短編小説


 軽快とグラスを鳴らす音に、何度耳を傾けた事だろう。当初、心地良く聞こえたそれは 段々に頭の芯を鈍く揺らす、不快な物になっていて。―――某大学理学部に入学後、慣れない環境と生活スタイルは、自分でも気付かぬうちに小さな疲労を重ねていた。折角の華やかなキャンパスライフだ、部活やサークルに所属し、バイトもしてみたりして。憧れの大学生活を過ごしてみたいと思っていたのだが。現実はそうそう甘くはない。一年時の講義は殆どが基礎であるものの、英語に情報処理、物理序論にTOEICと来た。今のうちに基盤を固めて置かなければ、ニ年時に大変となる事は明らか。特に英語は力を入れておきたい所、今日も講義後は図書館で勉強しようと思っていた。そんな矢先。

「本当にごめんね、急に合コンなんて誘っちゃって」
「ううん、気にしないで。どうせ予定なかったし、数合わせくらないなら平気だから」

隣に座る彼女は、度々講義が重なり仲良くなった女子の一人だ。眉を八の字、申し訳なさそうと小声で謝るその様子へは、到底、ありきたりな言葉返しが精一杯である。事は単純、学部内で男女たちが合コンをセッティングしたらしいのだが、急遽一人の女子が参加出来なくなってしまったとの事で。要は頭数に連れられたという訳だ。取り敢えず、勉強の根詰めも良くないと判断した私は、息抜きに美味しい物でも食べようと半ば軽い気で誘いを受けたはいいものの。どうも賑やか過ぎて駄目だ。

「ごめん、今度カフェ奢るから」

しかし、こう何度も謝られると 途中で帰りたい、とは言い辛く。ただ愛想笑いを浮かべ一時間ほど経つが、徐々に頬も痺れ始めて来た。今度誘いを受けたなら、その時はきっぱり断りを入れよう。それにしても。―――嗚呼、何処か静かな場所へ行きたい。出来れば、行き交う声も、流るる風音も響かない、真空のような場所がいい。静かで、日々の焦燥さえ取り除いてくれるような、そんな場所が。

「悪い、一足先に抜けてもいいか」

瞬間に響いたのは、とても心地の良い音だった。不快なグラス音も、賑やかに飛び交う声も、全てを霞ませるような、心地良い、落ち着いた声。ふと、その声は対面に座る彼だと知る。彼の事は以前より 講義で見掛けて居た。高校生活では、部活動の主将を務め、部を全国優勝へ導いたと言う、学部内でも名が知れるちょっとした有名人である。この店に着いた際、彼の参加を目にし驚いたのは事実。堅物そうな外見に反し、合コンに参加するとは意外であったが、人は見た目に寄らない物だ。

「ええ、やだやだ、帰っちゃうの」
「すまない、まとめて置かなければいけないレポートがあってな」

身支度を整え始める彼に、女子たちの小さなブーイングが飛ぶ。それもそうだ、体躯も良いし、顔も良い。講義中も至って真面目で、スポーツの才に長けている、たまにお茶目な一面で周りを明るくさせ、面倒見も良いと来た。こんなの、周りが放って置く方がおかしい。しかし、そんな事はお構いなしと、爽やかな表情を崩さない彼は、きっと何処へ行っても人気者に違いない。恐らくは、彼目当てで参加した女子が殆どと言って良いだろう。そう、整った顔立ちをただ無意識に見つめていた時だった。

「そうだ、君も確か。明日、同じ講義でレポートの提出があるだろう」
「……え、…」

突然の問い掛けに上手く反応が出来ず、喉奥から出た声は、情けない上擦った物だった。そんな中 記憶を探るも、特に明日提出するようなレポートは無かったはず。誰か別の女子と勘違いしているのだろうか。前述を口にしようとした時だった、彼の眼鏡の奥にある綺麗な瞳が、一つ。短く合図をくれる。なるほど。

「…そ…そうだった、危ない。あのレポート忘れちゃうと大変なのよね、すっかり忘れてた、ありがとう」
「どういたしまして。そう言う訳で、彼女と二人、先に帰らせて貰っていいか」

彼は女子の幹事に同意を得ると、私に帰り支度をするよう視線で促す。流石と思った。






***






「え、貴方も数合わせだったの」
「そりゃ、そうさ。そもそもそう言う柄じゃない」

 この日、彼が車通学だった事から、助手席に乗せられ 有り難い事に自宅まで送って貰う運びとなった。私がシートベルトをきちんと締めた所で、緩やかにハンドルを切る彼の横顔に何故か心臓が駆け足となっていく。―――彼が口にしたレポートとは、勿論帰る事への口実だった。彼によれば、向かいに座る私の表情に曇りがある事から、同様の数合わせだと察しがいったらしい。良く気が配れる物だと、関心してしまうほど。誘ってくれた女子には申し訳ないが、彼のお陰で予定よりも早く抜け出す事が出来た。今度何か、礼をしなくては。そんな事を頭に浮べ、真っ直ぐ、暗い夜道を暫く走った所だ。

「すまないが、ほんの少しで良い。寄り道してもいいか」
「……」
「安心しろ。二人きりという理由で、変な気はない」
「わ、私、貴方の事、そんな人だと思ってない」
「なら、三十、いや、十五分でいい。今日はこの為に車で来たんだ、少し付き合って欲しい」

理由は解らないが、首を縦に振った所で 彼は車のハンドルを回していく。青色の標識に視線を向けると、行き先は海岸だった。海水浴には、まだ早いと言うのに。
 静寂な中に流るる波音が、心を穏やかにしていく。彼の運転する車は、予想通り海岸へ到着し、エンジン音が切れると同時。押しては引く波の囁やきが、より一層と神経に落ち着きを与えてくれる。

「下りないの」
「ああ、下りない。さ、座席を倒して見るといい」
「……ん」

シートベルトを外し、彼に習って座席を最後まで倒し この身の全てを預けた。すると、彼に手により、車内のサンルーフが開放されるのだ。それは思わず、言葉を失う程。

「………綺麗」

外されたサンルーフ。車内の天窓からは、澄んだ星灯りが注ぎ込み、柔らかな光がこちらへ落ちてくる。まるで、プラネタリウムだった。

「今年は月明かりの影響が殆ど無くてな。条件よく観察出来るそうだ」
「なにが」
「すぐに解るさ」

瞬間、視線を過っていったのは、一粒の流れ星。驚きが勝り、言葉を失っているのも束の間。それはまた、一つ、また一つと。加減を忘れた星たちが、地球に光の雨を降らせるのである。しばたかせた眼を大きく見開いていれば、隣に寝転ぶ彼が 落ち着いた声色を響かせて。

「丁度、水瓶座の流星群が見れる貴重な日だったんだ。街の明かりが強いと見え辛いだろう、その点、海岸での観測は最適だ」

今日に限って車通学した理由に合致がいった。それに、座席を倒せば首を常に上げる事なく寝ながら天体観測が出来る。
 降り始めた流星群は、留まる事を知らず瞳に落ちて来ては。聞こえる波の心地良さと交差して、静寂に、そうして確かな特別を与えてくれている。そんな幾度も零れる星々に、視界が一杯になった頃。

「さて、約束の十五分だな。車を出そう、付き合って貰って助かったよ、ありがとう」

彼は腕時計に目に、座席を起こしては。車へエンジンをかける準備をするのだ。なんて誠実なのだ。星に見惚れていた私を他所よそ、自身の楽しみの為に足を運んだにも関わらず。始めに約束した十五分という時間をきっかり護るなんて。憧れたキャンパスライフ。いい加減な事はしたくないし、勉強だって怠りたくない。それでも。日々の焦燥が消えるていくこの感覚に、まだ身を置いていたい、この想いは、我儘だろうか。

「ねえ、」
「どうした」
「………延長って、あり、かな」
「なに。時間、無制限さ」

―――何処か静かな場所へ行きたい。出来れば、行き交う声も、流るる風音も響かない、真空のような場所がいい。静かで、日々の焦燥さえ取り除いてくれるような、そんな場所が、“ここ”にはあった。
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