保釈





「ふん、べっつにお前のことなんかどうでもいいさ。俺たちに迷惑さえがかかんなきゃな」
チンピラたちはすぐに興味を失ったのか、元いた場所へと散り散りになっていった。

自分の周囲から人の気配がなくなったのを慎重に確認した後、漸くハイネは握り締めた指を開き、落ち着いてメモの内容を眺める。
そこに書かれていた場所は、ザラグループの本社社屋。なんとなく身震いした(武者震いだと思いたい)ハイネは、紙片ごと再び強く拳を握り締めた。

結局外せない用事など出来ないまま、あっという間に過ぎた10日間を経て、やって来たハイネだったのだが──




あの日手にした紙片が穴あきジーンズのポケットの中で音を立てて主張する。まるで自分を待っている人物を改めて意識させるかのように。

その会社を知らない人間はこの国にはいないだろう。しかしそのトップに君臨する男の名を知る者は意外と少ないのではないだろうか。だがハイネの幼少期からの教育は伊達ではなかったようで、遣いの男と対峙した時に自然に出た振る舞いと同様、国を動かす要人は全て頭に入っている。だからあの男の“主人”とやらがザラグループトップのパトリックだというのは疑いようもなかった。
しかし記憶の隅をいくら掘り起こしても、ザラグループ総帥が自分を呼びつける理由に見当がつかない。唯一の接点(と言えなくもない)は、あのアスハ家の元後継者の女を嵌めたことである。
ザラ家の後継者として磐石な立場を誇る子息のアスラン・ザラ。カガリ・ユラ・アスハはその許嫁者だった。ザラ家がアスハ家の名を欲した故の婚姻なのだろうと、小耳に挟んだ時は、特別気にもならなかった。そしてその婚約は、カガリの素行の悪さや後に起こした傷害事件によってすぐに破談となっのは、ハイネも良く知るところだ。
後腐れないビジネスのつもりで引き受けたとはいえ、そのきっかけを手引きしたのは他ならぬ自分で、ザラ家の力を使えばそんな調べはすぐにつく。つまりハイネはパトリックの目論見を邪魔した存在だともいえるのだ。
もしも今回の用件がそれに対する報復だとしたら、ハイネは生きてこの建物から出られないだろう。

ハイネがそびえ立つ社屋に圧倒されるだけではなく、身の内から恐怖してしまうのも無理からぬことであった。




容姿で採用したのではないかと疑う美しい受付嬢に名乗ると、およそ場にそぐわない格好のハイネにも、そつなく対応してくれる。話は通っていたようだ。
案内された通りの奥まったエレベーターに乗り込み、教えられた通りのボタンを順番に押していく。
「…………なっさけねー」
隠しようもなく指が震えるのに、ハイネはポツリと吐き捨てた。
依然、パトリック・ザラの用件はハッキリしないままだ。いくら考えても“名家”の中でも末端のヴィスティンフルスの、しかも出奔して堕落した自分をわざわざ呼び出す理由はない。ならばやはりパトリックの用件とはカガリに纏わる案件に違いないのだが、ハッキリしないことが一層不安を掻き立てるのだ。
せめてこれ以上情けないところのないようにと、最上階に着くまでに、ハイネは俯きがちだった胸を張った。
目的の扉はもうすぐそこだ。


時間を確認し、気合いを入れてひとつしかない扉をノックする。程なくして顔を出したのは、予想通りあのバーを訪れた中年紳士だった。
「お越しいただいて有難うございます」
「失礼します」
会釈の後頭を上げると、重厚な机の向こうに、異様に重々しい雰囲気を漂わせた男が座っていた。中年紳士もかなりのものだったが、比較にならない圧である。幼少期からの教育など瞬時にして吹き飛ぶ畏怖を抱かされた。

これがパトリック・ザラなのだ。


立ち尽くすしかないハイネに言い様のない視線を向けた後、パトリックは重々しく告げた。
「掛けたまえ」
言われるまですぐ側にあった応接セットに気付かなかった。呼びつけておいてあくまでも上から目線の姿勢を崩さないパトリックだが、反発心すら湧きそうにない。
半ば操られるマリオネットのようにフラフラと歩き、示されたソファに座る。あまり重要ではない来客用に誂えただけの簡単な応接セットのはずが、おそろしく体が沈んで慌てて背筋を伸ばして座り直すはめになった。
パトリックは移動ぜず相変わらず巨大な机の向こうである。

「何故きみが呼ばれたと思う?」
いきなり痛いところに切り込まれて、絶句するしかなかった。いつの間にか喉がカラカラに乾いている。
一言発するだけでも大変な労力を必要とした。





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