短編小説


「おいコラ、なにしとんねん」

 部活終わりの彼を校門で待っている時だった。―――夕刻を過ぎてもまだ暑い九月。日中より幾らか気温は下がったものの、分厚い湿気が肌に纏わり付いて。かげる途中の頼りない太陽が、この皮膚に執拗と汗を上らせていく。もう暦上は秋だし、鬱陶しい暑さにも飽きてきた所だ、大概、涼しくなって欲しいもの。あと幾つ寝れば過ごしやすくなるのか、早く冬にでもなってほしい、そう頭に巡らせていた最中である。この逆上せた身体から瞬間にして熱が引き、一気に芯から冷えてしまうよう出来事が、丁度、今。目の前に在った。

「…柏、原」
「なんもされてへんな」
「ん、」

彼を待つため立っていた場所がいけなかっただろうか。いや、特別目立つ所でも何でもない、ただの学校の校門前である。彼が駆け付ける少し前だ、他校の男子生徒に声をかけられたのは。無意識、声に反応すれば、話しの内容はただの道案内についてで。けれど、制服を見れば近場の高校だとすぐ察しが付いた事から、それが下手な軟派と理解するのに、然程さほど時間を要さなかった。後、何処を触ったかも解らない男の手が、私の手首を掴まえようと腕を伸ばしかけた時。夏の暑さに湧いた汗は、一気に冷えてどこかへ蒸発する。代わり、皮膚を這うのは、芯から凍る冷や汗。途端、逃れようと後退あとずりをすると、壁を思わせる固いなにかが、この背に充たった。―――彼の、匂いがした。

「ええか、今度、俺のもんに手え出してみい」

背に感じる温かなそれは、足早に駆け付けてくれたからだろうか、胸板が大きく上下する様に、心強さで安堵が落ちる。背を振り返る矢先、彼の腕が私の肩を半ば強引に掴んでは、自身の後ろへ隠すのだ。なんて、逞しい。

「問答無用で、タマ取るで」

他校の男子生徒が、どんな表情をしているかは、頼りがいのある背に隠れ解らなかった。ただ、彼が見せる瞳は、虎のそれである。怖気づく様子は想像に容易い。そうして、彼が一言脅し文句を流すと同時、足音は、はたはたと。その場をすぐに遠くへ忍ばせて行くのだった。





***





「すまん、俺が少し遅うなったばっかりに」
「違うわよ、本当に平気、何もされてないから」
「今度から校門じゃなくて教室居てくれ、部活終わったら、俺の方から向かえ行くわ」
「大袈裟なんだから」

既、軟派な男の足音は去ったと言うのに。しばらく経ってから家へ送ると警戒を重ねては。皆があとにした部室内に二人、身を寄せている。彼があれだけ脅した訳なのだから、きっと、後を追ってくる事はないだろう。帰り道を辿れぬよう時間差で帰路へ着こうと提案してくれたのは流石と言えるが。やはり、少しばかり大袈裟な気もする。

「大袈裟やあらへん。さっきからずうっとやで」

陽が落ちた九月、先までの暑さは何処いすご。湧いた汗が冷えたのか、急に気温が落ちたのか、どちらか定かでないこの身体は。全く、彼の言う通りだった。

「震えとるん」
「柏原……、怖った」

平気、平気と言い聞かせていた身体だが、どうも、簡単に言う事を利いてくれるほどお利口な造りではなくて。先に察したのは、湧き上がる気持ちを抑え込んだ自身より、彼の方が余っ程、正確で早かった。瞳の端、自然に滲んだ熱い水を指で受け止めていれば、瞬間に濃くなる匂いに、彼を感じる。

「おいで」

冷えて、震えた身体に伝わる、穏やかな体温は。いつも私を覆い護ってくれる、まるで太陽のような特別。そんな、温かさ。―――“来い”でも、“こっちきい”でもなくて、優しさに溢れる“おいで”、そんな一言は。甘え、寄り掛かるには十分で。胸板に顔を埋めると、彼の腕が頭に伸びては、その固い指先で、優しく髪をいてくれるのだ。

「あんまり泣くと、目え腫れるで」
「もう腫れてる」
「うわ、勘弁してや。家送ったあと、お前のオカンにどつかれるやろ」
「いてこますかもよ」
「もっとアカンやん」

彼の声がすぐ傍にあって、宝物を扱うように抱き締められていると。肌を介して熱が移ったのか、間もないうち、身体に体温が戻ってくる。同時、無意識に震えていた身も、不思議と落ち着きを取り戻すのであった。しかし、目に浮かんでいた涙の所為せい、瞳の奥が酷く熱い。この感覚は恐らく、充血に加え、瞼が腫れてる証拠。丁度胸板に顔を埋めているからいいが、こんな顔、見られたら堪ったものじゃない。そんな中、図ったようなタイミングで、彼の声が上から落ちてくるのだった。

「涙、止まった?」
「ん、もう大丈夫」
「ホンマか、どれ、見してみい」

彼は今の今まで優しく抱いていてくれた肩を剥がすよう、割いては。半ば無理矢理と俯く私の顔を覗こうとするので、慌て。両手で腫れた瞳を覆い隠す。

「や、今、凄いブスだから、」
「ええから、ほら」
「やだってば…、見られたくない」

瞬間、瞳を隠していた両手は、彼の手により捉えられるのだ。当然、男の人の力に勝てるはずもなくて。晒した瞳に彼が映れば、恥ずかしさから身体の火照りが増していく。そうして、逃れられない状況下。視線だけでも反らそうとした矢先である。まばたきに落ちた瞼へ静か、彼の唇が触れるのは。固い胸板、固い指先からは想像もつかないほど、柔らかなそれ。私は、驚きに勝り、もう一度。彼と視線を重ねる。

「見られて堪るか、こんな可愛いの」
「………」
「俺だけ知っとればええんや、誰も見せる訳ないやろ」

外は、だいぶ涼しくなって来たようで。耳をすませば、秋らしく。鈴虫の鳴き声が響いていた。少し冷たな風に充たりながら、家までゆっくり歩いたなら、瞼の腫れも引いてくれるだろうか。彼もまた、壁掛け時計へ目を配っては、そろそろかと部室の鍵をその手に取る。けれど、もう少しだけ。もう少しだけ傍に居たい。本当に、もう少しだけでいいから。穏やかな体温をもう一度、この身に。―――私は、部室の扉へ向う彼の背中へ、緊張に乾いた声を投げるのだ。

「ねえ、」
「んん?」
「もう少しだけ、一緒に居たいな」
「……」
「駄目、かな」

私の呼びかけに、彼は少しの沈黙のあと。白い八重歯を見せては、眉を八の字に笑ってみせる。

「しゃあないやっちゃな。ほなら、も少しだけ、一緒にいよな」

その代わり、オカンに怒られんのは二人同時やで、と念を押してくる彼に可笑しくなって。つい、小さく吹き出してしまった。彼は部室の鍵を掌から離したあと。その体温帯びる腕を伸ばし、また。私の身を抱き寄せるのだ。そうして落ち着く匂いを手前、胸板に額を預けては、ぽつり、返しようのない質問を投げかける。

「“もう少し”ってどのくらい」
「“一生”じゃ、足りん?」

間が空く事なく、そう応えてくれた彼の胸板へ、また。温かな水が零れゆく。腫れた瞼を冷やすのに、もう少しだけ、こうして居たい。
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