良亜美
華の女子高生が五人も集まれば、意図せずとも場の空気が明るくなるのは自然な事である。特に彼女たちの場合、魂の双子とでも言おうか、揃って長い金糸を持つ二人を中心に会話が絶えない。
しかしその瞬間、その場に居た誰もが動きを止め、言葉を封じられた。赤、青、白とそれぞれに顔色は違えども、各々の心情としては、そこまで差異はなかったに違いない。
「あ……。」
最初に声を上げたのは誰であっただろう。皆、一点を見つめたまま動けず、意味のある言の葉も発せられずにいた。
そして痛いほどの沈黙の後、恐る恐る視線の先にいる二人にレイが大丈夫かと声を掛ける。
「ご、ごめーん、二人とも! あたしってば、ホントにドジで! 美奈子、反省……。」
レイに対しての返答どころか、動こうともしない二人に焦った美奈子が場違いなまでに明るいボケを飛ばした。しかし流石に突っ込みを入れる気力がある者はいない。というよりも、全員が目の前で起こってしまった事態を頭で処理する事にいっぱいいっぱいだった。
ややあって怪我はないか、というまことの声に、我に返った良が慌てて立ち上がった。押し倒される形で下敷きになっていた亜美は、うさぎの手を借りて起き上がる。
……そして再び流れた沈黙……。
ただ美奈子がふざけて良を突き飛ばし、亜美を巻き込んで倒れこんだだけなら、このような空気にはなっていない。
問題は二人が倒れた時、たまたま唇同士がぶつかり、その瞬間を全員がしっかり目撃してしまった事である。
しかもこれが例えば、うさぎと衛であったならまだしも、亜美と良だ。心情は察して余りある。まして当人たちの顔を見れば、茶化して場を流すなど出来よう筈もない。
どうするんだ、と揃って元凶の愛の女神を睨んだところで変わる過去ではなく……。
「あ、亜美さん……。」
我らがブレーン・マーキュリーに勝るとも劣らぬ頭脳で最適解を導き出したか、と一同が期待したのも束の間。期待は儚く崩れ去った。良が言葉を発しようとした途端に亜美はこれまでに見た事もないような俊足を見せたのである。
「あれぞ、台所のクソ力ってやつ……?」
「それを言うなら、火事場の……って、そうじゃなくて!」
親友たちに責められ、小さくなっている自称愛と美の女神を遠くに見つつ、良は走り去った恋人に想いを馳せた。
踵を返す一瞬に見えた表情はこれでもかと顔を染めていた。宙を舞った光の粒も恐らくは気の所為ではあるまい。
恐らく自分が感じている痛みとは比較にならないだろう、恋人の胸中。一体どう言葉を掛ければ良いのか。
ズッシリとした何かが背中から伸し掛かってきていた。
こってり絞られ心底反省したらしい美奈子の同行を断り、良は何とか自宅マンションに辿り着く。自覚していた以上に足取りは重く、普段の倍以上は掛かってしまったが、眼前には目的の『水野』と書かれた扉がある。あの様子なら既に帰宅しているだろう。とにかく話を、とインターホンに手を伸ばし、いやしかし、と手を引っ込めてを繰り返すこと暫く。
大きく深呼吸すると、意を決してチャイムの音を辺りに響かせた。さっきの今で、とも思うが長引かせたくはなかった。
本来なら走り去った恋人を追いかけなくてはならなかったのは百も承知……肝心な時の情けなさは今後の課題だ。
音が止み、静けさが戻る。
人の動く気配はなかった。
やはりあのような事をしでかした男には会いたくないのだろうか、と沈む心に鞭打ち、もう一度室内に自身の来訪を告げる。それでも変わらぬ景色に、もしやまだ帰宅していないのでは、という思いが頭を持ち上げた。三度行為を繰り返して駄目なら出直そう。そう考え行動に移そうとした時。
目の前のドアが静かに開かれ、僅かな隙間から目的の少女が顔を覗かせた。
「良くん……?」
確かめるように名を呼んだ恋人。その赤みを差した頬が嫌でも先程の光景を思い出させる。
「あ、その……少し良いですか……」
部屋の前で話すのはどうにもバツが悪い。近くの公園へと良が誘うと、亜美は戸惑いを見せつつも承諾してくれた。
現場からマンションへ向かう間中、ただひたすらに話さなければ、話さなければ、と思い続けていた訳だが、やはり面と向かうと何を話せば、と思い言葉に詰まる。
兎にも角にも一言、と謝罪を口にすれば、こちらを一瞥しただけで亜美は首を振った。
「良くんが謝る事じゃないわ。わざとではないのだし……私の方こそ、逃げるみたいに帰ってしまって、ごめんなさい……。」
「それこそ仕方のない事です! 驚いて何も考えられなくなるのは当然ですから……それに……。」
自分の方こそ、頭が真っ白になって何のフォローも出来なかったのだ、と言えば漸く亜美は小さく笑みを溢した。
恋人の様子にホッとしつつ、何故自分はこう情けない姿ばかりを晒してしまうのだろう、と良は赤面する。初めてのキスがあんな形で実現するなど有り得なさすぎる……と、思い至った良の顔が蒼白になった。
「すみません亜美さん、つかぬ事をと言いますか、失礼な事をお聞きしますが、今までに……その……『経験』は、ありますか……?」
それが何を指しているか察した亜美は頭から湯気を出しそうな状態だ。当然答えにくそうに、それでもしっかり『NO』と示された良は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「で、でもね! 人工呼吸の経験はあるから、まるっきり初めて、って訳でも無いのよ!?」
亜美らしいと言えば亜美らしいが、残念ながらフォローになってはいない。もっとも、高二でマウストゥーマウスの経験があるというのも別の意味でショックではあるが。
「……本当にすみません……僕は……。」
「わ、私は大丈夫だから気にしないで!? 倒れた時に偶然、唇が触れたっていうだけの事だし、相手は良くんなんだもの!」
別に嫌だった訳じゃないの。と叫んだのは全く無意識の事だったのだろう。言葉の意味に気付いた双方の時が一瞬止まった。
そしてお互い声にならない悲鳴を上げ、限界まで顔を赤くする。
「あ、あの……その……。」
最早しどろもどろになっている亜美は両手で顔を隠し、良に背を向けた。
「ごめんなさい……でも、本当にあれはただの接触で、き……キス、なんて呼べるものではないから……。」
震えた声で絞り出すように言われても、とても本心とは思えない。全く逆効果だ。自分に言い聞かせているようにしか聞こえず、どうにも痛々しい。
「……亜美さんが本当に、心からそう思っているのなら、僕はもうこの話題には触れない事にします。でも、そうではないのでしょう……?」
良の言葉に、恐る恐る振り向いた亜美は今にも泣きそうだった。ギュッと唇を引き結び、俯き気味に立つ彼女の手は僅かに震えている。
「……亜美さん。」
いつものように名を呼んで、良は両手で亜美の手を包んだ。反射的に顔を上げた亜美と視線が絡む。紺碧の瞳には、真剣な表情を向ける己の姿が映っていた。
「僕に遠慮なんてしないでください。ありのままの、貴女の気持ちを教えて欲しいんです。」
僅かに目を伏せ、亜美は漸くポツリポツリと心の内を吐露し始める。
本当に、良とのキスが嫌だった訳ではないのだと。
ただ、友人たちが見ている前であのような事になってしまって気恥ずかしかった。逃げてしまったのはどうしたら良いのか分からなかったからで、他意は全くなかったのだと。
「……わ、私だって、憧れが全くないって訳じゃ、ないのよ? その……ふぁーすと、きす、に……。」
恥じらいの下、囁かれた言葉に心臓が跳ねる。
つまり、自分との行為を……考えた事がある、と。
そう思い至ってしまって、一気に体温が上がったのを感じる。
「私だって、考えない訳じゃないの……いつかは、って……だって、良くんの事…………好きなんだもの。」
身体の重みが無くなってしまったようだった。まるでふわふわと宙に浮いているような。そんな感覚で……。
唐突に理解した。そうだ、この感情は、嬉しいだとか、夢見心地、と言うよりも。
……愛しい、だ。
今の自分の心を表すのに、それ以上に相応しい言葉は思い付かなかった。
誰かに想われる事がこんなに嬉しいなんて。
「ファーストキスは……やっぱり、二人の思い出にしたかった、というか……みんなの目の前で、っていうのは流石に恥ずかしかったし、何より……自分があんまり夢を見ていた事に気付いて……情けなくなってしまって……。」
情けなくなんてないです、と口を開こうとしたが、音にはならなかった。亜美は言葉を続ける。
「……だからって、あんなのはダメよね……ごめんなさい。明日、皆にもちゃんと謝るか、ら……。」
そこで声が途切れた。
普段の行動から考えると、乱暴とも言える力で引き寄せられたのだから、目を丸くするのも仕方ない。良自身も己の行動に驚いたと言うのが正直なところだったが、そのまま、力を緩める事なく亜美を抱き締めた。
「……謝らなくていいです。亜美さんが謝る事はありません。」
僕ももう、謝りませんから。
そう言い放ち、腕に力を込める。
亜美からはきっと、良の表情は見えない。
「……良くん、もしかして美奈子ちゃんに怒ってる?」
「いけませんか?」
恋人を拘束から解放した良は、気まずそうに視線を逸らす。
「愛野さんに、というよりは不甲斐ない自分に、の方が正しいですが……。」
『元凶』とは言え、事故であるには違いない。未来に禍根を残すつもりはないが、やはり恋人の本音を知ってしまった以上簡単に全てを水に流す事は出来そうになかった。
言ったところで詮無い事と理解もしているが、これはきっと理屈ではないに違いない。
大きく溜息を吐いた良は近くのベンチに座り込んだ。クスクスと笑いながら、亜美が隣にやってくる。
いつもより距離が近いな、とぼんやり思っていると、亜美が良の手を握った。たったそれだけで、心が温かくなった気がする。
穏やかな表情を浮かべた良は、そっと手を握り返し肩を寄せる。そして顔を見たいと思って視線を下げた時、微かに頬を染めた恋人と目が合った。
嬉しさに良が微笑むと、亜美は何故か視線を彷徨わせる。
流石に顔が近いのは抵抗があるのだろうか、と近接していた身体に距離をもたせるが、今度は少し残念そうな表情に変化した為、良の頭上に疑問符が飛び交った。
「亜美さん?」
「え? ……あ……。」
そこで一気に茹で上がった亜美は、慌てて両手で顔を覆った。訳が分からない良は、もう一度恋人の名を呼ぶ。
「どうしたんですか?」
「……何でもないの……ごめんなさい……。」
耳まで赤く染め上げて、何でもない訳はないだろうと思うが、あまり問い詰めるのも気が引ける。
されど気になるのは事実。そして戸惑いながらも、一つの可能性に辿り着くと、確認せずにはいられなかった。
「……期待、しました?」
「え……?」
まるで小さな子が泣きそうになっているような、そんな顔をしている恋人に罪悪感が湧くが、この際気にしていられない。
「キス、したいですか?」
そう言った瞬間の亜美の表情を何と表現したら良いだろうか。ロマンティックに、とかムードを大切に、という意味では、こんな事を口にするのは御法度であると百も承知している。
しかし良は亜美に対して誠実でいたかった。嫌がる事をしたくはなかったし、願いがあるなら極力叶えたいと思っていた。
「ち、違うの……。」
「違うんですか?」
「えっと……その……。」
いつもは自分の意志を真っ直ぐに伝える亜美が、あちこち目を泳がせている。良は愛しげに目を細めた。
静かに自分を見守ってくれているような、そんな彼の表情を亜美はどう思ったのだろう。ぽすん、と良の肩に頭を乗せ、言葉を紡ぐ。不貞腐れた、幼い少女のように。
「……あきれた?」
「そんなこと思ったりしませんよ。」
良は努めて優しく、そう言った。
だが恋人の不安そうな表情は晴れない。
「亜美さん。」
「……なに?」
「……キスしても良いですか?」
……良の顔を見れば冗談でないことは分かった。
何より、彼がそんな冗談を言う人間でないことは亜美本人が一番よく分かっている。
答えは決まっていた。小さなリアクション一つで済む事だ。
にも関わらず、何も返す事が出来ない。二人の間には薄い強固な壁があり、それによって隔てられている。そんな感覚がした。
一瞬とも、永遠とも感じる時間に恐怖を覚えた。
そんな中、良の手が伸ばされる。亜美の頬に触れた掌は思ったよりひんやりとしていた。
「僕は、貴方の才能を愛している訳ではありません。」
零れ落ちる水を掬い上げ、波打つ水面を鎮めようとするように、声がゆったり広がっていく。
「亜美さんが天才少女だから好きになったのでも、付き合っている訳でもないんですよ。」
勉強以外に取り柄なんてない。そんな風に思っていたことがあった。今だって自信はない。けれど、良がそう言ってくれるだけで、大丈夫だと思える自分が居た。他の誰に何を言われようと、良が傍に居てくれるなら。
何も恐れる必要も、気に病む必要もなかったのだ。
亜美はぎゅうっと良に抱き着いた。何故この胸の中に居ると安心するのか、やっと分かった気がする。
「私もね、良くんが力を持っているからとか、テストで一番になれる実力があるから好きなんじゃないの。」
顔を見上げると、自然と見つめあう。
もう視線を外す必要はない。
ふわり微笑んだ亜美が瞳を閉じると、少々ぎこちない動きながら、良も身を屈めた。
優しく触れた温もりをきっと忘れはしない。
これから何があろうと、一番近くで変わらず共にあるに違いないと二人は確信していた。
しかしその瞬間、その場に居た誰もが動きを止め、言葉を封じられた。赤、青、白とそれぞれに顔色は違えども、各々の心情としては、そこまで差異はなかったに違いない。
「あ……。」
最初に声を上げたのは誰であっただろう。皆、一点を見つめたまま動けず、意味のある言の葉も発せられずにいた。
そして痛いほどの沈黙の後、恐る恐る視線の先にいる二人にレイが大丈夫かと声を掛ける。
「ご、ごめーん、二人とも! あたしってば、ホントにドジで! 美奈子、反省……。」
レイに対しての返答どころか、動こうともしない二人に焦った美奈子が場違いなまでに明るいボケを飛ばした。しかし流石に突っ込みを入れる気力がある者はいない。というよりも、全員が目の前で起こってしまった事態を頭で処理する事にいっぱいいっぱいだった。
ややあって怪我はないか、というまことの声に、我に返った良が慌てて立ち上がった。押し倒される形で下敷きになっていた亜美は、うさぎの手を借りて起き上がる。
……そして再び流れた沈黙……。
ただ美奈子がふざけて良を突き飛ばし、亜美を巻き込んで倒れこんだだけなら、このような空気にはなっていない。
問題は二人が倒れた時、たまたま唇同士がぶつかり、その瞬間を全員がしっかり目撃してしまった事である。
しかもこれが例えば、うさぎと衛であったならまだしも、亜美と良だ。心情は察して余りある。まして当人たちの顔を見れば、茶化して場を流すなど出来よう筈もない。
どうするんだ、と揃って元凶の愛の女神を睨んだところで変わる過去ではなく……。
「あ、亜美さん……。」
我らがブレーン・マーキュリーに勝るとも劣らぬ頭脳で最適解を導き出したか、と一同が期待したのも束の間。期待は儚く崩れ去った。良が言葉を発しようとした途端に亜美はこれまでに見た事もないような俊足を見せたのである。
「あれぞ、台所のクソ力ってやつ……?」
「それを言うなら、火事場の……って、そうじゃなくて!」
親友たちに責められ、小さくなっている自称愛と美の女神を遠くに見つつ、良は走り去った恋人に想いを馳せた。
踵を返す一瞬に見えた表情はこれでもかと顔を染めていた。宙を舞った光の粒も恐らくは気の所為ではあるまい。
恐らく自分が感じている痛みとは比較にならないだろう、恋人の胸中。一体どう言葉を掛ければ良いのか。
ズッシリとした何かが背中から伸し掛かってきていた。
こってり絞られ心底反省したらしい美奈子の同行を断り、良は何とか自宅マンションに辿り着く。自覚していた以上に足取りは重く、普段の倍以上は掛かってしまったが、眼前には目的の『水野』と書かれた扉がある。あの様子なら既に帰宅しているだろう。とにかく話を、とインターホンに手を伸ばし、いやしかし、と手を引っ込めてを繰り返すこと暫く。
大きく深呼吸すると、意を決してチャイムの音を辺りに響かせた。さっきの今で、とも思うが長引かせたくはなかった。
本来なら走り去った恋人を追いかけなくてはならなかったのは百も承知……肝心な時の情けなさは今後の課題だ。
音が止み、静けさが戻る。
人の動く気配はなかった。
やはりあのような事をしでかした男には会いたくないのだろうか、と沈む心に鞭打ち、もう一度室内に自身の来訪を告げる。それでも変わらぬ景色に、もしやまだ帰宅していないのでは、という思いが頭を持ち上げた。三度行為を繰り返して駄目なら出直そう。そう考え行動に移そうとした時。
目の前のドアが静かに開かれ、僅かな隙間から目的の少女が顔を覗かせた。
「良くん……?」
確かめるように名を呼んだ恋人。その赤みを差した頬が嫌でも先程の光景を思い出させる。
「あ、その……少し良いですか……」
部屋の前で話すのはどうにもバツが悪い。近くの公園へと良が誘うと、亜美は戸惑いを見せつつも承諾してくれた。
現場からマンションへ向かう間中、ただひたすらに話さなければ、話さなければ、と思い続けていた訳だが、やはり面と向かうと何を話せば、と思い言葉に詰まる。
兎にも角にも一言、と謝罪を口にすれば、こちらを一瞥しただけで亜美は首を振った。
「良くんが謝る事じゃないわ。わざとではないのだし……私の方こそ、逃げるみたいに帰ってしまって、ごめんなさい……。」
「それこそ仕方のない事です! 驚いて何も考えられなくなるのは当然ですから……それに……。」
自分の方こそ、頭が真っ白になって何のフォローも出来なかったのだ、と言えば漸く亜美は小さく笑みを溢した。
恋人の様子にホッとしつつ、何故自分はこう情けない姿ばかりを晒してしまうのだろう、と良は赤面する。初めてのキスがあんな形で実現するなど有り得なさすぎる……と、思い至った良の顔が蒼白になった。
「すみません亜美さん、つかぬ事をと言いますか、失礼な事をお聞きしますが、今までに……その……『経験』は、ありますか……?」
それが何を指しているか察した亜美は頭から湯気を出しそうな状態だ。当然答えにくそうに、それでもしっかり『NO』と示された良は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「で、でもね! 人工呼吸の経験はあるから、まるっきり初めて、って訳でも無いのよ!?」
亜美らしいと言えば亜美らしいが、残念ながらフォローになってはいない。もっとも、高二でマウストゥーマウスの経験があるというのも別の意味でショックではあるが。
「……本当にすみません……僕は……。」
「わ、私は大丈夫だから気にしないで!? 倒れた時に偶然、唇が触れたっていうだけの事だし、相手は良くんなんだもの!」
別に嫌だった訳じゃないの。と叫んだのは全く無意識の事だったのだろう。言葉の意味に気付いた双方の時が一瞬止まった。
そしてお互い声にならない悲鳴を上げ、限界まで顔を赤くする。
「あ、あの……その……。」
最早しどろもどろになっている亜美は両手で顔を隠し、良に背を向けた。
「ごめんなさい……でも、本当にあれはただの接触で、き……キス、なんて呼べるものではないから……。」
震えた声で絞り出すように言われても、とても本心とは思えない。全く逆効果だ。自分に言い聞かせているようにしか聞こえず、どうにも痛々しい。
「……亜美さんが本当に、心からそう思っているのなら、僕はもうこの話題には触れない事にします。でも、そうではないのでしょう……?」
良の言葉に、恐る恐る振り向いた亜美は今にも泣きそうだった。ギュッと唇を引き結び、俯き気味に立つ彼女の手は僅かに震えている。
「……亜美さん。」
いつものように名を呼んで、良は両手で亜美の手を包んだ。反射的に顔を上げた亜美と視線が絡む。紺碧の瞳には、真剣な表情を向ける己の姿が映っていた。
「僕に遠慮なんてしないでください。ありのままの、貴女の気持ちを教えて欲しいんです。」
僅かに目を伏せ、亜美は漸くポツリポツリと心の内を吐露し始める。
本当に、良とのキスが嫌だった訳ではないのだと。
ただ、友人たちが見ている前であのような事になってしまって気恥ずかしかった。逃げてしまったのはどうしたら良いのか分からなかったからで、他意は全くなかったのだと。
「……わ、私だって、憧れが全くないって訳じゃ、ないのよ? その……ふぁーすと、きす、に……。」
恥じらいの下、囁かれた言葉に心臓が跳ねる。
つまり、自分との行為を……考えた事がある、と。
そう思い至ってしまって、一気に体温が上がったのを感じる。
「私だって、考えない訳じゃないの……いつかは、って……だって、良くんの事…………好きなんだもの。」
身体の重みが無くなってしまったようだった。まるでふわふわと宙に浮いているような。そんな感覚で……。
唐突に理解した。そうだ、この感情は、嬉しいだとか、夢見心地、と言うよりも。
……愛しい、だ。
今の自分の心を表すのに、それ以上に相応しい言葉は思い付かなかった。
誰かに想われる事がこんなに嬉しいなんて。
「ファーストキスは……やっぱり、二人の思い出にしたかった、というか……みんなの目の前で、っていうのは流石に恥ずかしかったし、何より……自分があんまり夢を見ていた事に気付いて……情けなくなってしまって……。」
情けなくなんてないです、と口を開こうとしたが、音にはならなかった。亜美は言葉を続ける。
「……だからって、あんなのはダメよね……ごめんなさい。明日、皆にもちゃんと謝るか、ら……。」
そこで声が途切れた。
普段の行動から考えると、乱暴とも言える力で引き寄せられたのだから、目を丸くするのも仕方ない。良自身も己の行動に驚いたと言うのが正直なところだったが、そのまま、力を緩める事なく亜美を抱き締めた。
「……謝らなくていいです。亜美さんが謝る事はありません。」
僕ももう、謝りませんから。
そう言い放ち、腕に力を込める。
亜美からはきっと、良の表情は見えない。
「……良くん、もしかして美奈子ちゃんに怒ってる?」
「いけませんか?」
恋人を拘束から解放した良は、気まずそうに視線を逸らす。
「愛野さんに、というよりは不甲斐ない自分に、の方が正しいですが……。」
『元凶』とは言え、事故であるには違いない。未来に禍根を残すつもりはないが、やはり恋人の本音を知ってしまった以上簡単に全てを水に流す事は出来そうになかった。
言ったところで詮無い事と理解もしているが、これはきっと理屈ではないに違いない。
大きく溜息を吐いた良は近くのベンチに座り込んだ。クスクスと笑いながら、亜美が隣にやってくる。
いつもより距離が近いな、とぼんやり思っていると、亜美が良の手を握った。たったそれだけで、心が温かくなった気がする。
穏やかな表情を浮かべた良は、そっと手を握り返し肩を寄せる。そして顔を見たいと思って視線を下げた時、微かに頬を染めた恋人と目が合った。
嬉しさに良が微笑むと、亜美は何故か視線を彷徨わせる。
流石に顔が近いのは抵抗があるのだろうか、と近接していた身体に距離をもたせるが、今度は少し残念そうな表情に変化した為、良の頭上に疑問符が飛び交った。
「亜美さん?」
「え? ……あ……。」
そこで一気に茹で上がった亜美は、慌てて両手で顔を覆った。訳が分からない良は、もう一度恋人の名を呼ぶ。
「どうしたんですか?」
「……何でもないの……ごめんなさい……。」
耳まで赤く染め上げて、何でもない訳はないだろうと思うが、あまり問い詰めるのも気が引ける。
されど気になるのは事実。そして戸惑いながらも、一つの可能性に辿り着くと、確認せずにはいられなかった。
「……期待、しました?」
「え……?」
まるで小さな子が泣きそうになっているような、そんな顔をしている恋人に罪悪感が湧くが、この際気にしていられない。
「キス、したいですか?」
そう言った瞬間の亜美の表情を何と表現したら良いだろうか。ロマンティックに、とかムードを大切に、という意味では、こんな事を口にするのは御法度であると百も承知している。
しかし良は亜美に対して誠実でいたかった。嫌がる事をしたくはなかったし、願いがあるなら極力叶えたいと思っていた。
「ち、違うの……。」
「違うんですか?」
「えっと……その……。」
いつもは自分の意志を真っ直ぐに伝える亜美が、あちこち目を泳がせている。良は愛しげに目を細めた。
静かに自分を見守ってくれているような、そんな彼の表情を亜美はどう思ったのだろう。ぽすん、と良の肩に頭を乗せ、言葉を紡ぐ。不貞腐れた、幼い少女のように。
「……あきれた?」
「そんなこと思ったりしませんよ。」
良は努めて優しく、そう言った。
だが恋人の不安そうな表情は晴れない。
「亜美さん。」
「……なに?」
「……キスしても良いですか?」
……良の顔を見れば冗談でないことは分かった。
何より、彼がそんな冗談を言う人間でないことは亜美本人が一番よく分かっている。
答えは決まっていた。小さなリアクション一つで済む事だ。
にも関わらず、何も返す事が出来ない。二人の間には薄い強固な壁があり、それによって隔てられている。そんな感覚がした。
一瞬とも、永遠とも感じる時間に恐怖を覚えた。
そんな中、良の手が伸ばされる。亜美の頬に触れた掌は思ったよりひんやりとしていた。
「僕は、貴方の才能を愛している訳ではありません。」
零れ落ちる水を掬い上げ、波打つ水面を鎮めようとするように、声がゆったり広がっていく。
「亜美さんが天才少女だから好きになったのでも、付き合っている訳でもないんですよ。」
勉強以外に取り柄なんてない。そんな風に思っていたことがあった。今だって自信はない。けれど、良がそう言ってくれるだけで、大丈夫だと思える自分が居た。他の誰に何を言われようと、良が傍に居てくれるなら。
何も恐れる必要も、気に病む必要もなかったのだ。
亜美はぎゅうっと良に抱き着いた。何故この胸の中に居ると安心するのか、やっと分かった気がする。
「私もね、良くんが力を持っているからとか、テストで一番になれる実力があるから好きなんじゃないの。」
顔を見上げると、自然と見つめあう。
もう視線を外す必要はない。
ふわり微笑んだ亜美が瞳を閉じると、少々ぎこちない動きながら、良も身を屈めた。
優しく触れた温もりをきっと忘れはしない。
これから何があろうと、一番近くで変わらず共にあるに違いないと二人は確信していた。
