短編小説

 治りかけの傷が じくじくと痛んだ。頭では解っている、抵抗すればこの身に生傷が増える事を。しかし、どれだけ脳内で指令を出しても、結局 身体は恐怖に負ける物。脳と意とせず反応する身は、手首に絡まる冷たな手錠に細かく傷付けられゆくのだ。固い手錠を解くなんて困難極まりない。それでも肌が合わさる度、無意識下で外そうと試みる判断は、まだ私の脳内が正常に働いている証拠だと言える。―――まるではりつけだった。

「どうして良い子に出来ないかな」

 抑揚ない声が、薄暗な部屋を巡る。冷房も効いて居ないのにこんなにも身体が震えるのは、寒さからではない。酷く重たい空気が逃げ場を塞ぎ、恐怖を諭しているからだった。容易にむしられた衣服は視線の端に転がり、眼の前に在るは、深淵のよう、黒く深い、瞳だけ。覆い被さる彼を見上げ、視線を合わせるも、全くを以て読めない表情、淡々とした声振り。こうして眉ひとつ動かさないのだから、彼が何を考え私を拘束しているかなど、理解出来るはずがないのだ。

「少し、少しね、外に…出たいと思ったのよ」
「ふうん、理由は」

首を傾げば、上から黒黒とした滑らかな髪の毛が落ちて来る。頬に充たるそれは、柔らかな毛先のはずなのに、針に似た痛みを思わせた。

「…り、理由、お……お花、」
「花」
「そう、お花が欲しくて…だから、外に出たいと思ったの」

でまかせだが、その場しのぎには成るだろう。半分は本当なのだから。―――彼に囚われ、山奥にある仰々しい邸宅に隔離されてから、幾日経ったか。それは、野に花を摘みに行ったある日、偶然と出会ってしまったのが事の始まりである。少し前、ダイニングの花が枯れた事より、新たな花を求め野に降りた。そこで、不審な漢に身ぐるみを剥がされる所、通り掛かった彼に命を救われたのである。その後は容易、要するに、飼われ身として彼にここへ連れられたのだ。

「嗚呼、確かに。君は花が好きだったよね」

薄暗の部屋に閉じ込められてからは、幾度か肌を重ねた。抵抗するその度に、繋がれた手錠が手首に食い込んで、酷い痣を作っていく。飼われた理由は、ただ性処理としての道具とばかり思っていたのだが、情事の際、時折呟かれる「愛している」、「好きだ」そんな言葉に目眩がしては、時に錯覚する。私は、彼の何なのか。性欲処理相手に、人は愛を伝えない物、解らない、本当に、解らない。眼の前に覆い被さる、この漢の正体が、解らない。

「でも、逃げようとした事に変わりはないさ」
「……え…」
「あれだけ教えたよね、二度と僕から離れるなって。外は危ないって」
「…やめて、お願い」

何度も脱走を試みた。固い手錠を床に擦り付けたり、部屋の鍵の掛け忘れに乗じて外へ出ようとしたり。それでも、どんなマジックか解らないが、彼は私が脱走するその時、必ず眼の前に現れるのだ。黒色の瞳に闇を宿して。

「“また”君が居なくなったら悲しいよ」

瞬間、冷たく薄い唇が首筋を捉える。氷を充てられたかと思うほど冷淡なそれは、執拗に紅を浮かばせるよう、きつく痕を残すのだった。唇の間から伸びた舌先がぬるり、皮膚を滑れば、同時に寒さがこの身を襲う。  

「愛してるんだ」
「や、めてよ、……」
「なにが」

おかしい。玩具相手に愛を囁くなど、聞いた事がない。やはり、おかしい、脳が揺さぶられる。頭が、頭が、どうにかなりそうだ。

「好きでもない性処理相手に、掛ける言葉じゃないわ…」
「……」  

駄目だ、これ以上は駄目だ。誰も居ないこの監禁部屋、世界と隔離された異様な状況。そんな中、屈折こそ在るものの、この身に流されゆく彼の熱を。受け止めたならば最後、思わず、私まで同じように呟いてしまいそうになる。駄目だ、駄目だ。

「あなたと居ると、頭がおかしくなりそうよ」

このままではいつか、必ず彼と同じ事を口にしてしまう気がして。それがどうしても受け入れられない。飼われたのち、性処理に充てられ、逃げようとすれば酷く繋がれる。それなのに、―――“愛してる”、いつかそう返してしまう自分が、怖くて怖くて堪らない。脳内は正常に動いてるはずなのに、知らない何処かで歯車が狂いだした音が近づいてくる。ふい、唇を首筋から離した彼が、一つ小さな息をした。濡れた唇が妖艶に見えるのは、やはり。私の頭が少しずつ、どうにかなってしまっている証拠だろうか。

「花」
「…え…」
「花は何が欲しいんだい」
「………え」

唐突な問いに、続きの言葉は浮かばなかった。恐る恐る視線を絡めると解る、これは、真剣な瞳であった。極限の緊張で乾いた口内を唾液で潤し、喉奥へ押し込んだあと。震えを帯びた細い声を彼に向ける。

「………特に、希望は、ないわ…」
「そう」

先まで触れていた首筋が、未だに熱い。きつい痕を付けられた皮膚は、数日経っても消えはしないだろう。私の応えに、彼は僅かと考える素振りをしては。後、覆い被さるその身を退ける。

「花というのは、種類が多くてよく解らないけど、庭に黄色い花が咲いていたかな」
「……」
「それで良ければ摘んでくるよ。要る?」  
「……要る」

特段欲しくはない。ただ、一瞬だけでも彼と離れられるなら、それがいい。しかし何故だろう、この酷い頭痛は。何か、大切な事を忘れている気がする。 

「確か、スイセンだった気がする」
「……スイセン」
「見たらまた、君は僕を思い出してくれるかな」
「………待って、何の、話をしているの……待って、なに、頭が痛い…」

じくじく、じくじく。手首に付いた生傷と共、頭の痛みが増していく。―――“愛してる”、いつかそう返してしまう自分が、怖くて怖くて堪らない。脳内は正常に動いてるはずなのに、知らない何処かで、歯車が狂いだした音が近づいてくる。それなのに、この懐かしい記憶と感覚は何なのだ。彼は私の、何なのだろう。

「君が僕を愛していた記憶の話しさ」

―――スイセンの花言葉。“もう一度愛して欲しい”。彼の表情が、初めて崩れた瞬間だった。なんて、悲しい瞳をするのだろう。私は何か、大切な記憶を忘れて居る気がする、けれど。それが何か、思い出せない。頭痛は、吐き気さえ催した。私は、彼の何。
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