短編小説
「眠れないのか」
足音を殺して部屋まで向かったと言うのに、まるで私の訪れを既知として居たよう。本を片手、ベッドに腰掛ける彼の視線はこちらに注がれて居た。「ええ」そう短い返事で応え、彼の近くへ歩みを寄せる。蝋燭の灯りが、空気の振動に揺れていた。
「奇遇だな、俺もだ」
黒い瞳が手元の本へ充てられて。相変わらず、本が好きな事だ。ふい、追っていた文字から視線を離し、その眼はベッド端の空間へ送られる。彼が流した合図と共、私は固いベッドへ腰を下ろすのだった。ふわり、近づくとよくよく解る、彼の匂い。それは何処か優美で、謎めいて居て、やや湿度の高い、薄い霧に包まれよう、不思議な安心感。腰を下ろしたは良いものの、特に会話が弾む訳でもなく。ただに彼は、眼の前の本を見つめている。
「夜って、たまに不安になるの」
「何故だろうな」
「解らないわ。静か過ぎるのがいけないのかしら」
「成る程」
サイドテーブルに灯る蝋燭。本を読むには心做 しか頼りない気がした。けれど、この部屋の窓にカーテンは無い。窓から注ぐ星芒が、不足分の明かりを補っているようだった。確か、今日は満月。―――隣、はらり、はらりと。一枚一枚丁寧に捲られる本。その音は、この静寂たる夜に丁度いい安寧。気に障る響きではなく、一定と刻まれる時計の秒針に似て、とても心地良い。
「なら、必要なのは安堵だろうか」
唐突の言葉に、思わず思考は停止した。はて、何の話しだろう。首を傾いでは、彼を見つめる。絡まった視線は、揺るぎない直線であった。そうして、脳内。すぐ巻き戻しを行えば、前述、先に伝えた私の声への応えであると理解に及ぶ。
「そうね、でも。その音」
「音、」
「そう。貴方が本の頁 を捲る音が、とても心地良い。安心するわ」
まるで真空の如く、一つの音さえ無い真夜に。一定に流れる時の頁。床へ着くには煩 くても、静か過ぎても駄目で。だから、空気を畳む控え目な本の音は、心穏やかになれる。響くは、頁が掠れる音と、彼と私の息遣い。ただそれだけ。
「俺も」
「……」
「俺もそう思う」
「そう」
暫く合わさった視線は、私の方から逸らした。黒黒とする深い底に落ちてしまいそうだから。だから、逸らした。すると、彼は何かを思い出したかのよう、短な声を寄せるのだった。
「どうしたの」
「この本、栞がないな」
「紐、付いてないの」
「ああ。紙の栞が合ったはずが、何処か落としたらしい」
栞を挟むと言う事は、当たり前だが本を閉じる意。眠れぬ夜、静か過ぎる夜に、折角。心地良い音を耳に充て、眠りに繋げようと思ったが。しかし彼もまた、きりが良い節であるのだ。そのまま読み続けて欲しい、と言うのは単に私欲の我儘でしかない。ふと、気付けば彼の匂いが濃くなった事に気付く。無意識と隣へ眼を配ると、それはまじまじと。私を捉えて離さぬ深い、深い視線。―――飲み込まれそうだった。
「なに」
「お前が付けているペンダント」
「……これが、どうかした」
胸元へ目線を落とす。首から胸へ掛け 控え目に色を成すのは、いつから身につけて居るかも記憶にない、細いチェーンのペンダント。特段、高値の代物でない、何処にでも売っているシンプルな物だ。しかし、何か気になる造りであったろうか、そうは思えないが。瞬間である、彼の綺麗な指先がするり伸びて来たのは。
「……ヤスオミ」
それは、真昼の太陽にも似た熱。陽が落ち、静か、黒に染まる夜だと言うのに。其処に在るのは、確かな。陽を想わせる存在感、そんな、熱。
「このペンダント。今晩、預けてくれないか」
「これ、良いけれど。どうして」
応えを聞く手前。首筋を伝い熱が這う。首後ろ、彼は片手の指先だけで、器用に。私の身に付けるペンダントのクラスプを優しく奪うのであった。解けたそれの行先を眼で追えば、それは彼が今まで読んで居た本の隙間へ落ちてゆく。―――栞だ。
「栞代わりね」
「身近で丁度良かったんだ、一晩でいい」
「いいわよ、そのままあげるわ」
「…いいのか」
「ええ、そんな物で良ければ。特に高くも、思い入れがある物じゃないし」
ペンダントを間に、分厚い本を閉じる。サイドテーブルへ置くと、また。揺ら揺ら、揺ら揺らと、蝋燭の灯りは穏やかと揺れた。静かな夜だった。後、彼は暫く考え込んだあと、もう一度と。その繊細な指先をこの肌へと寄せる。
「では明日、お前に似合う物を。俺が買い与えよう」
「平気よ、気を遣わないで」
触れられた肌。意識しなければ、思わず戸惑いの吐息が漏れてしまいそうな程。優しく、温かく、それで落ち着かない。夜は幾分、心拍が穏やかになるはずなのに、皮膚に埋まる心臓が段々に足早になるのを止められずにいた。いくら薄暗な部屋とて、これ以上は頬の紅が明瞭となってしまう。咄嗟、触れられている指先を払おうと、この首筋に腕を伸ばした時である。
「俺が、そうしたいんだ」
焦燥と伸ばした手は、彼の大きな掌に捕まった。視線を絡めると、其処に在るは、黒黒とする深い底。覗いたら、何処までも続いていくような、まるで夜の空。待てば、月さえ浮かんでしまうだろうか。それ程までに―――綺麗だった。
「……」
「嫌か」
「嫌じゃない」
首を横に振ると、彼は少しばかり口角を上げ。再度、蝋燭の近くに置いた読み掛けの本を手にする。そうして、私が預けたペンダントの頁から一枚、また一枚と読み進めるのだ。
「決まりだ。今からどんな物が良いか、考えて置くといい」
不思議な程、静かな夜だった。昼間に響く街の喧騒も、野良猫や鳥の鳴き声一つしない、静かな夜。細い風でも吹いてくれれば、窓硝子が刻むよう揺れ無音では無くなるが。まるで真空、少しの音さえしない。寝るには最適な環境と思うも、幾分、静か過ぎるのも駄目だ。しかし、今はどうだろう。眠れない理由は、静けさだけでは無さそうだ。
「おかしいわ、愉しみで眠れなくなりそう」
「奇遇だな、俺もだ」
頁を捲る音が、時を刻む。眠れぬ夜も、たまはいいだろう。
足音を殺して部屋まで向かったと言うのに、まるで私の訪れを既知として居たよう。本を片手、ベッドに腰掛ける彼の視線はこちらに注がれて居た。「ええ」そう短い返事で応え、彼の近くへ歩みを寄せる。蝋燭の灯りが、空気の振動に揺れていた。
「奇遇だな、俺もだ」
黒い瞳が手元の本へ充てられて。相変わらず、本が好きな事だ。ふい、追っていた文字から視線を離し、その眼はベッド端の空間へ送られる。彼が流した合図と共、私は固いベッドへ腰を下ろすのだった。ふわり、近づくとよくよく解る、彼の匂い。それは何処か優美で、謎めいて居て、やや湿度の高い、薄い霧に包まれよう、不思議な安心感。腰を下ろしたは良いものの、特に会話が弾む訳でもなく。ただに彼は、眼の前の本を見つめている。
「夜って、たまに不安になるの」
「何故だろうな」
「解らないわ。静か過ぎるのがいけないのかしら」
「成る程」
サイドテーブルに灯る蝋燭。本を読むには
「なら、必要なのは安堵だろうか」
唐突の言葉に、思わず思考は停止した。はて、何の話しだろう。首を傾いでは、彼を見つめる。絡まった視線は、揺るぎない直線であった。そうして、脳内。すぐ巻き戻しを行えば、前述、先に伝えた私の声への応えであると理解に及ぶ。
「そうね、でも。その音」
「音、」
「そう。貴方が本の
まるで真空の如く、一つの音さえ無い真夜に。一定に流れる時の頁。床へ着くには
「俺も」
「……」
「俺もそう思う」
「そう」
暫く合わさった視線は、私の方から逸らした。黒黒とする深い底に落ちてしまいそうだから。だから、逸らした。すると、彼は何かを思い出したかのよう、短な声を寄せるのだった。
「どうしたの」
「この本、栞がないな」
「紐、付いてないの」
「ああ。紙の栞が合ったはずが、何処か落としたらしい」
栞を挟むと言う事は、当たり前だが本を閉じる意。眠れぬ夜、静か過ぎる夜に、折角。心地良い音を耳に充て、眠りに繋げようと思ったが。しかし彼もまた、きりが良い節であるのだ。そのまま読み続けて欲しい、と言うのは単に私欲の我儘でしかない。ふと、気付けば彼の匂いが濃くなった事に気付く。無意識と隣へ眼を配ると、それはまじまじと。私を捉えて離さぬ深い、深い視線。―――飲み込まれそうだった。
「なに」
「お前が付けているペンダント」
「……これが、どうかした」
胸元へ目線を落とす。首から胸へ掛け 控え目に色を成すのは、いつから身につけて居るかも記憶にない、細いチェーンのペンダント。特段、高値の代物でない、何処にでも売っているシンプルな物だ。しかし、何か気になる造りであったろうか、そうは思えないが。瞬間である、彼の綺麗な指先がするり伸びて来たのは。
「……ヤスオミ」
それは、真昼の太陽にも似た熱。陽が落ち、静か、黒に染まる夜だと言うのに。其処に在るのは、確かな。陽を想わせる存在感、そんな、熱。
「このペンダント。今晩、預けてくれないか」
「これ、良いけれど。どうして」
応えを聞く手前。首筋を伝い熱が這う。首後ろ、彼は片手の指先だけで、器用に。私の身に付けるペンダントのクラスプを優しく奪うのであった。解けたそれの行先を眼で追えば、それは彼が今まで読んで居た本の隙間へ落ちてゆく。―――栞だ。
「栞代わりね」
「身近で丁度良かったんだ、一晩でいい」
「いいわよ、そのままあげるわ」
「…いいのか」
「ええ、そんな物で良ければ。特に高くも、思い入れがある物じゃないし」
ペンダントを間に、分厚い本を閉じる。サイドテーブルへ置くと、また。揺ら揺ら、揺ら揺らと、蝋燭の灯りは穏やかと揺れた。静かな夜だった。後、彼は暫く考え込んだあと、もう一度と。その繊細な指先をこの肌へと寄せる。
「では明日、お前に似合う物を。俺が買い与えよう」
「平気よ、気を遣わないで」
触れられた肌。意識しなければ、思わず戸惑いの吐息が漏れてしまいそうな程。優しく、温かく、それで落ち着かない。夜は幾分、心拍が穏やかになるはずなのに、皮膚に埋まる心臓が段々に足早になるのを止められずにいた。いくら薄暗な部屋とて、これ以上は頬の紅が明瞭となってしまう。咄嗟、触れられている指先を払おうと、この首筋に腕を伸ばした時である。
「俺が、そうしたいんだ」
焦燥と伸ばした手は、彼の大きな掌に捕まった。視線を絡めると、其処に在るは、黒黒とする深い底。覗いたら、何処までも続いていくような、まるで夜の空。待てば、月さえ浮かんでしまうだろうか。それ程までに―――綺麗だった。
「……」
「嫌か」
「嫌じゃない」
首を横に振ると、彼は少しばかり口角を上げ。再度、蝋燭の近くに置いた読み掛けの本を手にする。そうして、私が預けたペンダントの頁から一枚、また一枚と読み進めるのだ。
「決まりだ。今からどんな物が良いか、考えて置くといい」
不思議な程、静かな夜だった。昼間に響く街の喧騒も、野良猫や鳥の鳴き声一つしない、静かな夜。細い風でも吹いてくれれば、窓硝子が刻むよう揺れ無音では無くなるが。まるで真空、少しの音さえしない。寝るには最適な環境と思うも、幾分、静か過ぎるのも駄目だ。しかし、今はどうだろう。眠れない理由は、静けさだけでは無さそうだ。
「おかしいわ、愉しみで眠れなくなりそう」
「奇遇だな、俺もだ」
頁を捲る音が、時を刻む。眠れぬ夜も、たまはいいだろう。