短編小説

 辺り一帯が嫌に熱くて、それはまるで灼熱のように。舞った土埃が眼を過ぎれば、ちくり、痛みが走るのだ。汚れた空気は竜巻のよう旋回し、痛みに変えた激昂が振り落とされる。大災害とも云えよう惨劇を命と引き換えてまで視る勇気はない。反射的に、私の身体はその場を後としていた。息を切らし、薄暗な建物から一歩、肌に陽の光が触れた瞬間。背を押すような爆風が身を仰け反らせる。





***







 消毒液にガーゼ、軟膏に包帯。これだけあれば、取り敢えず応急処置程度にはなるだろう。
 錆びれた貸宿。どこで見つけたのか、既に廃墟と化した其処は、夏であると言うのに幾分、妙な涼しさがあった。部屋のドアノブを回す手前、一応声を掛けてみる。

「ミハ、ねえ、起きてる」

寝ているなら、あとの方がいい。抗争の最中、ふいに彼が生身で受けた傷は相当な物だった。得意のポーカーフェースをそのままに帰り際は案外平然を装って居たが、身体の回復には時間を要すると思えた。傷の手当てより寝ていたい、と言うのなら勿論そうした方がいい。自身の身体の事だ、理解と決定は彼に委ねる。

「寝てるのね」

暫くしても応答がないので、また出直そうときびすを返した時である。背に届くは重たいドアが開く音。そうして無意識に振り返れば、傷口より先に眼に入る彼のずぶ濡れの姿。全身にはだけ、皮膚が一面と晒されているこの状況は一体。頭のてっぺんから脚の爪先まで、漏れなく水滴を纏う様子に。思わず喉奥で声が詰まってしまった。私がだんまりを決め込んでいる所為せい、彼はその白い額に乗る眉を八の字とする。

「いつまで そうしてる気だ」
「あ……ご、めんなさい。ずぶ濡れだから驚いちゃって」
「ここ、まだ水道が生きてるみたいで。ツイてたよ」

 成る程、水浴びか。バスタオルを腰に巻き付けた彼に顎で“入れ”と促される。私は切傷が浮かぶその背に続いて、ドアを締めるのだった。
 部屋に脚を運べば埃を被ってはいるものの、割れた窓硝子より吹き込む風のお陰で、空気の流れはいい。きっと、隙間風なく密室のままなら、積もった埃で咳込んでしまう所だった。薄い背が向かうはシーツのないマットレス。良く見れば、彼が腰に充てがうバスタオルと思わしきそれはベッドシーツを剥がした物であった。

「もう。シャワールームがあるなら、ちゃんとそこで身体を拭いたら良かったのに」

黒色の髪の毛。毛先から落ちる大粒の雫と、半端に拭いた身体から滴る水が、床を引きっていく。世辞にも綺麗とは言えない廃墟であるのだ、そこを裸足で歩くのだから、足裏には汚れが張り付く事。これでは折角の水浴びが勿体無い。するとマットレスに腰掛けた彼は、一つ。細い溜息を吐くのだった。

「いや、お前が帰ろうとするから」
「え、」
「……勝手に入ればいいのに」

それじゃまるで。私を引き留める為に慌ててシャワールームを出て来た、そんな言い方ではないか。ドア先から声を耳にし、素早く蛇口を捻り水を止め。肌に在る水滴を十分と拭う事なく、咄嗟。眼に触れたベットシーツを剥がし纏わせては、あのドアを。もし、もしもそうだとしたら、こんなに嬉しい出迎えは他にない。怪我人を前に申し訳ないが、上がる口角を自身でどうこうするには難しかった。

「何、笑ってんだか」
「ごめんね、嬉しくて、つい」
「は?」
「何でもない。さ、傷口の手当てをさせて」
「……本当、解んない奴だな」
「あなたもね」
「喧嘩売ってる?」
「違うわよ」
「売るなら、買うけど」
「だから、違うってば」

可笑しくなって吹き出すと、彼はあからさまと不機嫌を決め込むのだから、これまた可笑しな事。声を出して笑えば、次は部屋から出て行けと追い出されるに違いない。私は小さな嬉しさで込み上げた笑みを必死と固め、後。彼の隣に腰を下ろしては、持って来た応急処置道具を広げるのだった。―――消毒液にガーゼ、軟膏に包帯。新品のそれらから仄か香るは、病院を彷彿とさせる物だった。この時改めて、彼が手当てをしなければならない怪我人だと思い知らされれる。無事で、無事で良かった。ガーゼに適量の軟膏を薄く伸ばしていると、彼は面倒な面持ちで息をつく。

「こんなの、唾付けて寝てれば治るってのに」
「何言ってるのよ、犬や猫じゃないんだから」

億劫な様で在るものの、明らかな拒否を見せず、ただ大人しく其処に居る。言葉はなくも、二人の関係を表すには十分だった。

「先に消毒するわね、少し染みるかも」

軟膏を塗ったガーゼより先、彼が水浴びで綺麗と汚れを落とした肌へ消毒液を吹きかける。一応顔色を伺い処置を成すが、貫くは無言。傷口に染み、あるいは稲妻のような痛みが神経を駆け巡っている事だろう。しかし特に不動とする表情は、少しの痛みすら感じさせない。それでも、ほんの一瞬。瞳の端で捉えるは、その細い眉が短く揺らぐ様。当たり前だ、生身で相当な傷を負ったのだ。平然で在る方がどうかしている。

「ごめんね、痛いわよね。あとはガーゼと包帯巻くだけよ、もうすぐ終わるから」
「全然、むしろ痒いくらいさ」

眉間の歪みを嘲笑を浮かべる事で擬態させている。恋人の前なのだ、強がらず痛い時は痛い、辛い時は辛いと言ってくれて構わないのに。この漢の痩せ我慢と来たら、苦笑が零れるほどに。後、消毒した皮膚へ軟膏が付いたガーゼを充てがい、新品の包帯を巻いてみせる。

「どう、きつくない」
「緩いよりは、きつい方が好み、かな」
「………、最低」
「包帯の話しをしているんだが。逆にお前は何を連想した、ん?」
「…もうやだ、…意地悪」
「褒め言葉をどうも」

からかわれ、かわされて、大概いつも彼の掌の上で転がされる始末。時に羞恥、時に悔しいが、これはどうやっても勝てそうにないのだから、半ば諦めが肝心である。

「ねえ」

諦めが肝心であるが、そんな漢を好きになってしまったのだから。どうもこうも無い。私は、彼の傷を負った肌に頬を寄せるのだ。温かい。きちんと血の通う、人間の温かさのそれ。―――生きてる、ちゃんと生きている。肌から、皮膚から巡る心臓の躍動が、彼の生を強く証明していた。この温もりが消えるなど、考えただけで酷く息苦しい。

「無事で良かった」

濡れた毛先からは未だ、ぽつり、ぽつりと。拭わぬ雫が溢れ落ち、私の頬へと流れてくる。雨みたいだと思った。静か、安らかに途切れなく流るる恵み。なんて、心地良い。微か、傍で聞こえる彼の息遣いと、肺が上下する胸板、肌から伝わる確かな熱。全てが心地良くて、まるで雨だと。そう思った。

「馬鹿」
「………」
「俺がお前を置いて、逝く訳がない」

心臓が、きつく締め付けられた。“好きだ”、“愛してる”そんな言葉よりも遥か。胸に届く口説き文句のようなそれは。躍動を早めさせるに十分過ぎて。ふい、するりと、彼の白い指先が伸びては、私の顎を捕まえる。そうして引かれゆく行先で、互いの唇は重なりゆくのだった。―――どうしよう、熱い。熱い、熱い。怪我をしている所為、炎症の反応で熱が出たのではないか。傷口から細菌に感染して、発熱しているのではないか。様々な不安要素が脳裏を過る中、眼の前の情景は一変。いつの間だろう、天井を見上げ、彼が私に覆い被さって居る。無論、押し倒された事へすら気付かなかった。

「待って、……」

唇が離れるも、互いは透明の糸で繋がれて居るまま。待てと口にしたものの、見上げた瞳は恍惚。駄目だ、そんな視線を充てられ平常で居られる程、私はお利口でも何でもない。他ならぬ彼が其処に居て、肌が、唇が触れゆく時に。その白い首筋へ手を回せずには居られないのだ。言葉と行動がまるで乖離している。

「怪我、酷くなったら、きっと私の所為ね」
「半分、不正解」
「……正解は?」
「二人の所為」

天気予報では一日晴れのはずだったが、通り雨だろうか、外は雫に埋もれている。そしてこちらもまた、覆い被さる彼の毛先より。拭い切れずに今も尚 落とされ続ける冷たい雫が、頬を撫でるのだった。それは、安らかに途切れなく流るる、恵み。次に唇が重なる音は、雨の音に掻き消されていた。
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