保釈
・
「───こ、ここに来るまでにずっと考えてたんですが…………すいません。全く分かりませんでした」
謝る必要はないのだが、この男の前ではどんな虚勢もたちどころに霧散してしまう。こうして相手を萎縮させて主導権を握り、思い通りに操るのがパトリック・ザラの手法なのだと気付いたものの、既に術中に嵌まったハイネごときに太刀打ち出来る術など有りはしなかった。
身のほどを弁えたハイネに、パトリックが僅かに満足そうな笑みを浮かべた。
「失礼ながら生活に困窮しているのではないか?」
いきなり極めてプライベートな部分に忖度なしに踏み込まれて、流石にむっとしたハイネの視線が鋭くなる。これだから成金風情は嫌なのだと瞬間的に嫌悪感が湧いた。だが同時にまだこんな矜持が残っていたのだと、我ながら驚いてもいた。
そんな複雑なハイネの心境を知ってか知らずか、表情を変えることなくパトリックが続ける。
「まあそう感情を荒立てずに。別にきみを見下しての発言ではない。寧ろ実家に頼らずに一人で生きているきみを、どちらかといえば評価しているのだよ、私は」
思わぬパトリックの台詞を、受け入れることも拒否することも出来ないまま、ハイネは次の言葉を待った。
「ニコル・アマルフィという名を知っているだろう?」
「───さぁ。どうでしょうか」
当然知っている。だが過去とはいえ依頼人の名を明かすことはハイネの信条に反するものだった。震える拳を握って、強がりだけで答える。
「アマルフィというと、あの有名な?生憎ご当主のお名前くらいしか存じませんね。そのニコルっていう人はご家族の方ですか?」
精一杯虚勢を張って惚けてみたが、パトリックの眉のひとつさえ動かすことは出来なかった。何もかもバレているのだと、背筋の凍る思いがする。
というか、別にハイネの答えなど最初から求めていなかったのだろう。
「先ほども言ったが、私はきみを買っている。その上で仕事を依頼したい」
「────、は?」
何をどうやったらこの流れになるのだろうと、全く展開について行けない。
間抜け面を晒したハイネを慮ることなく、パトリックの話はどんどん先へと進められた。
「近く、カガリ・ユラ・アスハが保釈される」
最早彼女が陥っている事情に、ハイネが関与している前提での発言だ。やはり調べはついているのかとハイネは腹を括ったが、だからといってパトリックが何を言いたいのかは相変わらず謎のままだ。
「あの女も馬鹿なことをしたものだ。想定外だったとはいえ、私の唯一の後継者を命の危険に晒したのだからな」
初めてパトリックが僅かに表情を動かした。隠そうともしない憎しみがどす黒いオーラとなって噴き出し、飲み込まれそうだった。
それまで側で控えながらも空気と化していた中年紳士が身を竦ませる。恐怖を感じたのは、ハイネだけではなかったらしい。
「それで………私に何をしろ、と?」
もうこの異質な空間から、一刻も早く逃れたい一心だった。アスランを傷付けた原因の一端であるハイネに、死ねと命令されても、ここから解放されるなら構わないとさえ思った。
だがパトリックの要求は更にハイネを苦しめるものだったのだ。
「きみにはあの女を再起不能にしてもらいたい」
勿体付けたこれまでのやり取りとはかけ離れた、あまりにもあっさりと告げられた言葉に、一瞬何を言われたのか理解が及ばなかった。
「────、そ、れはどういう…」
聞き間違いであって欲しいという無意識のハイネの願いは、繰り返されたパトリックの言葉で無惨にも叩き落とされた。
「聞こえなかったか?あの女を傷付けろと言ったんだ。殺しても殺し足りん」
「────っ!」
とうとう絶句してしまったハイネに、中年紳士から同情の視線が向けられる。
ハイネの反応は当然だ。パトリックの“用件”とは、ニコルに依頼された案件など、足元にも及ばない重いものなのだから。
実行し、露呈すれば今度はこちらが刑務所行きだ。中途半端なゴロツキ共と鬱々とした日々を送っているだけのハイネに、そんな大それたことが出来ようはずもない。
金のためとはいえ人を傷付けるのは、越えてはならない一線だった。
「無理です!」
咄嗟に出た叫びに、はっとして口を手で覆った。
パトリックから感じる怒りが、真っ直ぐ自分に向けられたからだ。
「あ、いや……」
慌てて取り繕おうとするも、上手い言葉が出てこない。その間にもどんどん室内の雰囲気は悪くなり、刺々しさが物理的に体を刺してくるようだった。
蛇に睨まれた蛙状態のハイネを、発言権のない中年紳士は眉を下げて眺めていた。本心からの同情だった。
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「───こ、ここに来るまでにずっと考えてたんですが…………すいません。全く分かりませんでした」
謝る必要はないのだが、この男の前ではどんな虚勢もたちどころに霧散してしまう。こうして相手を萎縮させて主導権を握り、思い通りに操るのがパトリック・ザラの手法なのだと気付いたものの、既に術中に嵌まったハイネごときに太刀打ち出来る術など有りはしなかった。
身のほどを弁えたハイネに、パトリックが僅かに満足そうな笑みを浮かべた。
「失礼ながら生活に困窮しているのではないか?」
いきなり極めてプライベートな部分に忖度なしに踏み込まれて、流石にむっとしたハイネの視線が鋭くなる。これだから成金風情は嫌なのだと瞬間的に嫌悪感が湧いた。だが同時にまだこんな矜持が残っていたのだと、我ながら驚いてもいた。
そんな複雑なハイネの心境を知ってか知らずか、表情を変えることなくパトリックが続ける。
「まあそう感情を荒立てずに。別にきみを見下しての発言ではない。寧ろ実家に頼らずに一人で生きているきみを、どちらかといえば評価しているのだよ、私は」
思わぬパトリックの台詞を、受け入れることも拒否することも出来ないまま、ハイネは次の言葉を待った。
「ニコル・アマルフィという名を知っているだろう?」
「───さぁ。どうでしょうか」
当然知っている。だが過去とはいえ依頼人の名を明かすことはハイネの信条に反するものだった。震える拳を握って、強がりだけで答える。
「アマルフィというと、あの有名な?生憎ご当主のお名前くらいしか存じませんね。そのニコルっていう人はご家族の方ですか?」
精一杯虚勢を張って惚けてみたが、パトリックの眉のひとつさえ動かすことは出来なかった。何もかもバレているのだと、背筋の凍る思いがする。
というか、別にハイネの答えなど最初から求めていなかったのだろう。
「先ほども言ったが、私はきみを買っている。その上で仕事を依頼したい」
「────、は?」
何をどうやったらこの流れになるのだろうと、全く展開について行けない。
間抜け面を晒したハイネを慮ることなく、パトリックの話はどんどん先へと進められた。
「近く、カガリ・ユラ・アスハが保釈される」
最早彼女が陥っている事情に、ハイネが関与している前提での発言だ。やはり調べはついているのかとハイネは腹を括ったが、だからといってパトリックが何を言いたいのかは相変わらず謎のままだ。
「あの女も馬鹿なことをしたものだ。想定外だったとはいえ、私の唯一の後継者を命の危険に晒したのだからな」
初めてパトリックが僅かに表情を動かした。隠そうともしない憎しみがどす黒いオーラとなって噴き出し、飲み込まれそうだった。
それまで側で控えながらも空気と化していた中年紳士が身を竦ませる。恐怖を感じたのは、ハイネだけではなかったらしい。
「それで………私に何をしろ、と?」
もうこの異質な空間から、一刻も早く逃れたい一心だった。アスランを傷付けた原因の一端であるハイネに、死ねと命令されても、ここから解放されるなら構わないとさえ思った。
だがパトリックの要求は更にハイネを苦しめるものだったのだ。
「きみにはあの女を再起不能にしてもらいたい」
勿体付けたこれまでのやり取りとはかけ離れた、あまりにもあっさりと告げられた言葉に、一瞬何を言われたのか理解が及ばなかった。
「────、そ、れはどういう…」
聞き間違いであって欲しいという無意識のハイネの願いは、繰り返されたパトリックの言葉で無惨にも叩き落とされた。
「聞こえなかったか?あの女を傷付けろと言ったんだ。殺しても殺し足りん」
「────っ!」
とうとう絶句してしまったハイネに、中年紳士から同情の視線が向けられる。
ハイネの反応は当然だ。パトリックの“用件”とは、ニコルに依頼された案件など、足元にも及ばない重いものなのだから。
実行し、露呈すれば今度はこちらが刑務所行きだ。中途半端なゴロツキ共と鬱々とした日々を送っているだけのハイネに、そんな大それたことが出来ようはずもない。
金のためとはいえ人を傷付けるのは、越えてはならない一線だった。
「無理です!」
咄嗟に出た叫びに、はっとして口を手で覆った。
パトリックから感じる怒りが、真っ直ぐ自分に向けられたからだ。
「あ、いや……」
慌てて取り繕おうとするも、上手い言葉が出てこない。その間にもどんどん室内の雰囲気は悪くなり、刺々しさが物理的に体を刺してくるようだった。
蛇に睨まれた蛙状態のハイネを、発言権のない中年紳士は眉を下げて眺めていた。本心からの同情だった。
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