保釈




腹立ち紛れにドカリと後部座席に座ったカガリは、この若い男にこれ以上文句を言っても仕方ないと諦め、不満の矛先をキラへと向けた。
(あいつ…!調子に乗ってんじゃないぞ!!)
車を発進させる運転手はうっかり映ったそのカガリの表情を目撃してしまう。
冥く沈んだ恐ろしいその顔を。



◇◇◇◇


カガリを乗せた車は、静かにアスハ邸へと滑り込んだ。正面玄関へ横付けされた車は、そのまま暫く停止していた。
運転手に小声で促され、漸く助手席の若い男がダルそうに降りて、後部座席のドアを開ける。
「到着致しました。どうぞ」
嫌味のつもりで精一杯恭しく言ってやったのだが、カガリはまるで当然のように車から降りた。それだけではなく「遅い」などと文句を言う始末である。
迎えに来た労を労うでもなく、見向きもせずにツカツカと立ち去るカガリの後ろで、男は小さく舌を打った。カガリに聞こえないように調節されていたのは、これ以上面倒なことにならないためだ。

男がアスハ家で働くようになってから数年。勿論カガリの顔は知っている。だがカガリからは一度も声すらかけられたことはなく、数多いる使用人の一人でしかなかった。
尤も当時の自分もそれが当たり前だと思っていた。別に生まれが卑しいわけではなかったが、雇われてまだ日の浅かった自分からすれば、当主のウズミは文字通り“住む世界の違う人間”だった。当然そのウズミの正統な後継者であるカガリも同様である。時折我が儘に振る舞う様子を目にしたことがあっても、唯一彼女を諌められる立場のウズミが黙認していたので、そういうものなのだと納得してさえいた。
そこで思考停止していたし、自分ごときが声を上げたところで何が変わるはずもない。行き過ぎだと感じる彼女の言動をうっかり目撃してしまって嫌な気分になっても、見て見ぬ振りを貫いた。ぶっちゃけ被害が自分に及ぶわけでもなし、所謂“処世術”のようなものだった。


しかしあの事件以降、ウズミが去り、新しい当主として現れたキラに、その考えを覆された。

以前と何かが変わったかと問われると、正直返答に困る。それでも屋敷の雰囲気は確実に違った。
キラはまず従業員に向け挨拶をし、これからのアスハ家を解体していく方針であることをつつみ隠さず説明した。その上で退職者を募り、希望があれば就職の斡旋もするから考えて欲しいと頭を下げたのだ。長く勤めた者の中には年齢のせいで再就職が難しい者もいる。しかしアスハ家の名前を使えば道は大きく広がるだろう。そこには今までアスハ家を支えてきた人間への明確な“感謝の気持ち”があった。

加えてキラは全ての使用人の名前を覚えているのだ、という出来事があった。
キラが後継者となって一週間ほど経った頃だったろうか。殆どルーティンと化していた庭掃除の途中、滑り込んできた黒塗りの車。如何にもな高級車に、乗っているのが“誰か”などすぐに分かった。丁度車の進路上を掃いていたから、少し下がって妨げない場所へと移動した。気にとめるようなことでもなかったが、程なくして自ら車のドアを開けて後部座席から現れたキラが、自分の方へと小走りに歩み寄ってくるのに気付いた。一体何事かと慌てて頭を下げた男の前に立つと、キラは鞄からペットボトルの水を差し出した。
『これどうぞ。いつも綺麗にしてもらって有難うございます』
男は思わず後ろを振り返った。自分に向けての言葉だと思えなかったからだ。勿論背後に誰もいるはずもなく、漸く自分に対するものだと理解した男が凍りついたのを見て、キラは花が綻ぶような笑顔を見せた。
『お礼を言うのが今になってすいません。僕も忙しくしてて──って言い訳ですよね。書斎の窓から貴方が誰に命令されるでもなく、気付いたらここを掃除してくれているのをずっと見てました。真面目に働いてくれて嬉しいです』
そうしてキラは男の名前を呼んだのだ。名乗った覚えもないというのに。

そんな大したことをしている意識はなかった。勤務時間中に手が空いたらやっていただけのことだ。勿論そんな時間を休憩に当てている使用人もいる。それをとやかく言うつもりはなく、ただの意識の問題だと捉えていた。休憩時間はちゃんと与えられているのだから、それ以外は仕事をするべきだろうという自分ルールのようなもので、他人に押し付けて批判するのはお門違いというものだ。
あとはここに来る前にお世辞にも品行方正ではなかった自分を、雇ってもらった細やかな礼のような気持ちもあっただろうか。借りを作るのはどうにも性に合わない。





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