短編小説
学校から出ているバス停のベンチに彼女はただ座っていた。地を叩くような酷いスコールで もはや数メートル先さえ見えないはずなのに、そこに座っているのが彼女だと確信する。真夏の天気予報はあまり当てにならなくて、一日晴れだと思っていても暑くなれば モクモクと入道雲が立ち昇り、激しい雨を降らせていた。
「屋根、意味ねえよな。ここ」
彼女が座る簡易的なベンチに勢いよく腰を下ろすと、錆びついるのか嫌な音を立てた。ベンチが設置されているアスファルトもガタガタなせいで、よろけそうな身体を立て直す。
「うん…」
彼女は「そうだね」と短く呟き、プラスチックで出来た 薄い屋根を見上げた。激しいスコールと風のせいで、屋根のあるバス停にいるはずなのに制服はびしょ濡れ。
「雨降った時の事、考えて建付けろってんだ。こんな濡れたら意味ねぇじゃん、なあ」
「…そうだね。でも」
彼女は濡れた制服のスカートを両手で強く握りしめた。
「今は、丁度いいかも。びしょ濡れなら、分かんないでしょ」
彼女は隣に居る俺と目を合わせた。制服も髪も雨でびちゃびちゃだ。それでも、俺を見るその目だけは、雨が濡らした訳ではない事くらい、容易に解る。
「泣いてる事」
「…分かんよ…。んなの、分かんに決まってんだろ」
そう伝えると彼女は、きっと今まで耐えていていたのであろう大粒の涙を流し始めた。彼女の苦しそうな嗚咽で、俺の胸は今にも張り裂けそうだ。
「…好き…好きなのにっ……付き合ってるのに……な、何で上手く行かないのっ…、何でこんなに苦しいの…」
「……」
彼女は二年に上がった頃から 俺の親友と付き合い初めていた。真面目を絵に描いたような彼に彼女が出来たと知った時は、どんな美人局かと面白がり、からかっていたが。いざ紹介されると、予想に反した大人しい可愛気のある同級生の女だった。
最初は二人に気を遣って断っていた誘いも、気付けば三人で遊んだり、受験勉強するようになっていて。駄目だと思いながらも、この頃から俺は、彼女を目で追うようになってしまっていた。
「……こんなに好きなのに……、なんで喧嘩になっちゃうの……」
幼少から親友の女だ、絶対手は出さない。そう誓っていたのだが、頻繁に彼女が泣く姿を目の当たりにするようになり、それは俺の心に、微かな歪 みを生み始めた。
「アイツ…なんだって」
「…受験に集中したいから…し、暫く一人になりたいって……大学は別々だし、お互い遠距離になるから、私は…卒業まで出来るだけ一緒に過ごしたいって伝えたの……」
「そしたら？」
「…なら…出来るだけ、一緒に居てくれる男と付き合ったらどうだって……なんで、私が好きなのは、あの人だけなのに、何でそんな事…平気で言えるの…！…」
最後の方は悲しみか怒りなのか 良くわからない程、涙声の中に感情が溢れ出していた。彼女は手で顔を覆い隠すと、激しいスコールに紛れて大声で泣き始めた。小さな三人掛けのベンチ。この手を伸ばせば、辛そうな彼女をすぐに抱き締められるのに。腕がまるで鉛のように重い。それはきっと、彼女に触れれば親友との関係まで滅茶苦茶になる、そんな想いが心の底に渦巻いているからだ。そんな事、あってはならない。
――あってはならない。
なんだそれ。誰が決めたんだ、そんな事。そうか、俺が勝手に決めたんだ。誰に命令された訳じゃない。俺が自分に課せたルール、親友との関係が拗 れるのを恐れた、俺自身が生んだ想いで、隣で泣いてる彼女に指一本触れる事すら出来ない。
「……ごめんね、…嫌だよね……、こんな話聞きたくないよね…ごめんね…」
本当にそれでいいのだろうか。何が正解かなんて分からない。それでも今までこうして彼女が泣いた時、隣に居たのは、きっと親友じゃない、俺だ。
「…嫌だよ、凄え、嫌だ」
「…ごめんなさい……本当に……」
スコールに消え入るような、か細い声を耳にした瞬間。今まで腕にのし掛かっていた、鉛のような重さが消えた。俺は手を伸ばし、隣で泣く彼女を胸に抱く。
「あ、…！…」
お互い雨で濡れた制服。冷たいはずなのに、触れた所から体温が伝わる。熱い。
「嫌なんだよ…！…お前が、泣いてんの、もう俺…見てらんねえんだよ」
「ま、待って、離して…！っ…ねえ」
俺は彼女の言葉を無視し、抱きしめる腕に力を込める。こんなに小さな身体の、どこからそんなに涙が出るんだ。泣いている彼女を見たくはない。彼女を泣かせる奴がいるなら、それが親友であったとしても 俺はもう、容赦出来ない。ある日、心の中で生まれた小さな歪 みは、完全に地を割り、大きな亀裂となってしまった。後戻りは、出来ない。
「…ねえ、ねえってば…！」
「俺にしろよ……！」
「……」
突然の告白に。彼女はびくりと震え、言葉を失っていた。顔を見なくたって分かる。きっと涙目を泳がせて 動揺しているに違いない。今まで弱みを見せて来た彼女にとって、まさに予想もしない言葉だったのだ。
「…待って…う、嘘だよね……ね…」
声を震わせたその一声は、否定を求めるものだった。俺は奥歯を食いしばる。何で、何で俺じゃ駄目なんだ。何で俺じゃ、幸せに出来ないんだ。何で。
「俺を選べ…！」
「…待って、」
「…もう見てらんねえんだ…！…俺なら、絶対、泣かせねえ！ そんな顔すんなら、俺を選べよ…なあ！」
言葉にするのは簡単だった。抱きしめるもの案外簡単で。何で今までこんな事が言えなかったのかを自分に問いたい。しかし、スコールに紛れた小さな答えも実に簡単で。
「…ごめんなさい」
緩めた腕から彼女が抜けると、途端に温もりが消え、胸が寒くなる。真夏だと言うのに。
「…私……それでも、あの人が、好きなの…」
瞬間。水溜りをバシャバシャ踏み散らかしながら、目の前にバスが停車した。雨のせいか、十分遅れで到着したバスに、彼女は乗り込んでいく。“ドアが閉まります ご注意ください”機械的な音に紛れるも、彼女の声はハッキリ聞こえた。
「さよなら」
バスは遅れを取り戻そうと言わんばかりに、アクセルを踏み 次の停留所へと向って行った。ガタガタの建付けが悪いベンチに背を預けると、嫌な音をたて耳を刺激する。
彼女を胸に抱いた温もりは、とっくに消えていて、気付けばバスも遠く見えなくなっていた。抱いた温もりのように、この気持ちも一瞬で冷めてしまえばいいのに。一瞬で、好きな物を嫌いになれたら良いのに。しかし、生憎そんな器用な術を持ち合わせてはいない。遠くの空はまだ灰色をしている。スコールが止む気配はなさそうだ。
「屋根、意味ねえよな。ここ」
彼女が座る簡易的なベンチに勢いよく腰を下ろすと、錆びついるのか嫌な音を立てた。ベンチが設置されているアスファルトもガタガタなせいで、よろけそうな身体を立て直す。
「うん…」
彼女は「そうだね」と短く呟き、プラスチックで出来た 薄い屋根を見上げた。激しいスコールと風のせいで、屋根のあるバス停にいるはずなのに制服はびしょ濡れ。
「雨降った時の事、考えて建付けろってんだ。こんな濡れたら意味ねぇじゃん、なあ」
「…そうだね。でも」
彼女は濡れた制服のスカートを両手で強く握りしめた。
「今は、丁度いいかも。びしょ濡れなら、分かんないでしょ」
彼女は隣に居る俺と目を合わせた。制服も髪も雨でびちゃびちゃだ。それでも、俺を見るその目だけは、雨が濡らした訳ではない事くらい、容易に解る。
「泣いてる事」
「…分かんよ…。んなの、分かんに決まってんだろ」
そう伝えると彼女は、きっと今まで耐えていていたのであろう大粒の涙を流し始めた。彼女の苦しそうな嗚咽で、俺の胸は今にも張り裂けそうだ。
「…好き…好きなのにっ……付き合ってるのに……な、何で上手く行かないのっ…、何でこんなに苦しいの…」
「……」
彼女は二年に上がった頃から 俺の親友と付き合い初めていた。真面目を絵に描いたような彼に彼女が出来たと知った時は、どんな美人局かと面白がり、からかっていたが。いざ紹介されると、予想に反した大人しい可愛気のある同級生の女だった。
最初は二人に気を遣って断っていた誘いも、気付けば三人で遊んだり、受験勉強するようになっていて。駄目だと思いながらも、この頃から俺は、彼女を目で追うようになってしまっていた。
「……こんなに好きなのに……、なんで喧嘩になっちゃうの……」
幼少から親友の女だ、絶対手は出さない。そう誓っていたのだが、頻繁に彼女が泣く姿を目の当たりにするようになり、それは俺の心に、微かな
「アイツ…なんだって」
「…受験に集中したいから…し、暫く一人になりたいって……大学は別々だし、お互い遠距離になるから、私は…卒業まで出来るだけ一緒に過ごしたいって伝えたの……」
「そしたら？」
「…なら…出来るだけ、一緒に居てくれる男と付き合ったらどうだって……なんで、私が好きなのは、あの人だけなのに、何でそんな事…平気で言えるの…！…」
最後の方は悲しみか怒りなのか 良くわからない程、涙声の中に感情が溢れ出していた。彼女は手で顔を覆い隠すと、激しいスコールに紛れて大声で泣き始めた。小さな三人掛けのベンチ。この手を伸ばせば、辛そうな彼女をすぐに抱き締められるのに。腕がまるで鉛のように重い。それはきっと、彼女に触れれば親友との関係まで滅茶苦茶になる、そんな想いが心の底に渦巻いているからだ。そんな事、あってはならない。
――あってはならない。
なんだそれ。誰が決めたんだ、そんな事。そうか、俺が勝手に決めたんだ。誰に命令された訳じゃない。俺が自分に課せたルール、親友との関係が
「……ごめんね、…嫌だよね……、こんな話聞きたくないよね…ごめんね…」
本当にそれでいいのだろうか。何が正解かなんて分からない。それでも今までこうして彼女が泣いた時、隣に居たのは、きっと親友じゃない、俺だ。
「…嫌だよ、凄え、嫌だ」
「…ごめんなさい……本当に……」
スコールに消え入るような、か細い声を耳にした瞬間。今まで腕にのし掛かっていた、鉛のような重さが消えた。俺は手を伸ばし、隣で泣く彼女を胸に抱く。
「あ、…！…」
お互い雨で濡れた制服。冷たいはずなのに、触れた所から体温が伝わる。熱い。
「嫌なんだよ…！…お前が、泣いてんの、もう俺…見てらんねえんだよ」
「ま、待って、離して…！っ…ねえ」
俺は彼女の言葉を無視し、抱きしめる腕に力を込める。こんなに小さな身体の、どこからそんなに涙が出るんだ。泣いている彼女を見たくはない。彼女を泣かせる奴がいるなら、それが親友であったとしても 俺はもう、容赦出来ない。ある日、心の中で生まれた小さな
「…ねえ、ねえってば…！」
「俺にしろよ……！」
「……」
突然の告白に。彼女はびくりと震え、言葉を失っていた。顔を見なくたって分かる。きっと涙目を泳がせて 動揺しているに違いない。今まで弱みを見せて来た彼女にとって、まさに予想もしない言葉だったのだ。
「…待って…う、嘘だよね……ね…」
声を震わせたその一声は、否定を求めるものだった。俺は奥歯を食いしばる。何で、何で俺じゃ駄目なんだ。何で俺じゃ、幸せに出来ないんだ。何で。
「俺を選べ…！」
「…待って、」
「…もう見てらんねえんだ…！…俺なら、絶対、泣かせねえ！ そんな顔すんなら、俺を選べよ…なあ！」
言葉にするのは簡単だった。抱きしめるもの案外簡単で。何で今までこんな事が言えなかったのかを自分に問いたい。しかし、スコールに紛れた小さな答えも実に簡単で。
「…ごめんなさい」
緩めた腕から彼女が抜けると、途端に温もりが消え、胸が寒くなる。真夏だと言うのに。
「…私……それでも、あの人が、好きなの…」
瞬間。水溜りをバシャバシャ踏み散らかしながら、目の前にバスが停車した。雨のせいか、十分遅れで到着したバスに、彼女は乗り込んでいく。“ドアが閉まります ご注意ください”機械的な音に紛れるも、彼女の声はハッキリ聞こえた。
「さよなら」
バスは遅れを取り戻そうと言わんばかりに、アクセルを踏み 次の停留所へと向って行った。ガタガタの建付けが悪いベンチに背を預けると、嫌な音をたて耳を刺激する。
彼女を胸に抱いた温もりは、とっくに消えていて、気付けばバスも遠く見えなくなっていた。抱いた温もりのように、この気持ちも一瞬で冷めてしまえばいいのに。一瞬で、好きな物を嫌いになれたら良いのに。しかし、生憎そんな器用な術を持ち合わせてはいない。遠くの空はまだ灰色をしている。スコールが止む気配はなさそうだ。
