モンブランのアレになる

第一話
愛を誓った二匹の蝶々



 見上げた先は、澄んだ星を遮らぬほど、曇りなき黒だった。朝方に落ちた固い霜が、未だ熔け切らない真夜。悴んだ手指には、赤紫が広がっている。
 クリスマスの近づく横浜みなとみらいは、どうも人が賑やかで駄目だ。イルミネーションが燐く夜に連れ渋滞が重なり、巡回のパトカーも、とうとう亀の歩みになってしまっている。亀、否、鈍亀か。苦笑を顕、ほんの少しの前進も見通しが付かなくなった為、大人しくサイドブレーキを引く事にした。きっと皆、車に乗りながら横目でイルミネーションを愉しんでいるに相違ない。まあ、このくらい平和でいいのだ。クリスマス付近になると、どうしてもあの物騒な日を思い出す。忘れるはずがない。常、平和を願う職であるが、聖夜は特に。祈らずにはいられないのだ。もう、当時の惨劇は繰り返されるべきではない。俺は、温かなイルミネーションに包まれながら、渋滞で停車した車内で珈琲を啜る。―――良い匂いだ。


***


 臭い、臭過ぎる。鼻を刺す血生臭さと、瞳に映り込んだ光景に、思わず吐き気を催した。幾度なく目の当たりにしたであろう死後の人間とは別に思える程。極めて残虐。これがもし人間の所業であるならば、到底、理解及ばぬカタストロフである。

「どういう状況だ、こりゃ」
「どうもなにも、臓物全部、ほじくり回されてますわ」
「それは言われなくても解る」

なら何故言わせたのだ、と先に現場に到着していた刑事の柏原が不服そうな溜息をつく。仄か、薄い唇から続いた息が煙臭かった事から、また禁煙に失敗したのだと察した。
 現場は横浜みなとみらい。クイーンズスクエアの傍にあるホテルだった。外装はなんとか補強や塗装を繰り返し今風にして在るが、だいぶ古びた建物だと足を踏み入れ一目で解った。入口で料金をちらと見て来たのもあり、やれやれ納得がいく。

「そいで、大田はん、鑑識は? 一緒やないんでっか」
「イルミネーションの所為で渋滞に嵌ったらしい」
「嗚呼、今日はクリスマスでしたわな」

柏原は「世間は呑気でええですわ」と嫌味な笑いを垂らしたきり。俺が何故、此処までスムーズに来れたかを問う事はしない。それもそうだろう、なにせ俺と柏原は同じマンションの隣人なのだから。今日は非番だったというのに、まさか近隣のホテルで殺人事件があったが為、直ぐ様駆け付けられる刑事が俺と隣人の彼だなんて。全く、海の見える分譲マンションを購入したはいいが、“歩きの距離”だからと非番に駆り出されるなど、考えてもみなかった。多分、これを声に出したなら、大田もまた同様「俺もですわ」と煙草臭い唇を動かすに違いない。

「なあ、大田はん」
「なんだ」
「これ、何に見えます」
「なにって」

ようやく鼻が、血みどろの臭い匂いに慣れて来た頃、誘われた柏原の指先をこの目に辿る。皺の寄ったシーツは、二人が愛を確かめあった証だろう。どれほど烈しく求め合ったのか、所々に飛び散った体液が、元は奇麗だったシーツに染みを作っていた。
――それを例えるなれば、蝶々だった。数時間前まで肌を絡ませていた男女が、シーツの上に静か、肌色のまま其処にいて。大きく縦に腹部を裂かれたのち、ミミズのよう垂れて流れた大腸たちは。互い、赤い糸の如く結ばれている様。死して尚、共にあれと云う意なのか、尤も、定かではない。けれど、ひとつだけ確かな事は。“異常”。しかし、目の前に広がり帯びる異常は、紛れもなく、人間の手によって行われたの物だ。聖夜、イルミネーション燐く中で。煌々、煌々。開かずの鳥籠。閉め切った鍵内で優雅にまたたくは――

「蝶々か」
「さいですわ、ほんでこれが多分。犯人からのメッセージですわな」
「見せろ」
「そない、ぶん取らんともあげますわ。あ、鑑識に回してくださいよ」

呆れの溜息を溢す柏原を他所、俺は、白い布手袋を嵌めては、早速。半ば彼から奪い取ったそれを視界に収める。だが、慌て取り上げたわり、脳内処理は追いつかない。これは一体なんだ。手にしたのは、メモ帳の端切れ。其処には、お世辞にも奇麗とは云えぬ走り書き、解読不能な文字の羅列が並んでいる。決して読めないという訳ではないのだ。ただ、意味が解らない。とうとうお手上げになった俺は、首を傾いで彼に問う。

「柏原、これ、理解できたか」
「理解もなにも………ねえ。あ、鑑識が到着したらしいですわ。それも一緒に視て貰いましょか」
「………そうだな」

――クリッ、クリッ、クリィムパン!クリクリクリクリクリクリ、クリィムパン!

暗号と言えるのか、なんなのか。俺は、不可解なメモ紙を現場に到着した鑑識へと回すした。星々が降る聖夜、指先が悴む。この日を堺、俺は奇怪で残虐なクリィムパンに、怒涛の日々を捧げる事となるのだった。聖夜は、大嫌いだ。
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