽しげな声が夜更けの空に響いた。
「何を言っても笑わない?」
隣り合う二つの部屋のバルコニーは、手を伸ばせば届く距離だ。亜美は自信なさげに良の服の袖を握る。
愛しさに目を細め、はっきりと良は言い切った。
「笑いません」
壊れ物を扱うようにそっと指を服から剥がし、自分の両手で包み込む。そして俯き気味になっている恋人の顔を覗き込んだ。
視線が重なると亜美は更に頬を染め、目を泳がせながら呟いた。
「……頑張ってるんだと思って……それにこんな時間だけど、こうして話せて、嬉しかったの……」
耳に入って来た言葉に、良は嬉しいような恥ずかしいような、何とも言えない気持ちが心に浮かぶのを感じた。
対して亜美はといえば、上から目線だとか毎日会っているのに、と言って小さくなっている。
……良とて多少なりともプライドというものはある。しかし亜美は自他共に認める天才少女。自分の様な――平凡な男が隣に居れば、色々と言い出す輩が居るだろうことは想像に難しくない。そしてそれが現実になった時、己の存在が恋人を悲しませること。決して小さくない負担を強いることだけは何としてでも避けたかった。
故に、良は亜美に相応しくある為の努力を惜しまなかった。成績や周囲の人間がどうであれ、亜美自身は気にしないかもしれない。ただ、一応は恋人という立場を名乗っているのだ。現状、陰口や表立った誹謗中傷の類は聞こえて来ないが、良の行動一つで憂いの一因となり得ることが減るのならば、それに越したことはない。
そう思って実行に移している訳だが、亜美本人に胸中を打ち明けたことはなかった。にも拘らず、彼女は良の意識しているところを知っている。それはつまり、良を見てくれているということである。
その事実が良にとっては何より誇らしく、嬉しかった。
「……亜美さん」
「なあに?」
良は握っていた亜美の手を持ち上げると、甲に口付けた。
気恥ずかしさにまた赤くなっているのだろうと思いつつ、彼女の親友の恋人なら、様になるのだろうなと考える。
それでも真っ直ぐ、自分と同じかそれ以上に顔を染めている愛しい人を見つめた。

「好きです。貴女の事が……誰よりも……」
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