短編小説
耳に響く重低音が、朝霧の中へ熔けていく。まだ完全に陽が姿を現さない早朝、何処から盗んだのか解らないバイクは、エンジン音を唸らせていた。昼間の喧騒の中であれば、日常に埋もれた他愛も無い音も。静寂が広がる時刻の所為、やけに煩 く感じるものだ。
「ヘルメットは」
「ひとつしかないから、これは君の分」
手渡された固いヘルメットで、すっかり頭を覆い。既にバイクへ跨る彼の後ろへこの身を預けた。そうして脚を地から離し、彼の腹へ両手を回すと同時。安いエンジン音を響かせ、朝霧の中を進んで行くのである。―――“波の花って知ってる” そう、突拍子もなく問われたのが昨日の夜。彼との何気ない会話がきっかけだった。はじめは、ひとり言かなにか、誰か別の人と話していると思ったが、どうやらそれは私に対してだったらしく。同じ声で二度問われた際、ようやく彼と視線を合わせれば、眉を八の字に苦笑されたものだ。
「ネオ、運転出来たのね」
「無免だけどね」
「え、嘘」
「ホントー」
“波の花”とは、海で起こる不思議な現象のひとつである。海水に埋もれるプランクトンや海藻が擦れ、交じり合い。撹拌 される事で発生する、泡状の物質の事だ。波打ち際、白色に舞う軽やかなそれは、まるで花。名と通り、波の花である。勿論、今まで眼する機会などなかったし、そう言った現象がある事も、彼の口より初めて知った。因みに、時間が経つに連れ、砂や苔も交じる事から、薄茶色に変色してしまうらしく、純白の奇麗な花に出会えるタイミングは極僅かだという。
「ねえ、ねえったら!」
「なあに、訊こえてるよ」
「安全運転でね、お願いだから、そんなに飛ばさないで」
「あ、風冷たい?」
「風もそうだけれど、まさか無免許だなんて訊いてないわ」
「平気、平気、今まで人、轢いた事ないからさ」
何処までも続く直線を一体、時速何キロで走って居るのだろう。ヘルメットに包んだ頬でさえ冷たに感じる風は、時に痛みを運んで来て。けれど、重要なのはそこではない。まさか無免許の人間に命を預けるなど、甚 だ可怪しな事である。事前に訊いていたなら、きっと断っていただろうに。後出しで伝えるなど狡 いったらない。しかし、既に走り出したアルミ合金は、向かう行き先を変える事はない。波の花を目指し、潮の香り導く場所へと迷わず進んで行くのであった。云うなれば、乗り掛けた船である。後戻りは出来ない、そう悟った後、私は半ば諦めの溜息をひとつ着いては。彼の腰へ回す両手に力を込めた。瞬間、風切り音が響いてゆく。
***
久しぶりに鼻を掠める潮の香りに、思わず感動してしまった。乗車の最中は、何度、厭な汗をかいた事か。予想以上に荒い運転は、私の心臓をきつく締め付ける程。それでも、眼の前に広がる奇麗な青色に、今まで感じていた恐怖さえも、都合良く忘れてしまっている。
「このバイクも、寿命だな」
「変な音、鳴ってたものね」
「だよね、ま、盗難車だし、所詮こんな物 か」
走行中、幾度か訊き慣れない音がしたのだ。うまく云い表せないが、ゴロゴロとか、カラカラとか、そんな風。彼によると、エンジンオイルが不足しているとの事で。ギアを潤滑に動かす為のオイルが減少する事により、機械たちが正常に回らず、エンジン内部から重たな音が鳴ったりするらしい。目的地に着いたはいいが、そんなバイクに帰り道も身を委ねると思うと、掌が妙に湿ってしまう。そう、顔を青くする私を他所、彼は停めたバイクを離れては。極々自然、私の足元に屈み込むのである。それは、ブライダルキャリーのそのもの。当たり前に私を抱えようとするものだから、焦燥より一瞬だけ、彼を制す。
「ちょっと駄目よ、私、重いもの」
「いいから。砂に紛れて硝子があるかも知れないだろう」
「子ども扱いしないで」
「いや、どっちかと言えば、お姫様扱いだよ……っと!」
「……きゃ、」
断ったにも関わらず、軽々私を抱き上げる腕は。触れて初めて解る、漢の人のそれだった。途端、意識するには十分過ぎる程。朝霧の中だと云うのに、輪郭を覚えた確かな熱が、血液と共に循環した。―――一歩、また一歩と踏み出せば、潮の香りと波の音が近づいて来る。遠くから眺めていた所為で気付かなかったが、波打ち際まで脚を運べば。其処に広がる純白の、揺ら揺ら踊る無数の花たちが、こちらを静か、覗いていた。漣に紛れて咲く花は、無限に在り。軽いのか、時折吹く風によって、宙を舞っては。空気に熔け、空の青に姿を消していく。
「…奇、麗」
「な、奇麗だろ」
「ええ、凄く」
驚いた。まさかこんなにも、白く、滑らかな花がこの世に在るなんて。昨晩、彼の誘いを断っていたら、この光景を眼にする事は叶わなかっただろう。無免許であっても、彼が私に声を掛けてくれた事実へは、感謝しないといけない。だって、これだけの白い花が広がる空間へは、幾らも条件が必要なのだから。例えば空気が冷えていて、風が強くて、早朝の海辺で、他にも色々。本当に色々。
「連れて来てくれてありがとう」
「こっちこそ」
抱かれ、触れている腕が、温かい。ここに来てからというもの、ずっと私をその腕に寄せてくれている。少しの疲れも感じずに、ただ、ずっと。私は、彼の首に両手を回し、柔らかに絡めた。すると、“マフラーみたいで温かいや”と笑う彼に連れ、思わず笑みが零れる。ひらひら、ひらひら、雪のよう待って空へ消えていく白色の花は。なんだか儚くて、少しだけ、淋しい。きっといつか、この花みたいに、身体を巡る血液も。空へ消えていくのだろう。人間に流れる時間は、あっという間、いつの間にか、誰もが死んでいく。天国に行けるのか、地獄に堕ちるかなんて、今は解らないけど。けれど。
「ねえ、」
「ん」
「また、連れて来てくれる、ここに」
「気に入ってくれた」
「ええ、但し、今度はきちんと免許を取ってからね」
「はいはい」
―――私はここを天国だと、そう、思いたい。
「君に言われた通り、ちゃんと免許取るからさ、俺のお願いも、訊いてくれない」
「いいわよ」
痛かったよね、怖かったよね。まだ、この世界で呼吸が出来ればいいのにね。何でだろうね。ねえ、貴方が居ない人生なんて、考えられないのに。本当に、夢なら醒めて欲しいのに。嗚呼、もう、本当に。―――お迎えなのね。
「ごめん、時間みたいだ。俺は、先逝くから。君は、ゆっくりおいで」
エンジンオイルが不足した盗難のバイクは。行き道で、ギアが精一杯だったらしい。戻れない、片道だけの行先へ。私は彼に、白い花を手向けた。“さよなら”を添えて。
「ヘルメットは」
「ひとつしかないから、これは君の分」
手渡された固いヘルメットで、すっかり頭を覆い。既にバイクへ跨る彼の後ろへこの身を預けた。そうして脚を地から離し、彼の腹へ両手を回すと同時。安いエンジン音を響かせ、朝霧の中を進んで行くのである。―――“波の花って知ってる” そう、突拍子もなく問われたのが昨日の夜。彼との何気ない会話がきっかけだった。はじめは、ひとり言かなにか、誰か別の人と話していると思ったが、どうやらそれは私に対してだったらしく。同じ声で二度問われた際、ようやく彼と視線を合わせれば、眉を八の字に苦笑されたものだ。
「ネオ、運転出来たのね」
「無免だけどね」
「え、嘘」
「ホントー」
“波の花”とは、海で起こる不思議な現象のひとつである。海水に埋もれるプランクトンや海藻が擦れ、交じり合い。
「ねえ、ねえったら!」
「なあに、訊こえてるよ」
「安全運転でね、お願いだから、そんなに飛ばさないで」
「あ、風冷たい?」
「風もそうだけれど、まさか無免許だなんて訊いてないわ」
「平気、平気、今まで人、轢いた事ないからさ」
何処までも続く直線を一体、時速何キロで走って居るのだろう。ヘルメットに包んだ頬でさえ冷たに感じる風は、時に痛みを運んで来て。けれど、重要なのはそこではない。まさか無免許の人間に命を預けるなど、
***
久しぶりに鼻を掠める潮の香りに、思わず感動してしまった。乗車の最中は、何度、厭な汗をかいた事か。予想以上に荒い運転は、私の心臓をきつく締め付ける程。それでも、眼の前に広がる奇麗な青色に、今まで感じていた恐怖さえも、都合良く忘れてしまっている。
「このバイクも、寿命だな」
「変な音、鳴ってたものね」
「だよね、ま、盗難車だし、所詮こんな
走行中、幾度か訊き慣れない音がしたのだ。うまく云い表せないが、ゴロゴロとか、カラカラとか、そんな風。彼によると、エンジンオイルが不足しているとの事で。ギアを潤滑に動かす為のオイルが減少する事により、機械たちが正常に回らず、エンジン内部から重たな音が鳴ったりするらしい。目的地に着いたはいいが、そんなバイクに帰り道も身を委ねると思うと、掌が妙に湿ってしまう。そう、顔を青くする私を他所、彼は停めたバイクを離れては。極々自然、私の足元に屈み込むのである。それは、ブライダルキャリーのそのもの。当たり前に私を抱えようとするものだから、焦燥より一瞬だけ、彼を制す。
「ちょっと駄目よ、私、重いもの」
「いいから。砂に紛れて硝子があるかも知れないだろう」
「子ども扱いしないで」
「いや、どっちかと言えば、お姫様扱いだよ……っと!」
「……きゃ、」
断ったにも関わらず、軽々私を抱き上げる腕は。触れて初めて解る、漢の人のそれだった。途端、意識するには十分過ぎる程。朝霧の中だと云うのに、輪郭を覚えた確かな熱が、血液と共に循環した。―――一歩、また一歩と踏み出せば、潮の香りと波の音が近づいて来る。遠くから眺めていた所為で気付かなかったが、波打ち際まで脚を運べば。其処に広がる純白の、揺ら揺ら踊る無数の花たちが、こちらを静か、覗いていた。漣に紛れて咲く花は、無限に在り。軽いのか、時折吹く風によって、宙を舞っては。空気に熔け、空の青に姿を消していく。
「…奇、麗」
「な、奇麗だろ」
「ええ、凄く」
驚いた。まさかこんなにも、白く、滑らかな花がこの世に在るなんて。昨晩、彼の誘いを断っていたら、この光景を眼にする事は叶わなかっただろう。無免許であっても、彼が私に声を掛けてくれた事実へは、感謝しないといけない。だって、これだけの白い花が広がる空間へは、幾らも条件が必要なのだから。例えば空気が冷えていて、風が強くて、早朝の海辺で、他にも色々。本当に色々。
「連れて来てくれてありがとう」
「こっちこそ」
抱かれ、触れている腕が、温かい。ここに来てからというもの、ずっと私をその腕に寄せてくれている。少しの疲れも感じずに、ただ、ずっと。私は、彼の首に両手を回し、柔らかに絡めた。すると、“マフラーみたいで温かいや”と笑う彼に連れ、思わず笑みが零れる。ひらひら、ひらひら、雪のよう待って空へ消えていく白色の花は。なんだか儚くて、少しだけ、淋しい。きっといつか、この花みたいに、身体を巡る血液も。空へ消えていくのだろう。人間に流れる時間は、あっという間、いつの間にか、誰もが死んでいく。天国に行けるのか、地獄に堕ちるかなんて、今は解らないけど。けれど。
「ねえ、」
「ん」
「また、連れて来てくれる、ここに」
「気に入ってくれた」
「ええ、但し、今度はきちんと免許を取ってからね」
「はいはい」
―――私はここを天国だと、そう、思いたい。
「君に言われた通り、ちゃんと免許取るからさ、俺のお願いも、訊いてくれない」
「いいわよ」
痛かったよね、怖かったよね。まだ、この世界で呼吸が出来ればいいのにね。何でだろうね。ねえ、貴方が居ない人生なんて、考えられないのに。本当に、夢なら醒めて欲しいのに。嗚呼、もう、本当に。―――お迎えなのね。
「ごめん、時間みたいだ。俺は、先逝くから。君は、ゆっくりおいで」
エンジンオイルが不足した盗難のバイクは。行き道で、ギアが精一杯だったらしい。戻れない、片道だけの行先へ。私は彼に、白い花を手向けた。“さよなら”を添えて。