短編小説



 触れた肌が、こんなにも熱い。それが、彼女の熱なのか、自分の情慾による物なのか、今はまだ、はっきりとしない。ただ、ひとつだけ確かな事は、自身が彼女を欲している。そんな、単純で、安直に、独立した、それでも紛れもない。不変で、恒久に、永続する想い。―――欲し、欲し、欲して。繋がった薄い皮膚が交わり、熔けてしまえばいい。二つが一つになって、泥泥に。何方どちらの皮膚かなんて解らぬ程、そう泥泥に。そんな自身勝手な我儘をどうか。どうか、今だけ、赦してくれないだろうか。

「待って、此処、玄関だから……、」
「あとで思い切り引っ叩いてくれていい」

 そんな事をする女性ひとでは無いと、よくよく解って置きながら。捻ると飛び出す蛇口の水のよう、するすると狡い言葉が溢れる唇が、なんと調子のいい事だ。突然の口吻、当たり前にも瞳に焦燥の色を浮かべる彼女は、前に自身を見送ってくれた時より。幾分、儚くて、愛おしくて、奇麗に視えた。―――二人で過ごす、何気ないじかんに身を任せるのが好きだ。何でもいい。例えば、夕飯を作ってくれる彼女の後ろ姿を眺めたり、天気の良い日、機嫌良くシーツを干す横顔へ眼を配べたり。本当に何でもいいのだ。出掛けの際、絡めた指先から温もりを確かめたり、話す際、見上げる瞳の燐きに見惚れたり。本当に、何でも。

「そんな事しないわ、……けれど、せめて、ベッドへ連れて行って頂戴、」
「寝室に行かなくても、避妊具は在る」
「そう言う事じゃなくって、…」
「頼む」

 そうして、次の言葉を繋げるより先、おずおずと首筋に絡めてくれる両腕が。単純で、安直に、独立した、それでも紛れもない、彼女からの応えである。この首に回される腕が、心底、好きで、好きで、堪らない。―――長期任務で、暫く家を空けると伝えた日。彼女は寂しさよりも、温かい励ましをくれた。見送りの際、玄関先で絡めてくれた細い腕の感触が、鮮明に蘇る程に。出先では当然、危険も伴う、行き先が安全地帯だけじゃないと云う事は、彼女も了知であるのに。寂しさより励ましをくれる芯の強さは、もしかすると。俺を超える物があるのでは、そう、たまに苦笑してしまうくらい。

「逢いたかった」

後、暫くの任務を無事終えて。いつも通り家の鍵を取り出した時だった。鍵を差し込むより先に、彼女が扉を開けてくれたのは。驚きで睫毛をしばたかせていると、それは見送りの時同様。眩しくて、眩しくて、本当に。俺には眩し過ぎる程、煌々の瞳で、“帰って来てくれて、ありがとう”。そう、呟いて。―――何気ない日常が、“特別”に成った瞬間だった。

「いい匂いがする」
「やだ、嗅がないでよ、…シャワー浴びてないんだから」
「俺だってそうさ」
「………貴方はいいの」

矛盾に僅か、首を傾げば。銀色に流れた髪の先で。彼女の頬が、紅潮している。この世で最も恐ろしい事はなにか。例えばそう訊かれたとしよう。俺はほんの少しの迷いなく。ひとつの応えを辿るだろう。

「あなたの匂いが………好きだから」
「煽るのは、よしてくれ」
「………」
「―――“無自覚”が一番、効く」

 出迎えてくれた彼女を玄関先で押し倒しただけでも、相当、自分本位であると云うのに。理性が遠退いて、ますます滅茶苦茶にしてしまいそうで駄目だ。まあ、もう、手遅れなのだが。そうして、随分前にきつくなった黒のジーンズに手を掛ける。早く彼女の中でこの痛みを解放したくて、仕方がなかった。本来なら、きちんとシャワーを浴びて、柔らかなベッドで、数え切れない口吻の最中、穏やかな前戯をしたい。頭の中では解っているのに、どうもそれが難しいのは、彼女が、彼女で、彼女に、彼女を。兎に角、もう兎に角、訳の解らないくらいに。脳内が彼女で沢山なのだ。もう、本当に、馬鹿みたいに。

「煽ってないったら」
「いや、十分、効いた」

そうして既、鈍痛を伴う屹立きつりつした肌を取り出す。前述通り避妊具はあるので、付け根までしかと密着させた。そう云えば。たったの一度だけ、避妊具無しに彼女を抱いた夜をふい、思い出した。まるでいけない事をしているみたいな背徳感と、麻薬にも類似する昂揚に、いつも以上、無茶をさせてしまった事だ。やはり最中は善くても、彼女の負担は計り知れない。しかし何故、こんな時に例の記憶が蘇るのか。確か、確か、その日も長期任務の帰りで―――。現状と、記憶が、脳内でいけない交差をし始める。駄目だ、何を考えている。そもそも“避妊具はある”と口にしたのは自身なのだ。それにもう、空気に触れた固い肉へ、薄い膜を付けたではないか。この期に及んで、煩悩だらけの回路に、呆れが募る。そんな時だった。仰向け、覆い被さった彼女の細い指先が、芯の熱源へ触れるのは。思わず、反射で身体が短く揺れた。

「急に、どうした」
「今日は、要らないわ……」
「馬鹿を云うな」
「本当に。ねえ、お願い」

この世で最も恐ろしい事はなにか。それは、紛れもなく。愛おしい恋人からの、無自覚に他ならない。理性など他所よそ。負担を掛けてしまう、傷つけてしまう、そう、駄目だと解って置きながら。なんて愚かな脳味噌なのだ。

「―――貴方の全てが欲しいの」

自身の髪が垂れ、耀りの反射の所為せいか。直線に視つめた彼女の瞳が、銀色に、眩しい。眩しくて、眩しくて、本当に。俺には勿体ないくらいに、眩しくて。その煌々の瞳が、何気ない日常を特別にしてくれる。彼女は、俺の。唯一の、生きる希望で、光で、全てだ。だのに、それだけ大切にしたいはずなのに。彼女からの一声で、理性の輪郭が、泥泥に熔けて無くなってしまう、俺を。どうか、どうか赦して欲しい。―――嗚呼、好きだ、好きだ、好きなんだ。俺だって、お前の全てが欲しい。後ろ姿も、横顔も、指先の温もりも、瞳の燐きまで、全部、全部。

「ねえ」
「解った」

そうして、痛みでどうしようもなくなった肌から。先ほど付けたばかりの薄い膜を離す。後、スカートから飛び出した彼女の白く滑らかな脚に、触れ、登り、辿り。熱を塞ぐ、まるで頼りない一枚に、指を掛けるのだ。皮膚から剥がせば、透明の体液が細く揺れていた。奇麗だった。ただに欲望任せと云われてしまえばそれまでなのだが。今はただ。ただに、繋がりたい。それだけだった。

「久しく間が空いてしまった、痛かったら、すぐ教えてくれ」
「……ん」

返事には心許こころもとない声で、彼女が小さく応えたと同時。既、先端から、ぷつり浮いた体液が乗る、自身の肌を彼女の熱へと充ててゆく。互い、触れただけなのに。頭の天辺から脚の爪先まで。電流が走るよう、感覚に陥る。徐々、腫れた亀頭が彼女の粘膜を飲み込めば、途端に湧くは、昂りと、汗。ふと、仰向けに在る彼女へ眼を配る。気付かれぬよう、少しだけ歪んだ眉は、十分な痛みをあらわにしていた。自身を見上げる煌々の瞳には、目尻。小さな雫が乗っていて。

「痛むか」
「違うわ、嬉しいのよ」
「………」
「愛してる」

―――自身の髪が垂れ、耀りの反射の所為だろう。余裕の欠片も無く視つめた彼女の瞳が、銀色に、眩しい。眩しくて、眩しくて、本当に。俺には勿体ないくらいに、眩しくて。なんて、愛おしい。

「あなたの全てを愛してる」

瞬間、先端だけで繋がっていた二人は。最後まで。これ以上、奥はないと云うのに、それでも、最奥まで、強く、強く。繋がるのだった。

「嗚呼…、」

何もかもが眩しい。俺を見上げる瞳も、首筋に絡める腕も、垂れた髪の毛をすくい、耳へ掛けてくれる易しい指先も。俺の名を呼ぶ柔らかな声も。全部が、煌めく水光のよう、眩しすぎて。―――後、細かな汗が湧いた身は、彼女を目掛け倒れ込む。粘膜に深く交わり、烈しく求めたい、しかし。その前に。俺を愛してくれる彼女をどうしても。抱き締めずには居られなかったのだ。薄い肩を両腕に抱き、胸にしかと包み込む。この耀りが、ほんの少し足りとも。隙間から零れてしまわぬように。強く、強く。

「………どう、したの」
「すまない、少し、このままで居させてくれ」
「いいけれど、重いわ」
「愛に例えてくれたらいい」

暫くの沈黙のあと、彼女は意を察したのか、“ずるいんだから”と。苦笑しながらも、その火照った腕で、自身の背を抱き締めてくれる。嗚呼、幸せで、おかしくなりそうだ。無意識、思うよりきつく抱いていた所為、互い肌の間に熱が籠もり。頬に充たる彼女の肌もまた、汗で僅かに濡れていた。それでもまだ、離れたくはない。そう、云ったら、君は笑うだろうか。―――ふと。耳元で彼女の心地良い声が響く。それはもっとも、当たり前な事。

「暑くないの」
「暑いさ」
「離れないの」
「離れない」

耳に聞こえる穏やかな声は、まるで耀りそのもの。眩しくて、眩しくて。思わず眼を細めてしまうよう。例えるならば、早朝に在る、水光の燐き。ありふれた幸せは、眩しさとなって、この身を照らし続ける。俺には、まだ、眩しすぎる。

「一生、離してやる物か」

君を離す未来が視えないのは、きっと。煌めく、水光が。視界を覆っているから。白色が、酷く眩し過ぎて。本当に。ただ、俺には眩し過ぎた。
13/25ページ