短編小説


 珍しい事もあるものだ。寝入りも寝付きもいい方なのに、眼が醒めてしまうなんて。理由は解らない。喉が渇いた訳でも、手洗いに行きたい訳でもなく。ただ、ふと眼が醒めてしまったのである。薄く頼りないカーテンの隙間からは、星だろうか、月だろうか。何方かの灯りがその隙間より射し込み、隣で細い寝息を立てる彼の白い肌を照らしていた。

「駄目ね、直さなくちゃ、この癖」

 情事のあとも、そうでない時も、彼が私を抱いて眠る事はない。肌を繋ぐ関係なのだから、出来ればもう少し傍へ寄って欲しいとも思う。しかし、いつの夜も決まって、その背をあちらへ向けては。静か、瞼を落とすのである。まあ、黒猫のよう、気紛れに何処へでも行ってしまいそうな彼がこうして傍に居るのだから。余り欲を言えば、罰が当たるだろうけれど。私は、その向けられた白い背に指先を充てがった。―――爪痕だ。無意識であるから仕方がないとは言え、流石に駄目だろう。数時間前だった、情事の際に覆い被さられた時。烈しさに揺れる皮膚へ両手を回しては。然程さほど伸びもしない爪を彼の背に埋めたのである。大概、爪痕の理由は、自身が切り忘れた爪の所為だと思っていたのだが。どうにもそういう訳ではないらしい、今夜、知れた事だった。どれだけ強く抱いたらこんな生傷が出来るのだ、そう、彼の背へ易しく触れた時である。静寂の星灯りの中、寝起きとは違う、はっきりとした声がこの耳に届くのは。

「なにくすぐってんだ、痒いだろ」
「………起き、てたの」 

声色を訊くに、寝言ではないはず。私は咄嗟、彼の皮膚から指先を引き、その声に応えるのだった。寝息は一定だったと言うのに、一体いつから起きていたのだろう。驚きのお陰で、元々醒めていた眼は勿論、脳共々はっきりしていく。

「遊ばれたら、厭でも起きる」
「遊んでないわよ」

眼の前の生傷が、なんて痛々しい。きっと、触れた痛みで起きてしまったのだと察する。背を向けて眠るのも、傷がシーツに充たらない為か、否か。理由こそ解らぬものの、声色はいつも通りなので、特段機嫌が悪い訳ではなさそうだった。それでも、柔らかな星灯りの所為だろうか、彼の声が少しばかり易しく感じる。

「……眠れないのか」
「平気よ、ありがとう。ただ、何となく眼が冴えちゃっただけ」
「……」

すぐ寝るから、そう繋げ応えるも。どうも、心情を見透かされる太刀らしい。彼は振り返りもせず、私の声色だけを頼り、胸内を容易と探りだしてしまうのだった。

「さっさと応えろ」
「なんでもないったら」
「早くしろ、殺すぞ」
「ちょっと、ねえ、脅さないでよ」

冗談と思いつつ、本当だったら今すぐ背筋が凍る。そんな事をされては堪らない、私は少しの間を以て、彼の背に浮く紅い傷跡に再び触れゆく。指腹で撫でれば、蚯蚓腫みみずばれになってしまった奇麗な皮膚が。青白い星に濡れていた。

「ごめんね、傷、また増やしちゃった」

おずおずと小さな声で謝れば、彼はそんな事か、と云わんばかり。呆れを含む溜息を付く。もっとも、彼にとっては些細に思える事だとして、私は違う。何時いつ夜も重ねて傷を増やせば、いつかきっと、消えぬ痣に成り兼ねない。易しく有りたいのに、深層では独占してしまいたいと言う気持ちの表れなのか。いつからか癖になったそれは、ついぞ無意識に直る事をやめていた。こんな事を言ったら、多分、重たい、面倒臭い、など言って。離れていってしまうかもしれないので、口が裂けても言えないが。

「お前が善がった回数分だろ、解り易くていい」
「わ、自身満々」
「は? 違うなら殺す」
「すぐに脅すのはやめてったら」

なんだか段々、可笑しくなってきて。未だ背を向けた彼の温もりに、額を預ける。―――温かかった。生傷は、のちに奇麗と消えてくれるだろうか。もしも消えずに遺ってくれるなら、いっそ、タトゥーのようにいっそ。

「ねえ、ミハ」
「ん」
傷跡これ、痕が遺ってしまったら、ごめんなさい」

身勝手な想いは内に秘め、ただ、彼の背へ身を寄せる。駄目だ、言っては駄目なのに。我儘で、欲深くて、独占に塗れた心臓。どうか、星灯り、月明かり、どちらでもいいから。静寂で易しい光が、どうか赦してくれますように。そう、祈るのだった。そうして次に耳へと届いた、彼の酷く穏やかな声に。私は幾らも駄目に成る。とことん、駄目に、なってしまう。

「―――だから、痛くも痒くもないよ」
「……痛くないなら、タトゥーみたいに、一生。消えなきゃいいのにね」

嫌悪するだろうか、それとも、次に眼を開けた時には。既、その正体をくらましてしまうだろうか。嗚呼、言わなきゃよかった、なんて事。人生に置いて幾らでもあるはずなのに。これ程後悔する日が、こんなにも奇麗な月夜の日など。なんだか、残酷にすら思える。後、彼の白い肌からそっと指先を離したと同時である。背に浮かぶ傷跡が、私に語りかけてくれるのは。

「………爪痕クロウのタトゥーには、幸運が宿ると言われてる」
「素敵。じゃあ、その爪痕から。あなたの背中に幸運の翼が生えるよう……願ってる」

切れた皮膚から翼が生えたなら、なんと奇麗な事だろう。自由に飛んで、好きな所へ行きたい放題ではないか。そうだ、それがいいのだ。我儘で、欲深くて、独占に塗れた私など、生えゆる翼で置いていってくれて構わない。あなたがそうしたいなら、いつだって。―――瞬間だった。今まで、かたくなと背を向けていた彼が、こちらを振り返っては、直線に。ただ、直線に。瞳が重なる。久しぶりに視線が合わさったような気がして、無意識、躍動が駆け足になった。そうして、彼はその腕を伸ばし、この身をきつく、抱き締めるのである。反射的に、私もまた。彼の背中へ手を回すと。やはり、今にも翼が生えそうな生傷が、指先にじくじくと触れるのだ。―――“爪痕のタトゥーには、幸運が宿る”。

「俺に今、翼は必要ない」
「ミハ、」
「……まだ、お前の傍に居たい」

これを幸運と云うなれば。翼など、この世から消えてしまえばいいのだ。奇麗な翼が生えた天使が、悪魔に視えてしまえる程。翼など、要らない。―――私はもう一度、彼の傷跡に爪を立てた。間違って、翼が生えてしまわぬよう、閉じ込めるように。
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