短編小説

  始まりは水泳部監督からの一通のメールだった。

――帰りに渡したチョコレート、食べないでくれ!

 はて、と首をひねり、何の事だったか考える風呂上がり。この日、チームメイトと県大会についての話題が思ったよりも熱く盛り上がってしまい。久しぶりの長風呂に逆上のぼせた頭をフェイスタオルで搔くように乾かしていた最中、そんな連絡を貰ったのだが。いまいちピンと来ない。

「なあ。今、監督から連絡があったんだが」

俺同様、長風呂の所為せいで肌の紅潮が引かぬ彼は、日焼けの皮膚に赤を交えていた。

「こんな時間に珍しいな。そんで、監督はなんて?」
「“渡したチョコレートは食うな”ってメールなんだけどさ。俺、貰った記憶ねえんだよな。お前チョコなんて貰ったか?」

部屋で充電器に差していた携帯を引っこ抜き画面を彼へ向ける。するとすぐに合致がいったようで。

「ああ、貰った、貰った。この前監督が、スーパーの福引で色んな種類のチョコを当てたみてえで」
「へえ、そうだったのか」
「あんまりにも大量だったからって。今日の部活帰りに一箱貰ったのよ」
「なんだ、チョコなんて。監督ならバレンタインで貰い飽きてるだろうし、どうせ当たるなら別の物が良かったのにな」
「確かに。あ、冷蔵庫に入れて置いたから、皆一つずつ食べろって言っちまった。一応食べないよう言った方が良いか。理由は知らんけど」

おかしそうに吹き出しだ彼だが、ふと不思議に首を傾いでみせた。

「でもよ、何で“食べないで”なんて言うんだろうな…」

思い返せば案外高そうな奴だったから、やっぱり食べたくなってしまったのだろうか、なんて。あるはずのない監督の姿を想像しては笑い出す手前。自室のドアが大きな音を立て勢い良く開いた。瞬間、反射的に肩が上下すると、長風呂で逆上のぼせた頭も一気に覚めたような気がして。そうしてスッキリした頭で視線を配れば、そこにはまるで風呂上がりのよう、頬を赤く染めたマネージャーの姿があった。 

「…おいおい、もう十時だろ。んな簡単に男部屋に入って来るなよ……」

そうだ、おかしい。今まで彼女が十時以降 男子部屋をノックした事があっただろうか。記憶を遡るも、そんな事は一度もなくて。頬の赤い様子を見るに、もしかすると、春からの新入部員の勧誘や、県大会へ向けたマネージャー業に疲労が出たのかもしれない。さらに春から初夏へと移る季節の変わり目は、どうも体調を崩し易い頃だ。忙しさで風邪を引いてしまう事だってある。  

「熱、結構ありそうだな。体温計で測ったか?」

聞くが口は閉ざされたまま、小さく首を横に振るだけだった。その様子に彼はすぐに動き出し。

「俺。キッチンから水と解熱剤持ってくる」
「嗚呼、悪い」

自室を飛び出し、早足でキッチンへと向かった彼と入れ替わるように、身体をふらつかせる彼女がゆっくりと部屋に足を踏み入れる。

「おい。大丈夫か。今、薬持って来るからな」

表情を見るに相当辛そうだ。一体、熱はどれくらいだろう。特に夕方から夜に掛けては体温が上昇し易い。やや充血した瞳の感じを見るに、三十八度程はあるような気がして、何だかこっちが焦ってしまう。

「欲しい物があれば遠慮なく言え。薬以外ならコンビニで売ってるだろ。俺、コンビニ行ってくっからさ」

気は引けるが、病人だ。ふらついた身体が倒れないよう肩をそっと支えてやると。何だか甘い良い匂いがして。

「なんだ、この匂い…………チョコ、か」
「……甘くて、美味しかった」

とろけた表情で見上げられ、ハッとする。次の瞬間、監督から二通目のメールが届き慌てて画面に目を向ければ、喉奥から詰まったような息が漏れ。

――お酒入りみたいなんだ、誰も食べてないよね!?

ふと気付けば、先程触れた肩は、そうそう熱があるような感触じゃなかった。発熱していれば、触ったてのひらへすぐにでも異常な体温が伝わるはず。しかし、どうも彼女の体温は平熱に近いそれだ。という事は。

「手遅れなんだが」  

深いため息を一つ。監督もまさか福引で当たったチョコレートに酒が入っていようとは思いもしなかったろう。思い出して連絡をくれるのは流石と言えるが、あと少しが遅かった。しかし携帯を良く見れば、メールの前に一件の着信があったようで。

「う……俺が遅かった訳か」

酒が抜けるまでどれくらいだ。男と女でもだいぶ差は出るが、未成年。勿論今まで酒など口にして来なかった彼女だ、弱ければ抜けきるまでに五時間は掛かると聞いた事がある。とにかく多めに水分を摂らせ 彼女の部屋で寝かせよう、そう考え腕を引こうとした矢先。

「……ん…。力、入らない…」

彼女のさらさらの髪が、小さな頭が。俺の風呂上がりの熱く湿った胸にもたげ掛かった。

「待てっ…。い、今…水と薬が来くるから…。そしたら…な!…部屋に連れてってやっから…!」
「……無理。眠いから、もうここでいいよ……君、温かくて気持良いし…」
「な、…何言って……頼むからここで寝んな、ほら…!…部屋連れてくぞ…肩に掴まれ」

胸に寄り掛かる彼女を離そうとすると、するり。その細く白い腕が伸びて来ては、俺の首筋に回された。酒で赤く染まった頬とは裏腹に、腕はひんやり冷たくて…一瞬だけ心地よい、なんて思ってしまった。

「……おい」
「…」
「…なあってば……」
 
風呂上がりで身体が火照ったままなのか。それとも彼女が触れ、こんなにも近くに居るからなのか。だんだん回らなくなってきた頭で考えるが、これは恐らく後者だ。無意識に心拍が上がり、触れられた首筋が更に熱を持っていく。

「ねえ」

――ダメだ、これ以上はまずい。隙間も無い程の至近距離。服がかすれると、その先にある明らかな膨らみが丁度腹部へ当たり、腰が引けてしまう。無理矢理にでも引き離そう、と回された腕を解こうとすると。

「…駄目だよ」
「な、急に…なん…」

視線を合わせれば、薄っすら赤く、そして潤んだ瞳が悪戯に笑っていた。

「今、イケナイ事考えてる」
「……な訳!…」
「本当? 嘘は駄あ目」  
「駄目はお前だろ…相当酔ってんぞ、これ」

感情を読み取られないよう、回された腕を掴み引き離そうとすれば、自分でも気付かない程焦っていたのだろう。軽く掴んだつもりが余計な力が入っていたらしい。

「………いたっ…」
「……悪い……そんなつもりじゃ…」

眉を潜めた彼女を覗き込む。咄嗟にかがんで瞳を絡めると、先程よりもずっと近いその距離に、心臓が大きく跳ねた。すぐ先には、彼女の潤った唇。そうしてその小さな唇が、薄く開けば。ほんのり香るは甘い、甘い、チョコレート。

「でもね……………いいよ、君、なら」

何でこうも、意味深に聞こえてしまうのか。熱くほだされて、どうにかなりそうだ。

「……この酔っぱらい。シラフの時に言えよ」

やっとの思いで彼女を身から離すと同時。水と解熱剤を両手に部屋へと駆け付けたチームメイト。心配し、青い顔をしている彼へ、彼女が酒入りのチョコレートを食べた旨を伝えれば、腰が抜けたように安堵の表情を見せる。

「ねえ、もしも」
「ああ?」

そうして酔った彼女を部屋へと連れて行く為、肩を貸した瞬間。それは聞き取れるか否かの小さな声で呟かれるのだった。その言葉に、風呂上がりの体温は、覚める事を知らず上昇を続ける。

「もしも、酔ってないって言ったら?」

既に手が離れたはずの首筋が、痛い程。また熱く火照り始めた。
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