短編小説
雪で足が滑りそうな寒い朝。今日一番の大事な手荷物を持って登校する。連日、積もった雪が日中に溶け、冷えた夜にはまた凍り、そんな事を繰り返すうち 道路はあっという間、自然のスケートリンクになっていた。東北の冬で言えば、大概見慣れた光景である。
制服とローファーの組み合わせは可愛いが、どうもローファーの靴底は滑りやすい。滑って転んで、手荷物が駄目になっては元も子もないと、自宅の玄関を背にする前、靴底にスパイクの付いたブーツへと履き替えたのは正解だった。
「絶対……絶対、朝に渡さなきゃ」
吐いた白い息と共、
「あれ、おはよう」
「おはよ」
平常心、平常心。心で幾度無く唱え、気持ちを落ち着かせる。昇降口の玄関先まで入ったのだ、これで、滑る雪道はクリアとなる。作ったチョコレートが欠ける事もなければ、割れてしまう事もないだろう。あとは、瞬間を見計らって渡すだけ、そう、手袋をしている“今”がタイミングなのだ。ふと、スニーカーからよれよれの上履きに履き替える彼を視線に捉えると、寒さで鼻の頭が赤くなっている事に気付く。その様子に、何だか少しおかしくなって、先まで緊張していた心臓が落ち着きを取り戻していった。
「うわ、人の顔見て笑うとかサイテー」
「そんなんじゃないってば」
「酷えよな、どうせあれだろ」
「ん?」
「お前も、男子水泳部の中で、俺だけバレンタインチョコ貰えないの、馬鹿にしてんだろ」
「やだ、私、そんな性格悪くない。酷いのはそっち」
毎年毎年こうなのだ。他のチームメイトは案外人気があり、バレンタインとなると平均で十、二十と両手を沢山にしている。中にはいつくか本命だってあるだろう。そんな彼らを
「何で俺が 酷え事になってんだよ」
溜め息の末、上履きの爪先を床に弾ませた彼は、もう教室へ向かってしまう所。早く、早く渡さなければ、この手袋が外れないうちに。「あー、やだやだ、バレンタインなんて浮かれた行事」と不機嫌を決め込んだ彼に、私は緊張で震えの交じった声を届ける。
「は、鼻…」
「はな?」
瞬間、手袋で大事と抱いて来た、小さな紙袋を彼の顔面目掛け叩きつけた。同時に「痛ってえ!」と大にした声は、昇降口全体に轟いた事だろう。寒さで鼻頭が赤くひりついている所へ勢い良く叩きつけたのだ、痛いに決まっている。
「馬っ鹿、お前…! 俺の格好良い顔が潰れたらどうしてくれんだよ」
「本当に格好良い人は、自分で格好良いとか普通 言わないから!」
「はあ!? 何言い切っちゃってんの、おら、ソース持ってい、ソース! つうか何なんだよ、鼻って!」
渡したい物が手から離れた。安堵と、緊張が交差して、落ち着いていたはずの躍動がぶり返す。どうしたら、可愛く伝えられるのだろう、と散々悩み栗駒にも相談したと言うのに。いざ本人を前にしてしまうと、当然、リハーサル通りには行かない物。赤くした鼻を
「――……は、鼻が真っ赤で……格好悪いって言ってんの…! この、万年彼女居ない歴イコール年齢! じゃあね!」
「……!…ちょ、やっぱ酷えのはお前の方じゃん!」
履き替えた上履きが、きちんと
「あれ、先輩、おはようございます」
「おはよ、珍しく遅いね」
「温水プールでバタフライの朝自主練してたら遅れちゃいまして」
「偉いね、応援してるよ」
「ありがとうございます、………あれ、先輩、手」
ふと自身の手元に目を落とす。いけない、彼にチョコレートを渡し 役目を終えたあと、手袋を肌から離してしまっていたのだ。彼は、沢山の絆創膏が重なる私の指先を心配そうに覗き混んでいる。
「大丈夫ですか、そんなに怪我して」
「へ、平気、平気」
咄嗟と背に隠した指先に、首を傾げる彼。不安にさせぬよう正直に、昨日料理をした際、失敗してしまった事を笑い話にして伝えた。すると、再び慌てた表情を覗かせるも、連れて苦笑してくれた為、安堵で肩が落ちる。彼からは、「先輩も、ホームルーム遅れないで下さいね」と告げられ、朝自主練でかいた汗をそのままに、日々逞しくなっていく背中を向けらるのだ。
「あ、そうだ、大事な事言い忘れちゃった」
「えっ、何ですか」
指先はまだ背に隠したまま。こればかりは、彼の耳へ届かぬよう、秘密として置いて欲しい。何度も繰り返し失敗して、作り直して、キッチンもエプロンもぐちゃぐちゃに汚して。日付が変わったあと、半泣き状態で、ようやくラッピングが終わったなんて、さすがに必死過ぎて恥ずかしいったらない。
「この怪我、アイツにだけは内緒ね」
瞳を丸くする後輩を置いて、自身の教室へ駆ける私は。ダメダメな先輩もいい所だ。