保釈
・
彼がパトリックに仕えるようになって暫く経つが、主人に逆らって無事でいた人間を見たことがない。いや、かつて一人だけ知っているが、それは息子のアスランだったから許されたようなものだ。
あの時のパトリックは表に出さないからこその恐ろしさで、自分も含め、周囲は散々気をつかって息を殺して仕えるしかなかった。
赤の他人で、しかも使い捨ての駒くらいに思われているハイネに、反論など許されるはずがないのだ。
中年紳士が心に予防線を張った直後、懸念していた事態は発生した。
「きみは何か勘違いをしていないか?」
地の底から響いて来るような声。
文字通り、ハイネは縮み上がった。
「これが依頼という形を取っている間に、引き受けた方が幸せだと私は思うがな」
助けてやりたいと中年紳士は思ったが、ここで余計な口を挟むことなど、元から許されていない。加えて彼も自分の身が可愛いのだ。
ここはザラグループ総裁の我城。
“魔王”のお膝元だ。
驚異に曝されながらもまだピンときていないらしいハイネに、案の定、“魔王”は通告した。
「出奔したとはいえ、きみにとっては大事な家族が、この先も元気に過ごせるかどうかが、きみの働きに左右される、と言えば分かるかな」
(ああ…やはり)
命じられてハイネの家庭の事情を調べたのは、他でもない中年紳士だった。ハイネが難色を示した時に使う、脅しの材料として。
青ざめたハイネに、これ以上の言葉はいらない。せめてもの償いとして、中年紳士はなるたけ優しく声をかけた。
「上手くいくことを祈っています」
ふらふらと巨大な“魔王の城”を出たハイネの脳裏に過るのは、両親や兄弟の嘘くさい笑顔だった。
それを心底嫌ったこともある。彼らはいつも対面を取り繕うばかりで、生活が困窮するほど金銭に困っているくせに、プライドばかりが高いのだ。だというのに夜会があれば新しい服や装飾品を求め、一種のステイタスとばかりに喜び勇んで出席する。参加して他家のアレコレを見下し、噂話をするためだ。
ハイネから見ればそんなものただの時間の浪費にしか思えなかった。共に噂話に興じた人間も、別のところではヴェステンフルス家を嘲笑しているのだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。本当に困った時に助けてくれないどころか、突き放して笑い者にされるような関係に、散財してまで固執する意味が全く理解できなかった。
ハイネはきっと異端だったのだろう。
その証拠に同じ環境に育ち、教育を受けたはずの兄弟たちも、成長するにつけ、両親と同じ笑みを浮かべ、同じ行動をとるようになった。
しかしハイネは違った。
嘘の笑顔を振り撒き、影ではその相手の陰口に興じる。懐がかなり厳しいのを顧みることなく、ゴテゴテと飾り付けて権威ばかりを主張する醜悪さ。
それら全てが愚かしく見えた。だから家を出たのだ。
しかし唾棄するべきはその風習で、家族を嫌いになったのではない。彼らは異端であるハイネにも充分な愛情を与えてくれた。今までそれを疑ったことはない。「変わり者だなぁ」と苦笑しながらも、ここまで育ててくれたのだ。
出奔する道を選んだのも、彼らをこれ以上、軽蔑したくはなかったから。
家族として愛していたからこそ、離れたのだとも言える。
その家族を引き合いに出され、あまつさえ自分の行動如何では傷付けられる可能性を示唆されれば───。
(あーっ!もう!しょうがねーじゃないか!!)
自分も決して褒められたものではない。良くないと薄々気付いていながら、ニコルの依頼を受けたのだから。あれがなければ自分などがパトリックの目に止まることなどあり得なかったし、こうして捨て駒に使われることもなかったはずだ。
重過ぎる代償を抱えて、それでもハイネは決心するしかなかった。
◇◇◇◇
迎えの車から現れた男を見て、カガリは渋面を浮かべた。名前も知らないアスハ家の従者が迎えたのが、気に入らなかったのだ。
労いの言葉ひとつなく、ズカズカと黒塗りの車へと歩み寄ったが、気の効かないその男は扉を開けることもしなかった。それがまた癪に障る。
「───私にドアを開けろというのか?」
低い声で呟かれ、漸く男は後部座席の扉を開けた。
「すいません。どうぞ」
一応そう言葉を添えた男だが、浮かべた不審げな表情を、カガリは見逃さなかった。
男からすればカガリはキラの姉というだけで、あくまで“傷害事件を起こした女”という認識だ。一方のカガリは未だ“アスハ家の一人娘”という気でいる。そこに大きな感覚のズレが生じているのだが、生憎と指摘してやる人間はここにはいなかった。
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彼がパトリックに仕えるようになって暫く経つが、主人に逆らって無事でいた人間を見たことがない。いや、かつて一人だけ知っているが、それは息子のアスランだったから許されたようなものだ。
あの時のパトリックは表に出さないからこその恐ろしさで、自分も含め、周囲は散々気をつかって息を殺して仕えるしかなかった。
赤の他人で、しかも使い捨ての駒くらいに思われているハイネに、反論など許されるはずがないのだ。
中年紳士が心に予防線を張った直後、懸念していた事態は発生した。
「きみは何か勘違いをしていないか?」
地の底から響いて来るような声。
文字通り、ハイネは縮み上がった。
「これが依頼という形を取っている間に、引き受けた方が幸せだと私は思うがな」
助けてやりたいと中年紳士は思ったが、ここで余計な口を挟むことなど、元から許されていない。加えて彼も自分の身が可愛いのだ。
ここはザラグループ総裁の我城。
“魔王”のお膝元だ。
驚異に曝されながらもまだピンときていないらしいハイネに、案の定、“魔王”は通告した。
「出奔したとはいえ、きみにとっては大事な家族が、この先も元気に過ごせるかどうかが、きみの働きに左右される、と言えば分かるかな」
(ああ…やはり)
命じられてハイネの家庭の事情を調べたのは、他でもない中年紳士だった。ハイネが難色を示した時に使う、脅しの材料として。
青ざめたハイネに、これ以上の言葉はいらない。せめてもの償いとして、中年紳士はなるたけ優しく声をかけた。
「上手くいくことを祈っています」
ふらふらと巨大な“魔王の城”を出たハイネの脳裏に過るのは、両親や兄弟の嘘くさい笑顔だった。
それを心底嫌ったこともある。彼らはいつも対面を取り繕うばかりで、生活が困窮するほど金銭に困っているくせに、プライドばかりが高いのだ。だというのに夜会があれば新しい服や装飾品を求め、一種のステイタスとばかりに喜び勇んで出席する。参加して他家のアレコレを見下し、噂話をするためだ。
ハイネから見ればそんなものただの時間の浪費にしか思えなかった。共に噂話に興じた人間も、別のところではヴェステンフルス家を嘲笑しているのだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。本当に困った時に助けてくれないどころか、突き放して笑い者にされるような関係に、散財してまで固執する意味が全く理解できなかった。
ハイネはきっと異端だったのだろう。
その証拠に同じ環境に育ち、教育を受けたはずの兄弟たちも、成長するにつけ、両親と同じ笑みを浮かべ、同じ行動をとるようになった。
しかしハイネは違った。
嘘の笑顔を振り撒き、影ではその相手の陰口に興じる。懐がかなり厳しいのを顧みることなく、ゴテゴテと飾り付けて権威ばかりを主張する醜悪さ。
それら全てが愚かしく見えた。だから家を出たのだ。
しかし唾棄するべきはその風習で、家族を嫌いになったのではない。彼らは異端であるハイネにも充分な愛情を与えてくれた。今までそれを疑ったことはない。「変わり者だなぁ」と苦笑しながらも、ここまで育ててくれたのだ。
出奔する道を選んだのも、彼らをこれ以上、軽蔑したくはなかったから。
家族として愛していたからこそ、離れたのだとも言える。
その家族を引き合いに出され、あまつさえ自分の行動如何では傷付けられる可能性を示唆されれば───。
(あーっ!もう!しょうがねーじゃないか!!)
自分も決して褒められたものではない。良くないと薄々気付いていながら、ニコルの依頼を受けたのだから。あれがなければ自分などがパトリックの目に止まることなどあり得なかったし、こうして捨て駒に使われることもなかったはずだ。
重過ぎる代償を抱えて、それでもハイネは決心するしかなかった。
◇◇◇◇
迎えの車から現れた男を見て、カガリは渋面を浮かべた。名前も知らないアスハ家の従者が迎えたのが、気に入らなかったのだ。
労いの言葉ひとつなく、ズカズカと黒塗りの車へと歩み寄ったが、気の効かないその男は扉を開けることもしなかった。それがまた癪に障る。
「───私にドアを開けろというのか?」
低い声で呟かれ、漸く男は後部座席の扉を開けた。
「すいません。どうぞ」
一応そう言葉を添えた男だが、浮かべた不審げな表情を、カガリは見逃さなかった。
男からすればカガリはキラの姉というだけで、あくまで“傷害事件を起こした女”という認識だ。一方のカガリは未だ“アスハ家の一人娘”という気でいる。そこに大きな感覚のズレが生じているのだが、生憎と指摘してやる人間はここにはいなかった。
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