短編小説

 星明かりをこんなに寂しいと感じたのは初めてだ。見知らぬ街、初めての一人暮らし、慣れない通学路、名前の知らない店。毎日が、焦燥する私の気持ちを置いてけぼりにして、ただ平然と進んで行く。唯一 安らぐのは、壁に寄せたベッドから見える 夜空に浮かぶ星明かり。これだけは、何があっても絶対に変わらない景色だ。

「アイツ、元気かな…」

ふと、二つ歳下の恋人を胸に想う。卒業する前までは、時間が許す限り、山道を辿っては二人頭を揃え星空を良く眺めに行ったものだ。冷たい草の上に身を預け、触れた手を絡ませ、何度もキスをして。容易に思い出せる彼の柔らかな唇。情景を浮かべると、それは次第に頬に熱を持たせた。しかし、そんな唇の感触でさえ、今は遠い昔に感じてしまうのもまた、私たちが中距離恋愛になってしまったのが原因で。

「電話したら、出てくれるかな…」

先程から携帯を眺めては、彼に繋がる着信ボタンを押して良いものか。考えを巡らせては、もう三十分ほど時計が進んでいる。二年に上がった彼は、既に夏のインターハイのレギュラーメンバーとして選抜されていて、常勝の名を背負い、日々練習に明け暮れているらしい。普段は余裕な笑みを見せ走る彼も、過酷な練習により一層、部活動への熱を注いでいるとか。

「邪魔になりたくないけど…たまには良い、よね…」

姿が見えない分、今、彼がどんな様子でいるのか上手く想像出来ず。疲れて身体を休ませている頃かもしれない、昼夜問わず練習しているかもしれない、そんな事を考えると、いつの間にか“寂しい”と言った自分本位な理由で電話を架けて良いものか、戸惑いを感じる事も多くなっていた。しかし、慣れない大学生活、当たり前だがいつも隣に居てくれた彼は居なくて。この頃はめっきり連絡が取れていない分、孤独さだけが増していき、最近は心にぽっかり穴が空いたような気分になっていた。三十分間悩んだ末、意を決し、 私はとうとう震える手を伸ばし彼に繋がるボタンを押そうとした。瞬間。

「…!……」

手にしていた携帯が震えると同時に、画面上には彼の名が表示され。早まる心臓の鼓動を落ち着かせ、一呼吸置いたあと、恐る恐る携帯を耳に当てた。

「も…もしもし」
「…あ、やっと出た。先輩」 
「…………」
「どう、埼玉の大学は慣れた?」

久しぶりに聞いた彼の声は 窓から見える星明かりと同じよう、何も変わってなどいなくて。嬉しさと安堵で、思わず鼻がつんとし、瞳の奥が熱くなるのを感じていく。

「……うん。ぼちぼち、かな」
「…先輩、声どうしたの、もしかして眠かった?」

涙声になってしまっているのを気づかれないよう、慌てて声色をつくろった。

「ううん、まだ日付変わる前だし 起きてたよ。……こんな時間にどうしたの?」
 
問いから 少しの沈黙のあと、耳元で落ち着いた優しい声が響く。

「……うん。なんだか、声が聞きたくて。先輩の」

その言葉に、今度こそ瞳にとどめて置いた涙を我慢する事が出来なくなり。それは頬を伝って静かにベッドを濡らしていった。

「先輩。最近、メールも電話も出来なくてごめん。当たり前だけど 練習がきつくて。二年になってから、情けないほど余裕がなくてさ…。…格好悪い話を聞かせるの、凄い恥ずかしいから…先輩に連絡出来なかったんだ…。ごめん」
「……うん」
「彼女にはさ、やっぱり格好いい所だけ見せたいんだよ。俺も一応 男だから」

電話越しでも分かる、彼の表情。きっと、少し寂し気に、眉を八の字にして苦笑している。

「でもね。最近先輩からの連絡も減っちゃってたし。…見えない分、ちょっと不安でさ…。もう、格好悪くてもいいやって思って、こんな時間だけど電話しちゃった」

胸が苦しくなった。不安を感じているのは私だけじゃない。離れて過ごして居る分、彼もまた同じ気持ちでいる。
  
「ねえ」
「ん?」
「…わ…私ね。…貴方に連絡して良いか、分からなくてずっと電話出来なかった…」
「………ん」
「今、何してるんだろうって…そう思っても、部活の邪魔になりたくなくて………いつの間にか連絡する事が怖くなってた…」
「ごめん」
「……ううん、違う。ねえ…私、どんな貴方でも大好きなの。…貴方が居ないと、私、全然。全然、駄目みたいで……」
「先輩…」
「お願い…格好悪くても何でも良いから。…手を繋いだり、キスしたりするのは無理でも。…せめて…声だけは……。いつも近くに居て」
「……先輩。泣かないで。今先輩が泣いても、俺、君を抱きしめられないんだ…」

最後の言葉は、嫌でも二人の距離が縮まらない事を理解するに十分過ぎた。神奈川と埼玉、距離にしてそれは実に約百キロ。今までなら、こんな時すぐにでも抱きしめられ、宝物を扱うように頭を撫でてくれていた。しかし今 頼りがいのある優しい腕は、どうしたって届くはずがない。

「……我儘で面倒臭い彼女でごめんなさい……でもね」

私は、ずっと言いたくても言えずに居た事を。震える声で、電話越しに呟いた。

「…貴方が居ないと…寂しくて、駄目なの…」

涙が止まらない。こんなに泣いたのはいつぶりだろう。記憶を遡っても想いだせないほど雫は溢れ、ベッドのシーツを冷たく濡らした。声を押し殺して泣いていると、耳元から低く、ただ短い言葉を伝えられる。

「ごめん、先輩。用事思い出した、切るね」

“待って”。そう引き止める言葉さえ 放つ事は許されず、携帯に耳を当てても 一定の機会音しか聞こえなくなっていた。時計に目を配ると、丁度夜中の零時を回った所。

「…なによ…。こんな時間に用事って……、馬鹿」

久しぶりに聞けた声は、一方的に消えてしまい 私は濡れたシーツの上に身を預ける。もう、泣き疲れたせいか、クローゼットから替えのシーツを引っ張り出すの億劫だった。

「…………冷たい…」

寂しさを紛らわすため、カーテンを明けたまま眠る事にする。星明かりはいつだって、変わらず私のそばに居てくれるのだから。




***





 いつの間に星が消えていたのだろう。カーテンを開けていたせいか、いつもより早く目が覚めてしまったようだ。時計は午前五時を指している。陽が登るのが早いとはいえ、まだ空には 白い星がいくつか浮かんでいた。少しの薄明かりに、目覚めたばかりの目を擦ってから携帯を開くと。

「……嘘…」

私はメールの文字に驚き、ベッドから勢い良く飛び出した。寝ていた身体を 急に起こしたせいで、頭がふらふらする。しかし、メールの内容が本当ならば、そんな事など今はどうでも良くて。

「……!…」

ドアチェーンと 鍵を明け、玄関のドアノブを回すと、そこにはドア横に座る彼の姿があった。

「…先輩、良かった。メール、見てくれたんだ」

彼の額はしっとり汗をかいていて、上がった息を 無理矢理整えてるように見えた。

「ど…どうして」
  
夜、あれだけ泣いたはずなのに どこから涙が溢れてくるのだろう。

「…嘘でしょ…ここまで……百キロ近くあるのよ…」
「先輩と電話を切ってから すぐ出発したから、ロードバイクで」

初めて走る土地、夜道で街頭がない道路だってある。それなのに、夜間ライトだけで日付が変わった直後からペダルをずっと回して来たなんて。

「道調べながら来たから、五時間も掛かっちゃったよ
「……」  

次に溢れた涙は、彼の温かい指がそっとすくってくれた。

「これで、やっと抱きしめられる」

そう言うと、彼はいつもと変わらない優しい笑顔で私の腕を引くと。同時に、きつく抱きしめた。きつく。久しぶりの彼の温もり。汗をかいたその胸に、顔を埋める。

「寂しい想いさせてごめん。でも、ちゃんと俺。そばにいるから」
「……ん…」
「時間掛かるけど、先輩が泣いたら、必ずこうして会いに来る。どんな時も、何度だって。だから、大丈夫だよ」
「………、会いたかった……ずっと…会いたかった…!…」
「俺も」

子供のように泣く私を胸に抱き、大きくゴツゴツした手は、何度も何度も頭を撫でた。温かくて落ち着く。涙が落ち着いた頃、彼は少々言い辛そうに、口籠もりながら言った。

「…でね。…来て早々にお願いがあって…」 
「…うん……」

固い胸に埋めた頭を上げると、彼は頭を掻きながら苦笑する。

「夜間で涼しかったけど、さすがに汗かいちゃって。……シャワー借りたいんだよね。部屋、上げてもらえないかな」
 「………勿論。…自転車は?」
「下の駐輪場借りた」  

そうして、パジャマの袖で残りの涙を拭ったあと、汗をかいた彼を部屋に上げる。

「へえ、結構間取り良いね」
「あんまり、じろじろ見ないでよ。まさか貴方が来るなんて思ってもみなかったから、全然片付いてないの」

部屋を見渡す彼の手を引き、洗面所に案内すると おもむろにジーンズの後ろポケットを漁り始めた。

「はい、バスタオル。……あれ、どうしたの?」

すると、コンビニの小さなビニール袋を取り出し、それは当たり前かのように洗面所へ置かれた。

「歯ブラシ。途中のコンビニで買って来たんだ、また来るから 必要だと思って」 

そんなの、いつでもこっちで準備出来るのに。私は また溢れ出しそうになる涙を瞳に留め、彼に向かって笑って見せた。

「お洋服、洗濯機に入れて置いて」  

濡れたシーツを取り替えて、彼のユニフォームと一緒に洗濯を回そう。窓の外は晴天。微かに空に残る 白い星に手を伸ばす。何だか、届きそうな気がした。
19/25ページ