短編小説

 鼻を抜けるスパイスの香りに食欲をそそられ、思わずお腹が鳴ってしまった。隣で包丁を片手に手際よく玉ねぎを切る彼は、その小さな音を聞き逃そうとはせず。

「腹減ったのかよ、食いしん坊」

悪戯な瞳を向けられると、途端に恥ずかしくなり顔が熱を持ち始め、思わず口を尖らせた。

「し…しょうがないでしょう…。カレーの匂いって、なんだか凄くお腹空くじゃない」

その言葉に彼は「確かに」と吹き出しながら 串切りにした玉ねぎを大鍋へと放った。この日、県大会前に他校との合同合宿が行われていて、いつもより多めの夕飯を作っていた所だ。いつもは一人で担当する夕飯当番も、人数が多い為に彼と二人で仕込みをしている。

「こう人数が多い時は カレーに限るよな。単価も安いし」
「そうね。ご飯、足りるかしら」
「足りんじゃねえの。五合炊きの炊飯器、二つ炊いてんだ。一升ありゃいいだろ」

炊飯器からは熱い湯気が立ち始め、部屋の中を加湿していく。一升炊いたものの、育ち盛りの男子高校生たちだ。さらにカレーとなると、いつもより白米が欲しくなるのも事実。もしかしたら足りなくなってしまうかも、と一応冷凍庫の中を覗いて見ると、半端に残ったご飯がラップで包まれているのがいくつか見つかった。おかわりが続出し、足りなくなったらこれをチンしてしまえば良い。安堵していると、後ろのシンクから エプロン姿の彼に呼ばれる。

「おい、冷蔵庫そこ居るついでに 鍋に肉入れてくんねえ」
「あ、はあい」

冷凍庫を閉め、代わりに冷蔵庫に手を伸ばす。そうして昨日買い出しをして置いた二パックの鶏肉を取り出し、既に玉ねぎの良い匂いを漂わせる鍋の元へ急いだ。パックのビニールを破り、既にカットしてある鶏肉をやや飴色になり掛けている玉ねぎが待つ鍋へと投入する。

「おう、サンキュー。俺が炒めっから、お前はサラダのキュウリ、カットしとけ」

「了解。…本当、溜息が出るくらい手際いいわよね」
「ふふん、まあな。実家が小料理屋だし」
「そうそう、実家の餃子、凄い美味しいから。私、あれ大好き」

思い出したらまたお腹が鳴りそうだった。彼の実家には何度か二人で足を運んでいて。店内で挨拶を交わした際、健全にお付き合いしているという旨も報告しており、今では親公認の付き合いとなっている。

「次の休みにでも、また行くか。母ちゃんがお前に会いたがってるみてえだし」
「え、そうなの、嬉しい。じゃあ次のお休みに行こうね」

そう言い、キュウリを切る手を止めてから 彼の目の前に小指を差し出した。

「…あ?」

短く問う彼に、私は突き出した小指を近づける。

「指切り。次のお休みに、あなたの家にご飯食べに行くって。約束」
「んなの、約束なんかしなくたって、いつでも連れてってやっから」

――あ、失敗。ただ彼の肌に触れたかった口実だったのに。

 四月になってから、男子水泳部に新入部員が加入した。後輩を育てながらの自主練は、想像以上に大変で。県大会を控えたこの頃は、彼とこうして二人きりになる事も、肌を触れる事さえ機会が減っていた。今日はこんな風に炊事当番という形だが、思い掛けず二人きりになれた事に浮かれているのは、私だけなのかもしれない。

「……そう…だよね、いつでも連れて行ってくれるもんね」

そう言い、絡む事のなかった指を引っ込めて またサラダのキュウリを切り始める。するとふい、何かを思い出したかのように彼は口を開いた。

「あ、そうだ。お前って確か…波中出身だよな」
「ん? そうよ」

それがどうかした、と首を傾げると。隣で鍋にカレールーを投入した彼は少し複雑そうな表情を覗かせる。

「…てことは。今日来てる、“イケメンくん”とも面識あるよな。一個下の後輩だろ」
「まあ有名人だったし、面識というより、高嶺の花みたいな感じかな」
「…ふうん」

“イケメンくん”。中学三年で初めて水泳を始めたと思えば、その年のジュニア大会でいきなり優勝。多少身体は小さいものの、それをハンデにしない力強いパフォーマンスは、誰が見たって群を抜いている。オフの時に見せるマイペースな姿もまた、ギャップがあり女子人気は高そうだ。

「そうだ、今日ってチキンカレーでしょう。彼、カレー好きって訊いた事あるから、喜ぶと思う」

出された皿を見て眼を輝かせるイケメンを想像すると、たまらず吹き出してしまう。

「………」
「…あれ、どうしたの」

ふいに隣に視線を送ると、何故か彼は面白くなさそうにしていて。静かなキッチン、鍋が沸々と煮だつ音だけが響いている。返事のない彼を見つめていると、沈黙のあと静かに呟かれた。

「………すまん。自分で話し振っといて何だがよ。やっぱ他の漢の話しはナシ」
「…え、何で」
「柄じゃねえけど、…なんか、妬けちまう」

徐々に赤面していく彼につられ、私の頬も熱を持っていくのが分かる。恥ずかしがり屋で、今までそんな事など一言も口にして来なかった彼がヤキモチを焼くなんて、なんだか心が落ち着かない。正直、独占欲をあらわにしてくれるのは少し嬉しい。しかし、普段見せる事のない彼の顔つきに思わず緊張してしまうのも事実で。しっとり汗ばんだ手は、いつの間にか冷えており、気持ちを紛らわせるよう止まっていた腕を動かしてキュウリを切るのに集中した。何とも言えない甘酸っぱい空気が漂う中、突然にそれを叩き割るよう甲高い声が後ろから響く。

「ああー、カレーだ! 俺、カレー好きなんだよね」

と、少しの足音もさせる事なく。神出鬼没にキッチンへ現れたイケメン。噂をすれば何とやら。急な大声に驚いた私の肩は無意識にびくりと震え、同士、包丁を持つ手が揺れた。

「…痛、…」

震えた手が持つ包丁の先が、ほんの少し肌に触れる。かすっただけにも関わらず、思わず眉を潜めたくなるような鋭い痛みが指に走った。瞬間、隣に居る彼の手が伸びて来て私の手首を勢い良く掴み取るのだった。

「……っ…馬鹿…!」

そうして、感じるのは熱い感触。

「……………ちょっ……と…!」
「黙っとけ…、止血だ」

掴まれた腕は強く引き寄せられ、切れて血がにじんだ指先は彼の唇へと当てられる。そうして、ぬるり、舌先が触れると全身が熱で沸き立った。彼に触れたい、そう思っていたのがつい数分前。まさかこんな形で触れる事になるなんて、想像もしていなかった。久しく彼をそばに感じるせいか、なんだか刺激が強すぎるような気がして、どうも頭が回らなくなる。すると、その様子に大きな瞳を丸くしていたイケメンが悪戯気に口を開いて。

「あれ、もしかして。お邪魔だったりした?」

そんなんじゃない、恥ずかしさで咄嗟に否定しようとした私を制するように 彼はきっぱりと、低い声で言葉にする。

「嗚呼、邪魔だよ。飯出来るまでどっか消えとけや」

彼の棘のある口調に怖気付く事なく、イケメンは含んだ笑みを見せた。

「怖い。何それ、彼氏面?」
「面じゃねえよ、彼氏だ、こいつの」

止血した事を確認し、口元から指先がそっと離れる。身体はまだ熱いままだ。彼はまるで牽制するように、その背中で私を隠す。エプロン姿だが、それでも頼もしい背中に、鼓動が高鳴った。

「ええ、彼女、男の趣味悪くない?」
うるせえ、ほっとけ。つうか、いつまでここ居るつもりだ、飯までどっか行ってろっつったろ」
「だって面白そうだし」
「てめえの“面白い”に付き合う義理なんざねえんだよ。邪魔すんな。散れ」  

しっし、と追い払うように手を突き出すと、イケメンは頬を膨らませたあと、にこりと笑う。本当にころころと表情が変わる子だ。

「ちぇ。せめて、ご飯では楽しませてくれよ。あ、俺、白米はブランド米しか食わないからね」

「そこんとこ、よろしくねえ!」そんな事を口にしながら、楽しそうに廊下をバタバタと掛け行った。――再び静まり返ったキッチンは、もう十分なくらいに煮込まれたカレーが音を出し、今にも鍋から吹き出しそうになっていて。

「…び…びっくりしたね」

勿論、第三者が現れたのもそうだが、一番は彼の口元で止血された事。きっとその意が伝わったのだろう。彼は照れた顔を見られたくないのか 振り向く事はせず、私にしか聞こえないような小さな声をぽつりと溢した。

「なあ、飯食ったらよ…………少し外に散歩行かねえ」
「……」
「最近、さわれな過ぎた……なんかこう」

二人きりになり、触れたいと感じていたのは どうやら私だけではないらしい。胸を締め付ける嬉しさに、彼の向けた背中へ身体を預けるよう寄り掛かる。なんて 温かい。背中から、彼の優しい心臓の鼓動が聞こえてきて、良く耳を澄ませば、それが思ったよりも早い物だから、彼の表情が簡単に想像出来てしまい、つい口角が上がってしまう。

「……誰にも邪魔されねえで。…二人っきりに、なりてえ」

絞り出しされた震える声に、私もまた照れ隠しの為 思わず「えっち」と呟くと、背中から聞こえる心臓は 一段と駆け足になった。
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