短編小説

「狸寝入りしても駄あ目、すぐ解るよ」

 背中へ充てられた体温に、ぴくり、身体が動いた、無意識だった。後ろから回される固い腕に、この身は容易と収まる。瞼だけを閉じた姿が、既、嘘だと明らかであるのに。どうしても彼に繋がる背を向けないのは、ただ。ただの羞恥である。

「本当に寝てたかもしれないのに」
「息遣いが違うんだ、少しだけ」

それならば、私がこうして寝室に籠もり、抱き締める彼の方を向けない理由も。大概、理解しているはず。―――ほんの少し前だった。シャワーを浴びて、奇麗に髪をかしてから、お気に入りのボディミルクを肌に乗せ。そうして互い、仕事や個々の予定の所為せい。久しく触れられずにいた熱を。珍しく、私から求めたのである。情事の誘いに関しては、常、彼の声が始まりで。いざ自身からそれを口にしよう物なら、なかなかどうして緊張で喉が乾き。心臓が無駄に駆け足になると言う事に気が付いた。

「さっきはごめんよ」

こんな想いをしながら、毎回私に声を掛けてくれていたと思うと、なんだか感心すらしてしまう。しかし、いつだって飄々と振舞う彼の事だ。情事に誘う言葉のひとつやふたつ、特段、緊張など持たずに居るのだろう。そんな彼に、私の気持ちなんて解るはずがない。―――今にも心臓が飛び出さんとする、緊張が乗ったかすれ声で。彼の服の裾を引っ張っては、おずおずと行為へ誘う。私の気持ちなんて。

「……訊こえてたの」
「ばっちり訊こえてた」

その応えに、身体が瞬間と熱に紛れる。“訊こえてた”と言うのは、先、私が彼を寝室へ誘った言葉の事。あの時、羞恥でどうにかなりそうな躍動をなんとか抑え込み、意を決して伝えた声は。『ごめん、何か言った』と、まるで、空気に分厚い壁がある如く。彼の耳へはとうとう届かず、空振りに終わったと肩を落としたと言うのに。

「ネオの馬鹿、意地悪、最低」
「だからごめんって、君が誘ってくれるのが可愛くて。もう一回、訊きたくなっちゃったんだよ、赦して」

伝わりきらない誘いを口にした所為か。その場に居るすら耐えられなくなった私は、こうして寝室へ避難した訳だが。それはそうと、きちんと声が届いていたなんて、本当に酷いったらない。彼は、不貞腐れた私の機嫌を取りに来たのか、未だ振り返らないこの身体を柔らかな力で抱き締めるのだった。

「酷いわ、凄く緊張したのに……頑張って、声掛けたのに」 
「だからごめんって、謝ってるじゃんか。ねえ、どうしたら赦してくれるのさ」  
「…赦すって。……それじゃあ、あなたから言ってよ」
「え、」
「次は、あなたから誘って」

言葉の最後は、糸のように細く、頼りない声になっていた。けれど、互いの息遣いしか響かぬ静寂な空間なのだ。聞き返されるはずなく、彼の耳に届いているとも。そうなのだ、いつも通り彼から誘ってくれたらいい。流れるような言葉で、特に緊張とは無縁の余裕めいた表情で、いつも通り誘ってくれればいい。私と違って、情事へ向ける言葉など、幾らも持ち合わせているのは明らかなのだから。

「それで赦してくれるの」
「ん…。だって、貴方は緊張なんかしないでしょう、慣れてる方が誘ったらいいわ」

未だ少しの不貞腐れた声色で、彼を背にそう言い放つと、どうした事か。空気が、沈黙に変わる。ふと、先まで優しく抱き締められた腕が力を以てば。それは半ば強引に、私の身体を自身へと向き合わせるのだった。当然、男の人の力に勝てるはずもなくて、短い悲鳴を上げると同時、眼の前に現れた彼の瞳と視線が重なる。暗闇に慣れてきた瞳が映すのは、宝石を思わせる、奇麗な翡翠色だった。

「……あ」
「ほら、訊こえる」
「……」
「俺の胸の音、よく耳充ててごらん」

真正面に合わさった身体のまま、引き寄せられるよう、彼の固い胸板にそっと耳を充てるのだ。瞬間に思うは、確かな躍動。それも、私と同じくらい駆け足である。意外な音に、思わず彼を見上げると。なんだか分が悪いように眉を八の字にして苦笑するのだから、連れ、私の心音も上昇する。

「……凄く、早い」
「そ、俺も君と同じだよ、緊張しない訳ない」
「嘘」
「じゃないって、今、自分の耳で確かめたばっかりだろ」

常、緊張の欠片も見せず、自然とベッドへ誘う彼の言葉からは。本当に、少し足りとも心臓の駆け足なんて訊こえた事など無くて。行為自体、慣れている物だと思っていたし、いつだって余裕綽々よゆうしゃくしゃくだと信じて疑わなかった。それが、どうだろう。私と同じくらいの早さで脈打つなんて。そんなの、初めて。初めて、知った。

「……なんだか、嬉しい」
「そうかなあ、俺は結構、情けないと思っちゃったけど。これでも一応、必死に隠してたからね」
「そんな事しなくていいのに」
「やだよ、幻滅するだろ」
「しないわよ、だって私。今、凄く幸せよ。お揃いみたいで、ね」
「んー、なんだかなあ……格好つかないけど、まあ、いいや」

今日、二度目の溜息をついた彼は。その指先をするり伸ばし、私の顎を捕まえるのだ。そうして、先ほどまで魅せていた奇麗な翡翠色の瞳には。この身を貫こうと鋭い光を宿らせる。まるで、野生動物のそれのように。後、寄せられた吐息混じりの唇は、私の肌と、十分に重なっていくのである。触れると無意識、全身の神経に光が走る感覚。その細い光は、脳を介して血液を巡り、簡単と下腹部へ辿り着く。―――熱い。

「…ん、」
「、舌」

どうしろなんて言われてもないのに、身体は勝手と彼に濡れた舌先を差し出していた。彼もまた、息継ぎの途中で薄い唇を空けると、ぬるり、互いの体液が交わってゆく。ふい、下ろしてばかりいた睫毛をややに上げれば、それは薄暗でも解るほど。紅潮帯びる彼の頬に、私の身体も熱が増す。すると、今にも熔けて駄目になってしまいそうな身を。するり伸びた彼の指先が、シャツをくぐり、滑るよう這ってゆくのだった。

「……きゃ、」
「声可愛いんだから。ね、触ってもいい」
「えっち、……ド変態」

やはり、先に訊いた彼の心音は。どうにか操り、偽った物じゃないかと思えるほど。だってそうだ。緊張している人間が、野生を前面に出して、堂々そんな事を言うだろうか。絶対、絶対、なにか仕組んでいる。けれど、その手品の種が解らない。そう、私が彼の言葉のあとに、眉を潜めている物だから。何か気付きがあったのだろう。彼はひとつ、思い出したかのよう、それはまた奇麗な瞳で覗いてくるのだった。

「嗚呼、そっか、俺、まだ赦されてないんだっけ」
「え、」

瞬間、少し前に、彼へ放った言葉を思い出す。―――“次は、あなたから誘って”

「俺と、えっちしてくれる」

“赦してくれた?”そう、意地の悪い笑みを浮かべる彼の胸板へ、もう一度。掌を静かと充ててみる。しかし、やはり躍動は駆け足のままで。―――全く、本当に解らない。唯一解る事と言えば、この不思議な心臓が、これからもずっと。私を翻弄するという事だけ。
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