短編小説


 彼が脚を向かわせたのは、次からの任務に備える為。組織内で秘密裏に在る集まりだった。丁度、陽が暮れ、数羽のからすが薄暗の空を駆けゆく頃だったと思う。仕事の事だし、特に口出しする用はなくも、一応、恋人である事に変わりはない。帰りの時間くらいは訊いてもいいだろう。そう、出掛ける直前に何気無く問えば。次に向う目的地での配置決めだそうで、恐らく一時間足らずで解散になると訊かされた。

「いつもなら、連絡くれるのに」

集まりのあとは組織の仲間たちと酒を愉しむかもしれない、と言うのもあらかじめの周知。遅くなる前提で出掛けた事は了知であるが。現在時刻は日付も廻り、午前一時を過ぎて居る。当たり前だが、互い子供でも何でもない。もう立派な成人が、夜中に何処で何をしようと咎める事もなければ、構う事もない。それでも常、どんな多忙の際でも、私が不安にならぬよう一報が鳴る携帯は。今夜に限って、揺れる気配の欠片もなくて。先に寝て居ようかとも思ったが、段々に安否が気になり始めたらもういけない。何処かで怪我をしていたら、危険な目に遭っていたら、もしも、戻って来なかったら。様々な憶測が支配する脳内は、焦燥を掻き立てるに十分過ぎた。

「………安否確認なら、赦されるわよね」

そう自身にいい訊かせては。本来、任務の最中は控えている連絡も致し方なく思え。後、未だ少しも鳴らない携帯へ指を伸ばした時だった。―――静かな部屋に施錠の音が響く。慌て、触れ掛けた携帯を置き去りに、扉へ駆けゆくと、そこには。

「……、ヤン」
わり、連絡、忘れちまった」
「何だっていいわよ、そんな事。それより大丈夫、どこか痛むの」

きちんと帰って来てくれた。私の元に、息の在る姿できちんと。それならば、連絡の有無など関係ない。無事に戻って来た彼を目にした途端、身体中の血液を巡って全身に流れるは、肩の力が抜ける安堵。しかし良く見れば、特段 血が垂れる様子も、深手を負った様子もない。ただ、ぐったりしているだけ。これは一体。

「なあ」
「なに」

そう、項垂うなだれる彼の瞳を覗いた瞬間である。感じるは、鼻を刺すよう。それは酷い、アルコール臭。愛している恋人の匂いに変わりはないが、これは駄目だ。思わず顔をそむけたくなる所、呼ばれたが為に応える。すると、赤みを帯びた瞳と視線が重なるのだ。ただの飲み過ぎの所為せいか、はたまた別の理由か。考えるに及ばぬ赤色は、勿論、前者で。

「――セックスしてえ」
「………」
「なあってば」
「訊こえてるわよ」

何を言うかと思えば、先までの心配を返して欲しい。結局は、飲んで、酔って、おかしくなって帰って来ただけではないか。全く、馬鹿馬鹿しい、さっさと寝るべきだったと今更ながらに後悔する。しかしだ、酒を飲んでも飲まれぬ彼の事、こんなになるなんて珍しく。組織の集まりで余程、気に喰わない事でもあったのだろうか。

「……きゃ、ちょっと、ヤン、…!」

そうしてる間、玄関先でのろのろ身を崩す彼を私が支えられるはずもなく。呆気なく、倒れて来た彼の下敷きになってしまって。重い、重すぎる。身に伸し掛かる彼を呼ぼうが叩こうが、まるでびくともしない。在るのは、覆い被さる彼の唇から伝わる、アルコールを含んだ熱い吐息。

「痛、ねえ…っ、…おも、重いってば、どいて」
「抱きてえ、」
「ここじゃ駄目、そもそも、あなたこんなに酔ってるんだから」
うるせえ、酔ってもなあ、俺は勃つんだよ」
「知らないわよ、そんな事、いいから早くどけて、いい加減にしなと引っ叩くわよ」

引っ叩くなんて物騒な事はしないけど、その酔って紅潮した頬をつねるくらいはいいだろう。そう、指先を頬へ向けた時だった。吐息、溜息だろうか、どちらにも似たそれと共に、肌を言葉が貫いてゆく。

「嗚呼、愛してる、凄え、愛してるよ」
「………」
「好きだ、もう、訳解んねえくらい、好きだ、好き。俺の物だからな、誰にも渡さねえぞ、こら」
「わ、解った、解ったから」

常、不安にならぬよう、言葉にしてくれる事は多い。それは助かる。だが、これ以上の愛に埋もれたら、伸し掛かる身体の重みと相まって、どこか深い所へ落ちてしまいそうな程。―――アルコールを煽っていないにも関わらず、彼から伝わり響いた熱が、身体に移り、灯っていく。熱い。

「好きだー」
「もう、いいから」

どうにかして覆い被さる彼を退けようと、力いっぱい押してやると。ポケットからだろうか、ずるり落ちた携帯が震えている。人の携帯を覗く趣味はないが、恐る恐る眼を配ると。着信は、組織内の人間、ピンカー・ホワイトデーからだった。出ても、いいだろうか。

「も、もしもし」
「あ、出た、ヤン? じゃ、ないわね」
「ごめんなさいね。ヤンが酔っぱらって帰って来ちゃって。今電話に出られないのよ」
「嗚呼、いいのよ。ていうか、ヤンが酔っ払ったの、半分は私たちの所為だから」
「え?」
「悪ふざけが過ぎちゃってね。だから一応、貴女には謝っとこうと思って。この電話は初めから貴女宛て」
「…どういう事?」

身に乗る重りにも慣れ、ただ少し息の しづらい胸で大きく呼吸を繰り返しながら、私は電話口の声に耳を傾ける。話しはつまり、何とも飽きれる物だった。―――組織の集まりを終えたあと、彼は仲間と共、盗んだ酒で輪になっていたらしい。そこで、恥ずかし気もなく話題になった夜の話しに、たいそう花を咲かせたそうで。俺は一日に何回した、俺の方がもっと凄いぞ、そんな感じに。

「そしたら話しの途中にね、“回数じゃなくて、いかせた数の方が重要”って事に辿り着いて」
「……」
「“どうせいかせてやれてないんでしょ”って言ってみたらね。可笑しいったら、冗談なのにヤンの野郎、何だか躍起やっきになっちゃって」

腹を抱えて笑う様がよくよく眼に浮かぶ。手に届く範囲に居ればとっくに引っ叩いている所だ。

「そういう訳だから、申し訳ないけど介抱よろしく」

何か一言文句を言ってやろうと思ったが矢先、一方的に切られた電話は、途切れた機械音だけを残していて。何が介抱よろしくだ、酔わせたなら責任くらい取って欲しい。まあ、なにを言っても無駄な事。二人共、一筋縄ではいかないのだから。私は未だ胸に居る大男の下敷き。呆れの籠もった大きな溜息を溢すのだ。きっと、眠るあなたには訊こえてないだろうけど。私、私はね。

「貴方じゃなきゃ、駄目なの」

段々に麻痺した鼻は。酷いアルコールの匂いでさえ、愛おしく感じてしまうほど。多分、この重みを愛に変換したならば、十分、幸せを感じるくらいに。
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